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異世界帰還者(本物)、認知症扱いで特別養護老人ホームにまとめて入居しました ~勇者・聖女・賢者・戦士、全員要介護4以上です~  作者: 月白ふゆ


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第37話 大きな特変は、食堂から始まる

大きな特変は、

たいてい、何でもない顔をして始まる。


昼食の配膳が終わり、

全員のトレーが並ぶ。


今日は魚の煮付けと、

やわらかくした副菜。

汁物はとろみ付き。


いつも通りだ。


本当に、いつも通りだった。



「今日は、少し多いな」


勇者こと、桐原正志さんが膳を見て言う。


「規定量です」


「……前線向きではない」


「今日は食堂です」


「……分かっている」


返事はある。

食欲もある。

その時点では、何もおかしくなかった。



一口目。

二口目。

三口目。


「桐原さん、ゆっくりで」


「……了解」


返事は、いつも通り。

でも、その直後だった。


手が止まる。

顔が少しだけ上がる。

視線が、宙に浮く。


嫌な予感が、先に来た。



「……まずい」


小さく、勇者本人が言った。


次の瞬間、

えずき込み。

そして嘔吐。


私は反射でトレーを引き、

顔を横へ向ける。


「吐いていいです、前じゃなくて横」


「……っ」


一度では終わらない。

二回。

三回。


食堂の空気が、一瞬で変わる。


「全員、食事中止!」


声が出たのは、

考えるより先だった。


周囲の職員が一斉に動く。


「配膳止めて!」

「食べてる人、手を止めてください!」

「近くの人は触らないで、そのまま待って!」

「看護師呼んで!」

「手袋、ガウン、マスク!」


いつもの食堂が、

一秒で対応モードに切り替わる。



最初にやるのは、

吐いた人を見ることと、

広げないことの二つだ。


私は勇者の呼吸を確認する。

意識あり。

顔色は悪いが、返答はある。


「桐原さん、聞こえますか」


「……聞こえる」


「気持ち悪さ、まだありますか」


「……ある」


「腹痛は?」


少し間が空く。


「……腹が、変だ」


それで十分だった。



同時に、食堂側では動線を切る。


他利用者のトレーを一斉に下げる。

近くの席の人をまず離す。

車椅子の人は職員が押して距離を取る。


「一度お部屋戻ります」

「あとで説明します」

「今は手を洗いましょう」


説明より、先に隔離。

納得より、先に動線。



看護師が到着する。


「主任、ノロ想定でいきます」


「はい」


迷わない。


“ただの食べ過ぎかも”

“誤嚥かも”

