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第35話「過去.......そして、決別の刻」

 夢だった。


 いや――どちらかといえば記憶、そう言った方が正しいのかもしれない。


 それほどまでに曖昧で、不確かで、どこか切なげな、そんな俺のお話だ.......


 ――炎が降っていた。


 夜空は赤黒く裂け、その裂傷の奥から溢れ出した業火が、まるで世界そのものを裏側から焼いているかのように大地を舐めていく。


 都市を囲っていた白亜の城壁は半ばから崩れ落ち、石畳には蜘蛛の巣のような亀裂が走り、崩壊した塔の残骸が燃えながら空へ黒煙を吐き出していた。


 耳を澄ませば、あらゆる音が混ざり合っている。


 遠くで響き続ける鐘の音、誰かの悲鳴、崩れた建物の下で軋む鉄骨の音、そして........その全部を覆い潰すように響く、“門”の開く音。


 それは音というより、世界の骨が軋む感覚に近かった。


 この世に存在してはいけない何かが、無理やり境界を押し広げながら侵入してきている。そんな嫌悪感を、空気そのものが孕んでいる。


 幼い俺は、その光景の中心に立っていた。


 右腕に刻まれた黒銀色の紋様が、心臓と同じ速度で脈打っている。


 熱い。


 けれど、その熱は炎の熱とは違った。


 もっと内側――骨の奥や、血液の流れる音のさらに深い場所で、何かが目を覚ましているような感覚だ。


 呼吸をするたび、肺の中へ黒い炎を流し込まれているみたいに苦しくて、それでも.......門印だけは嬉しそうに明滅を繰り返している。


 まるで、自分が本来いるべき場所へ帰ってきたとでも言うように。


 「……また制御を失ったのか」


 不意に、背後から低い声が聞こえた。


 振り返る。


 瓦礫の山の向こう、炎に染まる街の中を、ひとりの男がゆっくり歩いてくる。


 長い黒衣は不自然なほど炎の熱に揺らがず、夜を切り抜いて形にしたような黒髪だけが、燃え盛る風景の中で静かに揺れていた。


 地下水路で出会ったあの男。


 けれど今の彼は、あの時より少しだけ若く見えた。


 いや、違う........


 表情だ。


 あの時のような底知れない笑みではなく、どこか呆れたような諦めを含んだ、されど少しの愛を感じる、そんな顔をしている。


 俺は答えられなかった。


 喉が焼けつくように痛かったし、自分の中で暴れ続けている何かを抑えるだけで精一杯だった。


 視界が明滅する。


 足元の石畳へ、黒い炎が滲むみたいに広がっていく。そのたびに周囲の建物が軋み、崩れ、炎が勢いを増していた。


 男はそんな光景を一瞥すると、小さくため息を吐いた。


 「本当に厄介だな。“門守”っていうのは」


 その言葉だけが妙にはっきり耳へ残った。


 ”門守“


 地下水路でも聞いた単語。


 なのに、なぜか胸の奥がざわつく。


 知らない言葉のはずなのに、身体のどこかがその響きを覚えていた。


 俺は震える呼吸を繰り返しながら、掠れた声を絞り出す。


 「……みんな……」


 男は答えなかった。


 だが、その沈黙だけで十分だったのだ。


 瓦礫の下から伸びた手、炎に飲まれた街路、さっきまで誰かがいた場所、笑っていた人間が、確かに存在していた場所。


 その全部が、黒く焼け落ちている。


 「俺、が……?」


 指先が震えた。


 右腕の門印が、それに呼応するように脈打つ。


 すると男は静かに首を横へ振った。


 「違う」


 その声は不思議なくらい穏やかだった。


 「壊したのはお前じゃない。お前はただ、“開いた”だけなんだ」


 男の視線が、俺の右腕へ落ちる。


 そこに宿る力を見ているはずなのに、彼の目には恐怖も嫌悪もなかった。


 ただ、長い時間を生きた人間だけが持つ疲労の色が滲んでいる。


 「門は、一度開けば境界の外を引きずり込む。炎も、闇も、終わりも、生も死も関係なくな。だから世界は、“門守”を必要とした」


 男は崩れた柱へ腰を下ろしながら、まるで昔話でも語るみたいに続ける。


 「開いた門を閉じる存在。境界を縫い合わせる存在。世界が壊れ切る前に、無理やり繋ぎ止めるための役割だ」


 俺には、ほとんど理解できなかった。


 ただ、その言葉だけが妙に胸へ沈んでいく。


 自分の中に最初からあったものを、今さら他人に説明されているような、不気味な感覚だった。


 「……わからない」


 正直にそう言うと、男は少しだけ目を細めた。


 炎の光が、その横顔を赤く染める。


 それでも瞳だけは暗いままだった。


 「今はそれでいい。お前はまだ半端だ」


 半端.......


 その言葉が、やけに冷たく胸へ刺さる。聞き返そうとした瞬間、遠くで鐘の音が鳴った。低く、重く、まるで世界の終わりを告げるみたいな音だった。


 男が空を見上げる。俺もつられるように顔を上げた。


 裂けた空の中心.......


 そこには、“巨大な門”があった。


 空そのものへ亀裂を刻んだような巨大な黒。見ているだけで吐き気がした。


 本能が理解してしまう。


 あれが完全に開けば、全部終わる。


 都市も、人も、世界そのものも、境界の向こう側へ呑み込まれる。


 男が立ち上がった。


 黒衣の裾が静かに揺れる。


 「……時間切れか」


 「待て……!」


 俺は咄嗟に手を伸ばした。だが、力が入らない。膝から崩れ落ちる。身体の内側で暴れる炎が、骨を軋ませるほど熱かった。


 男はそんな俺を見下ろしながら、静かに言った。


 「覚えておけ」


 その声だけが、妙に優しかった。


 「お前は世界を壊せる」


 ぞくり、と背筋が粟立つ。


 それでも........男は続ける。


 「だが同時に――お前だけが、世界を閉じることができる」


 意味なんてわからない。


 けれども、その言葉だけは恐ろしいほど鮮明に胸へ残った。


 男が背を向ける。


 その先には、崩れかけた世界と、空を裂く巨大な門。終末の景色の中で、彼だけが異様なほど静かだった。


 「次に会う時までに、思い出しておけ」


 男が振り返る。


 漆黒の瞳が真っ直ぐこちらを見た。


 「お前が何者なのかを.......な」


 次の瞬間、視界が赤黒い炎に呑まれた。


 崩れる世界、砕ける空、飲み込まれていく景色の中で誰かが泣いていた。


 銀色の髪が揺れる。伸ばされた細い指先。けれど、その顔だけがどうしても見えない。


 見えそうになるたび、記憶の奥へモザイクをかけるように、霧がかかる。


 ただ最後に、その声だけが耳へ残った。


 『――絶対に、忘れないで』


 そこで、記憶は唐突に途切れた。


 そして、そして、そして........


 最後に男が放った言葉、それは周囲の音によってかき消されていて、まともに聞き取ることはできなかった。


 ただ.......どこか“感覚“で俺は理解していたのだろう。その言葉の重み、さらには.......その重要性を。


 「余計なことはするなよ」


 .......と、どこか聞き馴染みのあるようなそんな言葉だった。

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