第39話 勝ち名乗りは、二日待ってから
ノロ対応の翌朝は、誰も勝った顔をしていなかった。
嘔吐の追加はない。
下痢も、桐原正志さんの一回だけ。
他の利用者さんに広がっている様子もない。
それでも、まだ分からない。
感染対応の嫌なところは、結果が遅れて来ることだ。
「主任、今日も居室配膳ですか」
「今日も」
「食堂、戻しません?」
「戻さない」
「ですよね」
分かっていて聞いている。
確認は大事だ。
勇者こと桐原正志さんは、少しげっそりした顔でベッドにいた。
「戦況は」
「拡大なしです」
「なら、勝ちか」
「まだです」
「厳しいな」
「感染対応なので」
「……了解」
素直で助かる。
具合が悪い時の勇者は、意外と聞き分けがいい。
「気持ち悪さは?」
「ない」
「腹痛は?」
「少し」
「下痢は?」
「今はない」
「水分、少しずついきます」
「……補給だな」
「補水です」
「似たようなものだ」
似ているようで、だいぶ違う。
看護師が来て、バイタルを確認する。
「熱、下がってるね」
「顔色も昨日よりいいです」
「嘔吐追加なし?」
「なしです」
「下痢も一回だけ?」
「夜間一回のみ」
看護師は少し考えてから言った。
「感染性っぽさ、薄いね」
その言葉で、フロア全体が一ミリだけ緩んだ。
一ミリだけだ。
十センチ緩むと事故になる。
賢者の秋月修造さんは、話を聞いていたらしい。
「結論は?」
「まだ保留です」
「合理的だ」
「意外ですね。早く結論欲しがると思いました」
「感染は、観測期間が必要だ」
「そうですね」
「つまり、まだ眠れない」
「寝てください」
「情報が増えたら起こしてくれ」
「起こしません」
賢者は不満そうだったが、目は閉じた。
戦士の岩本忠夫さんは、左手で柵を握っていた。
「……広がってないか」
「今のところ」
「……なら、守れてる」
「まだ途中です」
「……途中でも、守れてる」
昨日も聞いた気がする。
でも、こういう言葉は何回聞いても少し助かる。
水野澄江さんは、病み上がりなので居室で休んでいた。
「桐原さん、落ち着いた?」
「昨日よりは」
「よかった」
「澄江さんはどうですか」
「私は大丈夫。少し疲れただけ」
「今日は守られる日、継続で」
「……長いわね」
「感染対応は長いです」
「聖女でも短縮できないの?」
「できません」
「不便ね」
できたら現場が泣いて喜ぶ。
昼になっても、新しい嘔吐は出なかった。
居室配膳。
下膳別管理。
手袋交換。
消毒継続。
職員の動きはまだ硬い。
「主任、これ、もう大丈夫そうじゃないですか」
「そう思うでしょ」
「はい」
「その油断で広がる」
「はい」
返事が早い。
昨日より学習している。
午後、医師から指示が入った。
経過から見て、感染性胃腸炎の可能性は低い。
一過性の胃腸炎、または消化管の不調として経過観察。
ただし施設内では本日いっぱい感染対応を継続。
とても現場らしい結論だった。
「感染性ではない可能性が高い。でも対応は続ける」
若手が首を傾げる。
「矛盾してません?」
「してない」
「してないんですか」
「確定してから緩める。完全に安心するのは、もう少し後」
「じゃあ、勝ちじゃない」
「勝ち名乗り待ち」
そこへ看護師が通りかかる。
「勝ち名乗りは明日の朝ね」
「ですよね」
施設では、勝利にも時間がかかる。
夕方、勇者に説明する。
「感染性ではない胃腸炎で済みそうです」
「つまり?」
「ノロではなさそうです」
「……勝ったか」
「まだです」
「まだか」
「今日は警戒継続」
「勝ち名乗りは?」
「明日以降」
勇者は、しばらく黙った。
「慎重だな」
「それで守ってます」
「なら、従う」
こういう時の勇者は、本当に助かる。
賢者が横から言う。
「勝利条件を再定義する必要がある」
「何ですか」
「二十四時間、追加症状なし」
「現場と同じです」
「なら、私は正しい」
「寝てください」
「今は起きている時間だ」
そこは正しい。
戦士が、ぽつりと言った。
「……腹だけで済んだな」
「そうですね」
「……施設は、残った」
大げさだ。
でも、半分くらいは合っている。
聖女が少し笑った。
「よかった。桐原さん、また一人で背負うところだったもの」
勇者は顔をしかめる。
「背負ってはいない」
「顔に出てたわ」
「……そうか」
「そうよ」
「なら、次から出さない」
「出るわよ」
夫婦設定は、こういう時だけ妙に強い。
夜勤への申し送りは、昨日より少しだけ柔らかかった。
「桐原さん、嘔吐追加なし。下痢追加なし。微熱改善。感染性ではない胃腸炎疑い。ただし本日いっぱい感染対応継続」
「食堂は?」
「明朝、追加症状なければ段階的に再開」
「居室配膳は今日まで?」
「予定では。夜間次第」
「消毒は?」
「継続」
言葉はまだ四角い。
でも、角が少し丸くなっている。
消灯前、私はもう一度四人部屋を見た。
「今夜、何もなければかなり安心です」
「何も起こさなければいいんだな」
「起こそうと思って起きるものじゃないです」
「……確かに」
勇者は目を閉じた。
賢者が言う。
「明朝までが観測期間だな」
「そうです」
戦士が短く言う。
「……待つ」
聖女が続ける。
「じゃあ、今日は静かに待つ日ね」
「そうしてください」
「……そうするわ」
夜は、昨日より静かだった。
手袋の音は、まだある。
ガウンの音も、まだある。
でも、ビニール袋を結ぶ音は少し減った。
それだけで、フロアの空気はかなり違う。
明け方まで、嘔吐はなかった。
下痢もなかった。
他利用者の腹部不快も消えていた。
朝の申し送りで、看護師が言った。
「解除、段階的にいきましょう」
その瞬間、誰かが小さく息を吐いた。
勝ち名乗り、ではない。
でも、ようやく剣を下ろせるくらいの空気だった。
勇者に伝えると、彼は目を開けた。
「終わったか」
「感染対応は段階的に解除です」
「勝ちか」
「小勝ちです」
「小勝ち」
「施設では大事です」
勇者は少し考えて、頷いた。
「なら、小さく勝った」
「はい」
世界は救われなかった。
ノロでもなかった。
ただの胃腸炎で済んだ。
でも、施設ではそれが十分すぎるほど大きい。
広がらなかった。
止まった。
戻せる。
それだけで、今日はちゃんと勝ちだった。
今回は、感染性胃腸炎疑いで始まった対応が、
結果的に「感染性ではなさそう」で済んだ回でした。
こういう時、現場ではすぐに安心しません。
嘔吐が止まった。
下痢が増えない。
他の利用者さんに広がらない。
そこまで見えてきても、
「じゃあ解除」とはなりません。
一晩見る。
もう一日見る。
段階的に戻す。
この慎重さが、施設ではかなり大事です。
ノロではなさそう。
でも、ノロじゃないと決めつけるには早い。
だから対応は続ける。
一見すると矛盾しているようですが、
施設の感染対応はだいたいこの感覚です。
そして、何も広がらなかった時は、
それだけで本当に大きい。
派手な治療も、劇的な回復もありません。
ただ、広がらなかった。
それは現場にとって、十分すぎる勝ちです。
世界は救われていませんが、
今回は小さく勝ちました。




