島で選ぶ未来
チャンドラの家では、昼飯の支度が進んでいた。
奥から香辛料と魚の匂いが漂ってくる。
チャンドラの妻、アイユが台所から顔を出した。
「まあ、グリフ」
「お久しぶりです」
グリフが頭を下げると、アイユは目を細めた。
「大きくなって」
「もう、そういう年ではないです」
「でも、私から見れば子どもよ」
ローサには兄弟もいたが、今は別の場所で働いているらしい。
家の中には、チャンドラ、アイユ、ローサ、そしてグリフだけだった。
昼飯を食べながら、足首を冷やしてもらった。
アイユは慣れた手つきで布を巻き、薬草のような匂いのする湿布を当ててくれた。
「少し痛むけど、折れてはいないわね」
「ありがとうございます」
「チャンドラが無茶をしたんでしょう」
「必要なことだった」
チャンドラが真顔で答える。
アイユは呆れたように言った。
「この人は、何でも必要なことにするの」
グリフは思わず笑った。
食卓では、自然と昔話になった。
ゲリラとの戦闘。
最初の村民投票。
あの頃、誰が何を言ったか。
誰が怖がっていたか。
誰が強がっていたか。
グリフが覚えていない細かな話を、チャンドラやローサが覚えていた。
アンダルの話も出た。
「アンダルさんは?」
「今は州都でのんびり暮らしている」
チャンドラが答えた。
「足腰は弱くなったが、口は元気だ」
「それは想像できます」
「ときどき島へ来て、昔の自慢話をして帰る」
ローサが言った。
「半分は本当で、半分は大げさ」
「それはこの島の伝統か」
「グリフの英雄話も同じね」
「やめろ」
話は、日本でのグリフの生活にも移った。
ワルン・クラサワのこと。
藤樹堂のこと。
ジョコや留学生たちの暮らしぶり。
ラフマンの件も、少しだけ話した。
ローサは静かに聞いていた。
「ラフマンは、昔から硬い子だった」
「知っているのか」
「家のことは知っている」
ローサは言った。
「真面目な子ほど、家族の期待で潰れそうになる」
その言葉に、グリフは少し黙った。
ルンザットの10年間の変化についても、話を聞いた。
農業も漁業も発展していた。
コーヒーの加工も、少しずつ形になっている。
漁港には冷凍施設ができ、魚を以前より良い値段で売れるようになった。
ホテルには医者が常駐するようになり、村民も簡単なけがや病気なら診てもらえる。
病院と呼べるほどではない。
大きなけがや重い病気には、今も州都まで船で行く必要がある。
それでも、昔とは違う。
暮らしは確かに少し楽になっていた。
テレビもある。
携帯電話もある。
ホテルにはWi-Fiもある。
子どもたちは、昔よりずっと外の世界を知っている。
だが、豊かになったからこそ、さらに豊かな暮らしを求めるようにもなっていた。
「昔は、今日食べるものがあればよかった家も多かった」
チャンドラが言った。
「今は、子どもを学校へ行かせたい。良い家に住みたい。病気になっても安心したい。そう考える」
「それは悪いことではないですね」
グリフが言うと、ローサが頷いた。
「悪いことじゃない。でも、欲しいものが増えると、不満も増える」
「日本へ行く話も、その中にあるのか」
「そう」
ローサは静かに答えた。
「だから、島の中で壊れないようにしないといけない」
*
夕方近くになると、グリフの足の痛みは少し引いてきた。
歩けないほどではない。
ローサが立ち上がった。
「農園へ行く」
「今から?」
「夕方の方が涼しい」
「見に行ってもいいか」
ローサは一瞬、グリフを見た。
「足は?」
「歩ける」
「無理をするなら置いていく」
「無理はしない」
「なら、来て」
*
農園までは、緩やかな坂道を上った。
途中、海が見えた。
夕方の光を受けて、海面が銀色に揺れている。
日本の店で毎日見ていたコーヒーカップの向こう側に、この景色があったのだと思うと、不思議な気がした。
農園には、低いコーヒーの木が並んでいた。
赤く熟した実もあれば、まだ青い実もある。
木々の間には、日差しを和らげるための高い木が残されていた。
風が通ると、葉が静かに鳴った。
ローサは、木の枝に触れながら歩いた。
「前は、ただ売れる作物を増やしたいだけだった」
「今は違うのか」
「今は、どう売るかまで考えないといけない」
「加工も島で始めたんだろう」
「小規模だけどね」
ローサは少し誇らしげだった。
「失敗も多い。乾燥が足りないとカビが出る。発酵が進みすぎると味が悪くなる。選別も手間がかかる」
