第38話 ノロ対応の夜は、手袋の音が増える
ノロ対応が始まった夜は、施設の音が変わる。
ナースコールの音は同じ。
足音も同じ。
でも、そこに手袋をはめる音と、ガウンを広げる音と、ビニール袋を結ぶ音が混ざる。
それだけで、フロアは少しだけ戦場になる。
「主任、夜勤入りました」
夜勤者が、いつもより硬い顔で申し送りを受ける。
「桐原さん、嘔吐複数回。感染性胃腸炎疑い。居室対応。食止め。補水優先」
「はい」
「食堂は使用制限。近くにいた利用者さんは観察。吐いたらノロ。下痢でもノロ。違っても、まずノロ」
「はい」
返事が多い夜は、だいたい重い。
勇者こと桐原正志さんは、ベッドで横向きになっていた。
顔色は悪い。
でも、目は開いている。
「戦況は」
第一声がそれだった。
「拡大なしです」
「勝っては?」
「いません」
「なら、持ちこたえているだけか」
「そうです」
こういう時でも言葉が通るのは助かる。
枕元には、バケツ。
袋。
ペーパー。
手袋。
いつもの居室ではない。
「装備が増えたな」
「感染対応です」
「俺が、発生源か」
「確定ではありません」
少し間が空いた。
「……すまん」
「謝らなくていいです」
「だが、広げるな」
「そのためにやっています」
勇者は、ようやく目を閉じた。
責任ではない。
でも本人は気にする。
だから、そこは先に止める。
「桐原さんのせいではありません」
「……そうか」
「そうです」
「なら、指揮は任せる」
「寝てください」
「……了解」
廊下に出る前に、手袋を外す。
手指消毒。
ガウンを外す。
もう一度、手指消毒。
夜勤者が横で見ている。
「主任、これ毎回ですか」
「毎回です」
「時間かかりますね」
「広がるより早いです」
それで納得してくれるなら十分だ。
食堂は、まだ少しだけ臭いが残っていた。
消毒は終わっている。
それでも、今日の食堂は食堂ではない。
誰も真ん中を横切らない。
椅子の位置も変えてある。
配膳車も別の場所に置いてある。
若手職員が、いつもなら使う布巾を手に取りかけた。
「それじゃない」
「え?」
「今日は使い捨て」
「あ、はい」
こういう小さいところで、広がる。
派手なことじゃない。
手に取る布巾一枚の話だ。
四人部屋は、いつもより静かだった。
賢者の秋月修造さんは、天井を見ている。
「一晩では、答えは出ないな」
「そうですね」
「つまり、眠れない」
「寝てください」
「情報が足りない」
「今のところ、増えてません」
「……なら、寝る」
本当に目を閉じた。
情報提供は、時々、眠剤より効く。
戦士の岩本忠夫さんは、左手で柵を握っていた。
「……入口は」
「閉めています」
「……なら、いい」
それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
水野澄江さんは、病み上がりの顔でこちらを見た。
「桐原さん、気にしてるでしょう」
「気にしています」
「そういう人だから」
「そういう人ですね」
「……戻ってきたばかりなのに、来るのね」
「来ます」
施設って、そういう場所だ。
聖女は小さく息を吐いた。
「じゃあ、今日は守られる日ね」
「そうしてください」
「……そうするわ」
それができるなら、今日はまだ大丈夫だ。
夜の配膳は、食堂ではなく居室対応になった。
トレーの順番を変える。
入る部屋を分ける。
下げる物も分ける。
それだけで、職員の動きが一段ぎこちなくなる。
「主任、これで合ってますか」
若手が、トレーを持ったまま固まっている。
「感染疑いの部屋は最後」
「はい」
「入る前に手袋。出たら替える」
「はい」
「手袋替える前に、次のトレー触らない」
「……はい」
今、少し触りそうだった。
見逃さない。
夕食というより、訓練に近い。
でも、こういう時の訓練は、本番でしか来ない。
二十時過ぎ。
ナースコール。
表示は、桐原正志。
「来たな」
夜勤者が言った。
「来たね」
私たちは手袋をはめる。
ガウンを着る。
いつもの一動作が、今日は一つ多い。
居室に入ると、勇者が眉間に皺を寄せていた。
「腹が、動く」
嫌な言葉だった。
「便意ですか」
「……そうだ」
「対応します」
「すまん」
「謝らない」
「……分かった」
下痢だった。
予想通り。
でも、予想通りだから楽、ということはない。
体位を整える。
汚染を広げない。
袋に入れる。
手順を飛ばさない。
勇者は、顔色を悪くしたまま天井を見ていた。