そう思って一拍遅れる方が怖い。


吐いた時点で、

まずは感染性胃腸炎対応。

それが施設だ。



「食堂、一時閉鎖します!」


看護師の声が飛ぶ。


若手職員が足を止める。


「どこまで閉めますか」


「吐物周囲は立入禁止。

 まず半径二メートルは汚染区域で見ます」


「二メートル……」


「飛沫は見えないから。見える所だけ拭けば終わりじゃない」


その説明で、全員の手が速くなる。



例の三人も、

すぐに様子が変わった。


賢者が低く言う。


「感染性か」


「可能性高いです」


「接触動線は?」


「今から切ります」


戦士が短く。


「……撤退だな」


「はい、全員居室です」


澄江さんは、病み上がりの顔で小さく息を吐いた。


「……私たちも、食事止めたほうがいい?」


「止めます。部屋で様子見です」


勇者の嘔吐を見た時点で、

同席者は“次”の候補になる。



ここからが、

本格的なノロ対応だ。


まず、素手で触らない。

次に、乾いたまま拭き広げない。

そして、一人が処理し、一人が外で補助する。


若手が慌てて雑巾を持ってこようとしたので、

私は止めた。


「雑巾じゃない。使い捨て」


「はい!」


「あと、ガウン・手袋二重・マスク。可能ならフェイスシールド」


「そこまでですか」


「吐物処理はそこまでです」


過剰なくらいでいい。

甘い方が事故になる。



食堂の床は、

もう“ただ汚れた場所”ではない。


まず吐物をペーパーで静かに覆う。

飛ばさない。

こすらない。

寄せ集めるように取る。


次亜塩素酸を準備する。

濃度確認。

処理用と環境用を分ける。


「主任、先に拭きますか」


「先に覆って、取って、それから消毒。

 いきなり広げない」


「はい」


「取ったものは二重に袋。

 外袋の外側も汚染扱いで」


現場は、

“見えない汚れ”を前提に動く。



椅子の脚。

テーブルの縁。

床だけじゃない。


勇者が吐いた瞬間に、

どこへ飛んだか分からないものを全部拾う。


「ここもですか」


「ここも」


「配膳車の取っ手も?」


「触ったならやる」


「手すりは」


「やる」


“やりすぎだった”は後で笑える。

“足りなかった”は笑えない。



桐原さんは、

居室へ戻したあとももう一度吐いた。


「……不覚だ」


「不覚じゃないです」


「戦場なら、これで終わる」


「ここは施設です。終わりません」


「……それは、助かるな」


こんな時でも返すあたり、

まだしっかりしている。



看護師が評価する。


「発熱、微熱。脈やや速い。血圧は保ててる」

「腹痛あり、嘔吐複数回」

「感染性胃腸炎疑い」


その場で医師報告。

指示受け。

食止め。

補水優先。

観察強化。


必要なら点滴、搬送判断。

ここは一気に決める。



フロア全体へ周知が飛ぶ。


「本日、食堂で嘔吐あり。ノロ対応開始」

「接触者リスト作成」

「同席者は食事中止、居室観察」

「トイレ・手すり・食堂周辺の消毒強化」

「職員はPPE徹底」

「下痢・嘔吐者出たら即報告」

「処理担当以外は汚染区域に入らない」


もう、

“勇者一人の問題”ではない。


施設全体の問題になる。



ナースステーションでは、

紙が増える。


誰が近くにいたか。

どの職員が初動に入ったか。

同席者は誰か。

食器はどうしたか。

吐物処理に入った職員は、

そのあとどこを触ったか。


接触歴の整理は、

後から効いてくる。



「主任、食器はどうします?」


「同席分は全部別管理。

 下げ方も分けて。

 共用の布巾は使わない」


「洗浄前の保管場所も分けます」


厨房とも共有がいる。


ノロは、フロアだけで終わらない。



「主任……これ、完全に大きいやつですか」


若手職員が、ガウン姿で言う。


「そう思って動いて」


「まだ一人ですよね」


「一人で済むなら、後で笑えばいい」


今は笑わない。



夕方。


最初の接触者確認。

どの職員が近くにいたか。

どの利用者が同じテーブルだったか。

どこに配膳車が止まっていたか。

配膳担当は誰か。

手洗いの再確認はできたか。


ため息も増える。

でも、ここで雑になると広がる。



四人部屋は、

いつもよりずっと静かだった。


賢者が言う。


「最悪の事態を、想定していいか」


「してください」


「今夜、増える可能性がある」


「あります」


戦士が低く言う。


「……守りは、広げる」


「お願いします」


澄江さんは、

病み上がりの顔で小さく息を吐いた。


「……このタイミングで来るのね」


「来ます」


施設って、そういう場所だ。



夜勤前。


私は全職員にもう一度言う。


「今日は、吐いたらノロです。

 違っても、まずノロで動いてください」


「下痢だけでも報告でいいですか」


「いいです。

 食欲低下、腹痛、微熱も拾って」


「家族対応は」


「相談課と共有。説明は一本化」


誰も反論しない。


現場では、

“過剰だった”は後で直せる。

“甘かった”は取り返せない。



消灯前、

勇者は少し落ち着いた顔で言った。


「……広げるなよ」


「広げないために、今みんなが動いてます」


「……すまん」


「謝らなくていいです」


感染に、

誰の責任もない。



世界は救われなかった。

しかも今日は、

施設全体が少しだけ戦場になった。


でも、

大きな特変ほど、

手順がものを言う。


吐いたあとに何をするか。

誰を止めるか。

どこを汚染とみなすか。


その積み重ねで、

広がるものも、止まる。


今夜は、静かじゃない。

けれど、ここからが本番だ。

ノロ対応は、介護現場の中でも

かなり“空気が変わる”場面です。


転倒や発熱は、その人個人の対応で済むことが多いですが、

嘔吐・下痢は一気に施設全体の問題になります。


だから現場では、

「ノロかどうか確定してから動く」のではなく、

ノロだと思って先に動くのが基本です。


過剰対応だったら、後で緩めればいい。

でも最初が甘いと、広がったあとでは取り返せません。



今回の回で書いた

ガウン、手袋、マスク、フェイスシールドなどは、

まとめて PPE と呼ばれます。


PPEとは


Personal Protective Equipment の略で、

日本語では 個人防護具 と言います。


簡単に言うと、

職員自身を守るための装備です。


代表的なものは、


手袋


マスク


ガウン(使い捨てエプロンや防水ガウン)


フェイスシールド


必要に応じてキャップやシューカバー



などです。



ノロ対応でPPEが大事なのは、

「自分が汚れないため」だけではありません。


職員が媒介になって広げないためです。


たとえば、

吐物を処理した手袋でドアノブを触る。

ガウンの袖でベッド柵に当たる。

処理後に手洗いが甘いまま次の居室へ入る。


これだけで、

感染は普通に広がります。


なのでPPEは、

着ることそのものよりも


どこで着るか


どこで脱ぐか


何を触ったか


脱いだあと何をするか



ここまで含めてが運用です。



現場あるあるとしては、

新人ほど「とりあえず着れば安心」と思いがちです。


でも本当は逆で、

脱ぎ方のほうが大事だったりします。


汚れた手袋のままマスクを触る。

ガウンの表面を持って脱ぐ。

脱いだ後にスマホを触る。


このへんで、

せっかくの防護が帳消しになる。


だからノロ対応って、

実はかなり“手順の仕事”です。



あと、PPEを増やすと

現場はものすごく暑いし、動きにくいです。

視界も悪くなるし、息もしづらい。


それでも着るのは、

一人の嘔吐を一人で終わらせるためです。


そこに成功すると、

翌日のフロアが全然違います。



世界は救われていませんが、

PPEはちゃんと着ました。


そして、

着たまま雑に動かないこと。

脱いだあとに手を洗うこと。

そこまでやって初めて、ノロ対応は成立します。


地味ですが、

かなり大事な現場の技術です。

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