「でも、ホテルで飲んだコーヒーはうまかった」
「グリフがうまく淹れたからでしょ」
「豆もいい」
ローサは少しだけ笑った。
「そう言われるのは、悪くない」
2人は、農園の端にある小さな見晴らしの場所で立ち止まった。
そこからは、海と村の屋根が見えた。
夕方の光が、ローサの横顔を柔らかく照らしていた。
グリフは、しばらく黙ってその景色を見ていた。
「変わったな」
「島が?」
「島も。ローサも」
「老けた?」
「それを俺に言わせるのか」
ローサは少し笑った。
「グリフも変わった」
「ハゲた以外で頼む」
「少し、丸くなった」
「体が?」
「性格が」
グリフは苦笑した。
「それは、良い意味か」
「たぶん」
「たぶんか」
ローサは、コーヒーの木に視線を戻した。
「昔のグリフは、正しいと思ったことを、そのまま島に置こうとしていた」
「耳が痛いな」
「今は、少し考えるようになった」
「考えすぎるようにもなった」
「それは昔から」
グリフは返す言葉がなかった。
少し沈黙が続いた。
遠くで鳥が鳴いた。
ローサが、ふいに言った。
「帰ってきてくれて、よかった」
グリフは彼女を見た。
ローサは海を見たままだった。
「10年以上、怒っていたわけじゃない」
「うん」
「でも、もう来ないのかもしれないとは思っていた」
「悪かった」
「謝ってほしいわけじゃない」
ローサはゆっくりと首を横に振った。
「ただ、来たからには、ちゃんと見ていって」
「今の島を」
「今の私たちを」
グリフは頷いた。
「見るよ」
「それから、日本へ戻って、また勝手に決めないで」
その言葉には、わずかに刺があった。
しかし、それだけではなかった。
心配もあった。
「気をつける」
「本当に?」
「今は、前よりは」
同じやり取りに、ローサが小さく笑った。
その笑顔は、昔より少し穏やかだった。
グリフは思わず言った。
「ローサ」
「何」
「きれいになったな」
ローサは、すぐには答えなかった。
夕方の風が、2人の間を抜けた。
やがてローサは、少しだけ目を細めた。
「10年以上たって、やっと言うの」
「今言った」
「遅い」
「すまない」
「謝ればいいと思ってる?」
「思ってない」
ローサは、ふっと笑った。
「なら、いい」
2人はしばらく、並んで海を見ていた。
特別な言葉はなかった。
触れることもなかった。
それでも、グリフには、10年以上空いていた距離が、ほんの少し縮まったように感じられた。
***
その日の夕方、グリフはディオの家へ戻った。
ディオは先に帰っていて、夕飯の支度をしていた。
「おかえり」
「ただいま」
自然にその言葉が出たことに、グリフ自身が少し驚いた。
2人は夕飯を食べながら、その日の出来事を報告し合った。
ディオは倉林と一緒に、技能実習生の家をいくつか回ったらしい。
「倉林さんは、かなり驚いていた」
「何に?」
「ホテルと村の家の差だ」
ディオは言った。
「ホテルにいると、州都とあまり変わらない。空調もある。Wi-Fiもある。部屋もきれいだ」
「でも、少し歩けば、まだ昔に近い家も多い」
「そうだな」
「昔は、みんな貧しかった」
ディオはスープをすくいながら言った。
「だから、誰も比べなかった。今は違う」
「ホテルもある。テレビもある。スマートフォンもある。外の暮らしが見える」
「少し豊かになった分、もっと欲しくなる」
グリフは昼間のローサの言葉を思い出した。
欲しいものが増えると、不満も増える。
「でも、それは悪いことではないんだろう」
「悪いことではない」
ディオは頷いた。
「ただ、扱いを間違えると人を壊す」
グリフは、今日のことを割と正直に話した。
ローサとチャンドラが来たこと。
英雄像を守るためにバンダナを巻かされたこと。
チャンドラと組手をさせられたこと。
学校で子どもたちの前で模擬試合をしたこと。
足をひねったこと。
ディオは途中から肩を震わせて笑っていた。
「お前、帰って2日で伝説を修復されたのか」
「笑い事じゃない」
「いや、笑い事だ」
「父さんも知っていたのか」
「少しはな」
「止めろよ」
「面白そうだったから」
「親としてどうなんだ」
「良い父親だろう」
「最悪寄りだ」
ただ、農園でローサと話したことの一部は省いた。
言わなくてもいいと思った。
あるいは、まだ言葉にするのが惜しかった。
食事の終わりごろ、グリフは町議選のことを切り出した。
「父さん」
「何だ」
「日本で、町議選に出ないかと言われている」