「戦場なら、これで終わる」
「ここは施設です」
「終わらないのか」
「終わりません」
「……助かるな」
こんな時だけ、妙に素直になる。
処理を終えて廊下に出る。
手袋を外す。
手指消毒。
ガウンを外す。
また手指消毒。
夜勤者が小さく息を吐いた。
「主任、下痢ありですね」
「あり」
「広がったってことですか」
「本人の症状が進んだだけ。まだ他には出てない」
「そこ、分けるんですね」
「分けないと、全部怖くなる」
怖いのは悪くない。
でも、怖がり方を間違えると手が止まる。
二十二時。
別の居室からコールが鳴った。
「お腹が痛いって言ってます」
一瞬、空気が固まる。
「誰?」
名前を聞く。
昼に食堂で近くにいた人だった。
「PPEで行く」
「はい」
結果は、排便なし。
嘔吐なし。
発熱なし。
腹部不快だけ。
「記録には残します」
「ノロですか?」
「まだ違う」
「でも、疑う」
「そう」
疑うことと、決めつけることは違う。
そこを間違えると、現場はすぐ混乱する。
ナースステーションに戻ると、看護師が言った。
「今夜は長いね」
「ですね」
「一人で止まれば勝ち」
「まだ勝ち名乗りは早いです」
「勇者みたいなこと言うね」
「やめてください」
少しだけ笑えた。
笑えたなら、まだ回っている。
深夜一時。
四人部屋を巡視する。
勇者は眠れていないが、嘔吐はない。
腹痛は残る。
顔色は少しだけ戻った。
「戦況は」
「拡大なし。ただし警戒継続」
「負けてはいないな」
「勝ってもいません」
「分かっている」
分かっているならいい。
賢者が、目を閉じたまま言った。
「一晩では足りない」
「寝てください」
「明日も見る」
「見ます」
「なら、寝る」
また目を閉じた。
戦士が低く言う。
「……守れてる」
「まだ途中です」
「……途中でも、守れてる」
その言葉は、少しだけありがたかった。
聖女は、うとうとしながら言った。
「桐原さん……」
「落ち着いてきています」
「そう……」
「澄江さんも寝てください」
「……うん」
病み上がりには、ノロ対応の空気だけでしんどい。
それでも彼女は、余計なことを言わなかった。
明け方。
嘔吐の追加なし。
勇者の下痢は一回。
他利用者の嘔吐なし。
腹部不快の人も、その後は落ち着いている。
フロア全体は、ぎりぎり保った。
朝の申し送りは硬かった。
「桐原さん、夜間下痢一回。嘔吐追加なし。微熱程度。補水継続。感染性胃腸炎疑いで対応継続」
「他利用者は?」
「一名、腹部不快訴えあり。嘔吐・下痢なし。経過観察」
「食堂は?」
「本日も制限。居室配膳継続」
「消毒は?」
「強化継続」
言葉が全部、四角い。
でも、それでいい。
申し送りが終わったあと、若手職員が小さく息を吐いた。
「主任、広がってないって言っていいんですか」
「まだ言わない」
「ですよね」
「でも、初夜は越えた」
それだけは、言っていい。
居室に戻ると、勇者が目を開けた。
「……初夜は越えたか」
「越えました」
「勝利ではないな」
「はい」
「だが、守りは崩れていない」
「その通りです」
勇者は、少しだけ口元を緩めた。
「なら、耐える」
世界は救われなかった。
ノロかどうかも、まだ確定していない。
でも、吐いた夜を、広げずに越える。
それだけで、施設にとっては大きな一歩だ。
今日はまだ、勝利宣言はしない。
ただ、守りは崩れていない。
今回は、ノロ対応そのものよりも、
「施設全体が少しだけ戦場になる夜」を書きました。
嘔吐や下痢が出た時点で、
それはもう一人の体調不良だけではなく、
フロア全体の警戒に変わります。
ただ、本文でも書いた通り、
まだ「勝った」とは言えません。
ノロかどうかも確定していない。
他の利用者さんに広がるかどうかも分からない。
だから現場は、決めつけず、でも甘く見ずに動きます。
このあたりが、感染対応のしんどいところです。
PPEを着る。
手袋を替える。
消毒する。
居室対応にする。
食堂を制限する。
一つ一つは地味です。
でも、この地味な作業を飛ばさないことで、
「一人で止まる」可能性が出てきます。
派手な医療処置ではなく、
手袋を外す順番とか、
布巾を使い捨てにするとか、
そういう細かいところで勝負が決まる。
感染対応は、かなり泥臭い仕事です。
世界は救われていません。
でも、初夜は越えました。
まだ勝利宣言はできませんが、
守りは崩れていません。




