2
「一樹、出版社なんて受からないよ」
大学四年の就職活動を始めようという時、そして編集やジャーナリズムの道を選びたいと意気込んで鼻息荒く電話で母に対して、そう自分の希望を告げた時、一樹の母はそれを押しとどめようとした。
「受けるだけ受けてみる。構わないでしょ?」
「何で受けるの?」
何で受けるの? とはどういう意味だろう。他の職種なら理由は聞かないのか?
「自分の貯金でやるんだからいいでしょう」
だんだん腹が立ってきた。何も水商売とか芸能人とか危うい道に踏み入れるわけじゃない。どこまで私を所有物のように考えるのか。
「難しいよ。受からないよ」
こういう時の母の口調は繰り返される。弾力のある餅みたいな感情でぶよぶよの声音をいくらでも叩き付けるのだ。
受けてみることに何の害があるのだ?
母にとってはそんな問題じゃないのだ。一樹が自分の生きる道を少しでも望ましい方にと努力するのとは関係なく、母にとってはその場その場で母の価値感の範囲内に収めることが重要なのだ。娘の一生を少しでも良いものに、という考え方ではないし、娘が意志を有していることも関係ない。
「私のお金でやるんでしょ!」
「私のお金ってなんなの!」
「私が持ってるお金でしょう」
「一樹、出版社なんて受からないよ」
堂々巡りだ。そもそも出版社に挑戦するのを無謀とされるほど、頭の悪い大学には入っていない。
娘の希望が強ければ強いほど、母は厳しく禁止する。
希望通りに生きるのは、難しい。だから禁止することこそが現実を生きさせることなのだと、母は「母」というモンスターのような価値観で娘に対する感情を覆いつくすのだ。
そんな母に対峙するたび、一樹の頭の中に疑問の芽が増えていく。
親とは何なのだろう。
なんでもっとスムーズに生きさせてくれないのだろう。
私は、そもそもこんなに惨めな、意志を挫かれて、ペットみたいな女の子であることを求められる生き物なのだろうか。
私は何なのだろう。
最後は母の主張が買って、母はどこか満足そうに電話を切った。口に綿を詰められたような気分の一樹は、簡素なパイプベッドに腰掛けて、
実家を出ていなければ、通帳もいまだに母が握っていたかもしれない。そうなれば、東京の出版社を受けにいく交通費は出なかっただろうな。
そう思うと、こめかみがイライラと痛む気がした。
あんなババア、早く死ねばいい。
そう思うことで、あとは勝手に片っ端からあちこちの出版社を受ければこのイラつく問題は、一樹の中で片が付いた。
パトカーの到着は遅かった。一一〇番してから一時間もかかった。
一樹は、三十分ほど、アパートの門のところで待っていたのだが、あまりの遅さに部屋に引っ込んだ。落ち着かず、部屋の隅で膝を抱えていると、インターフォンが鳴って、足をほどいて立ち上がった。部屋の戸を開けると、なんとも冴えない小男が二人、顔の汗をおじさん臭いハンカチで拭いながら戸口の枠にもたれるようにしていた。二人が二人ともバーコード禿げだった。
本当に警察だろうか。
いぶかっていると、二人の小男はおもむろにそれぞれが自分の警察手帳を一樹の眼前にかざして、それを一瞬だけ見せたらすぐに背広に内側にしまって、
「警察です」
と面倒そうな言い方で立場を簡潔に説明してくれた。
「アー……」
小男のうち顔が丸い方が、ため息を漏らしながら、
「そこにあった、掘ってあるところ?」
と尋ねてきた。
「そうです。はい」
「なんで、掘っちゃったの?」
顔が長い方が、さも迷惑そうな、まるで頭のおかしい奴のせいで疲れる、とでも言わんばかりの顔付きで聞いてきた。
「それは、好奇心のためですけれど」
「あそこを掘ろうと思ったのは?」
「掘り返した跡があったので」
「ふーん」
二人の小男が鼻息を輪唱した。
「一緒に確認してくれる?」
一樹と警察官二人は庭に下りた。
穴の中には依然として男性器が横長にのびている。
「驚かなかった?」
ふざけたように鼻をつまむ丸顔の男に、一樹は、
「驚きましたよ!」
と腹を立てたように叫んだ。
「落ち着いて。落ち着いて。いつ頃発見したの?」
「一時間くらい前……」
「それは? 確認したの?」
「あなた方が来るのを、時計を見ながら待っていたんです」
警察官はそらとぼけて、
「ああ、ごめんねえ」
と悪いとも思っていないような癪に障る謝り方をした。
「じゃあ、もう帰っていいから。休んで、休んで。ろくなもん見なかったねえ」
一樹は二階へと追い立てられて、気分を害しながら、部屋に入って、板チョコを一枚、物凄い勢いで齧って食べた。
後でまた窓から様子を確認したら、青いビニールの服を着こんだ鑑識さんらしき人がうろついていた。あまりきびきび仕事をしている風には見えなかった。
騒々しい様子もなく、別に規制線なども張られてはおらず、物々しい車両など一切なく、さっき来たパトカーとグレーの一般車両が一台。五時過ぎにまた覗いたら、誰もいなかった。
外に出て、庭に下りると、一樹が掘った場所は、掘り返した跡がよく分かるぞんざいさで埋められていた。
「あほらし……」
そう呟きつつも、一樹は埋められてこんもりと盛られた箇所をスマホで撮影した。そして、その場で、ある出版社の週刊誌を扱う部署の編集長家森和也に連絡を入れた。
「何だ? 馬鹿女」
大抵こういう態度で話をされる。怒るのも疲れるので、聞き流す。流しているようで、いちいち腹の中に溜まってくるから、やめてほしい。しかし、一樹はこの中年のモラハラ男にギャラが発生する仕事を貰いたい。
「スクープです。事件に遭遇しました」
「ついにお前が身体を張って、痴漢冤罪を積極的に作り上げたか」
まったく信じられない角度からカチンとくる言葉を言ってくる。
「違います。引っ越したアパートの庭に、男性の生殖器が埋められていました」
「撮ったのか? 生殖器」
「いえ、それは撮れなくて。掘り返した跡をスマホで今撮りました」
「クズ女。警察が来る前に撮らなくてどうする」
「すいません」
「しかたない。お前自身の体験でまとめて写真と一緒に送れ」
「はい。わかりました」
「じゃあな」
モラハラ男は、声がハスキーで耳心地がいいので、まともなセリフなら甘美に聞こえる。それがまた、モラハラだかセクハラだかの気がしてくる。家森は顔も役者みたいに格好がいいので、そこの会社には、彼のモラハラとパワハラとを悦ぶ本当の馬鹿女もいる。受付のN嬢とか。
家森とは、勤めていた頃からの付き合いだ。といっても、決して男女の関係ではない。どこから顔と名前を互いに覚えて、情報交換し合うようになったのか。飲みにいくわけでもなく、取材先で会うと、ちらちら話をして、互いの会社で使えなかったネタを提供し合って、ついでに無神経な発言を二、三言聞かされる。話した後は、またもやストレス一杯の不毛な思考を中断する魔法の言葉
死ねばいいのに
を頭の中で呟いて、いつもその場を去った。




