第36話 転送陣、再起動
退院後、最初の入浴は、
だいたい職員のほうが緊張する。
「主任、水野さん……今日、どうします?」
入浴担当が、予定表を見ながら聞いてくる。
「やる」
「いけますかね」
「いけるようにやる」
無理はさせない。
でも、避け続けると戻れなくなる。
このへんの見極めが、
一番“現場の勘”がいる。
朝のバイタルは悪くない。
熱なし。
血圧も保てている。
疲労感は残るが、昨日より顔色はいい。
「澄江さん、今日はお風呂どうします?」
彼女は少し考えてから言った。
「……怖いけど」
「はい」
「入りたいわ」
その答えが出るなら、
半分はもう始まっている。
「無理なら途中でやめます」
「ええ」
「今日は“全部やる”日じゃなくて、
“再開する”日です」
彼女は小さく頷いた。
「……再起動ね」
「そうです」
“再開”より、
彼女にはその言葉の方がしっくりきたらしい。
脱衣所。
湿気とお湯の匂い。
ここまでは、前と同じ。
でも、体は違う。
「今日は、ゆっくりいきますね」
「お願い」
衣類を脱ぐだけで、
少し息が上がる。
私はすぐにペースを落とす。
「ここで一回休みましょう」
「……情けないわね」
「普通です」
「前は、もっと平気だったのに」
「前より今を優先します」
リフトシートを入れる。
「では、転送します」
「……また、それなのね」
「今日は再起動版です」
彼女が少し笑う。
この余裕があるなら、まだ大丈夫。
吊り上げの瞬間、
彼女の手が少しだけシートを握った。
「揺れる?」
「少しだけ」
「落ちない?」
「落としません」
「……信じるわ」
それでいい。
カーテンの向こうから、
聞き慣れた声が飛んでくる。
「聖女、無理はするな」
勇者だ。
「してないわよ」
「今日は、前線復帰ではない」
「分かってるわ」
賢者が補足する。
「試運転だな」
「そうね」
戦士が、低く言う。
「……戻るだけで、勝ちだ」
誰も否定しない。
湯に入る。
肩までつかるのは、今日はやめた。
胸の下あたりまで。
それだけで十分だ。
「……あったかい」
「はい」
「病院のお風呂はね……お風呂じゃなかったの」
「そうでしょうね」
「ここは……お風呂だわ」
言葉は単純だけど、
戻ってきた人が言うと重みが違う。
少しして、
彼女は目を閉じた。
「……気持ちいい」
「苦しくないですか」
「大丈夫」
「疲れたらすぐ出ます」
「うん」
“うん”がちゃんと返ってくる。
それだけで、こちらの緊張も少しほどける。
洗身は最小限。
髪は今日は見送る。
長湯もしない。
“気持ちよかった”で終えるのが今日の目標だ。
「もう出ますね」
「……うん。ちょうどいい」
ちょうどいいところで終える。
退院後はそれが難しい。
本人は頑張りたくなるし、
職員は戻したくなる。
でも今日は、
“足りないくらい”でいい。
再度、リフトで上げる。
「転送、終了です」
「……無事に帰還したわね」
「そうですね」
「思ったより、戻れた」
「それが一番です」
脱衣後、
椅子に座ったまま少し休む。
頬に、ほんのり色が戻っている。
「どうですか」
「……疲れたわ」
「ですよね」
「でも、嫌じゃなかった」
その一言で、今日は成功だ。
居室へ戻ると、
三人の視線が集まる。
勇者が言う。
「……損耗は」
「軽度です」
「なら、上出来だ」
賢者が続ける。
「反応はどうだった」
「疲労あり。でも苦痛なし」
「再開条件としては、妥当だな」
戦士が、短く。
「……戻ったな」
「戻りました」
澄江さんが、少しだけ笑う。
「完全じゃないけどね」
勇者が即答する。
「完全である必要はない」
珍しく、いいことを言った。
午後、バイタル再確認。
大きな崩れなし。
疲れはあるが、予想範囲内。
看護師が言う。
「初回としては、すごくいい」
「よかった」
「次は、もう少しだけ広げられるかもね」
その“もう少し”が、
退院後の生活を作る。
記録を書く。
「退院後初回入浴実施。
リフト浴にて短時間対応。
疲労ありも苦痛訴えなし。
バイタル大きな変動なく終了」
それで十分だ。
世界は救われなかった。
でも、転送陣はちゃんと動いた。
壊れていたわけじゃない。
少し止まっていただけだ。
そして今日は、
もう一度、湯の中に戻れた。
それだけで、
十分すぎる再起動だった。
退院後の入浴再開は、
けっこう大きなイベントです。
現場感覚だと、
食事再開より少しだけ緊張します。
お風呂って、
体力をかなり使うんですよね。
脱ぐ。
移動する。
温まる。
拭く。
着る。
全部、負荷です。
だから「入れた」だけで成功ではなく、
入っても崩れなかった
ここまで見て、ようやく成功になります。
今回の回で意識したのは、
“元通りにしない”ことです。
退院後って、
本人も職員も、つい
「前みたいに戻そう」としがちです。
でも本当は、
前と同じじゃなくていい。
短くてもいい。
全部できなくていい。
気持ちよく終われればいい。
この“ちょうどいいところでやめる”が、
一番難しくて、一番大事です。
「再起動」と書いたのは、
完全復旧じゃないからです。
でも、止まっていたものが
もう一度動き出す感じは、確かにある。
退院後の生活って、
そういう小さな再起動の積み重ねで戻っていきます。
世界は救われていませんが、
今日はちゃんと、お風呂でした。
それで十分な前進です。