ディオの手が止まった。
「お前が?」
「そんなに驚くことか」
「驚く」
ディオは正直だった。
グリフは、敏夫の引退のこと、村田や久保から説得されていること、学校統廃合の住民投票のこと、町議選と同日投票になることを説明した。
普段から電話で近況は話していたが、町議の話は初めてだった。
ディオは黙って聞いていた。
「敏夫さんの後を継ぐのか」
少し寂しそうな声だった。
*
グリフは、その響きに気づいた。
もし別の人生があったなら、自分はルンザットに残り、ディオの跡を継ぐ可能性もあった。
族長の家の人間として、島に住み続ける道もあった。
だが、町議選に出るということは、倉沢に根を下ろすという意味を持つ。
日本から離れないという選択に近くなる。
「分からない」
グリフは答えた。
「敏夫さんの顔を立てたい気持ちもある」
「村田さんたちの期待もある」
「でも、自分が本当に政治家になりたいのかは、まだ分からない」
ディオは少しの間、黙っていた。
やがて言った。
「最後は、お前が決めることだ」
「うん」
「だが、俺がお前だったら、多分、選挙に出る」
グリフは顔を上げた。
「なぜ」
「お前は、もう店だけの人間ではない」
ディオは静かに言った。
「倉沢で、ルンザットの若者を受け入れている」
「町の人間とも関わっている」
「住民投票にも関わった」
「農協とも、商店街とも、役場ともつながっている」
「それは、政治そのものだ」
「政治家になる前から、政治をしている」
グリフは言葉を失った。
ディオは続けた。
「なら、肩書きを持って責任を取るかどうかの話だ」
「肩書きがあれば、できることも増える」
「逆に、逃げられないことも増える」
「だから、怖いならやめればいい」
「怖いです」
グリフは正直に言った。
ディオは笑った。
「なら、少し向いている」
「どういう意味だ」
「怖くない奴は、危ない」
その言葉は、妙に胸に残った。
ルンザットの2日目が終わった。
***
3日目、グリフは島の中を歩いて回った。
ディオの加工場。
漁港。
冷凍施設。
集会所。
そして、昔よく通った道。
チャンドラとの試合の噂は、すでに広まっていた。
「グリフ、チャンドラと1勝1敗だったんだって?」
「まだ強いんだな」
「子どもたちが騒いでいたぞ」
道で声をかけられるたび、グリフはバンダナを直した。
これを忘れると、また余計な話になる。
冷凍施設は、きちんと運営されていた。
昔は、獲れた魚を急いで売るしかなかった。
今は冷凍できる。
出荷の時期を調整できる。
値段交渉も少しは有利になったらしい。
漁船も変わっていた。
昔は小さな船が多かったが、今はほとんどがエンジン付きになっている。
漁獲高も増えた。
まだ試験段階だが、養殖場もあるという。
「昔のままではないんだな」
グリフが言うと、案内していたトニーが笑った。
「10年あれば、人も島も変わる」
「変わってない場所もある」
「どこだ」
「集会所」
集会所は、本当にあまり変わっていなかった。
木の床。
古い椅子。
壁の傷。
窓から入る光。
昔、ここでゲリラ対策を話し合った。
島の運命を、夜遅くまで議論した。
今でも、その空気が少し残っているようだった。
ただ、変わったものもあった。
棚の中に、いくつかのファイルが並んでいた。
グリフが手に取ると、表紙に日付と議題が書かれている。
「島民投票の記録か」
トニーが頷いた。
「あの最初の投票以来、何回かやった」
「何を決めたんだ」
「港の整備、農地の水路、観光客向けの訓練イベント、コーヒー加工場への出資」
グリフはファイルを開いた。
投票内容。
議論の概要。
結果。
決定後の対応。
完璧な行政文書ではない。
だが、誰が見ても分かるように残されていた。
「いつでも見られるようにしているのか」
「そうだ」
トニーは少し得意げだった。
「グリフが置いていったやり方だ」
グリフは、棚のファイルを見つめた。
自分が島を去ったあとも、何かが残っていた。
そして、島の人々はそれを自分たちのやり方で続けていた。
そのことが、少し嬉しかった。
***
その日の夜、ディオは倉林の案内を終えて帰ってきた。
一緒にチャンドラもいた。
どこかで会い、そのまま連れてきたらしい。
「今日は飲むぞ」
ディオが言った。
珍しく、洋酒を出してきた。
ブランデーだった。
3つのグラスを並べ、琥珀色の酒を注ぐ。
グリフは少し警戒した。
こういう改まった酒の出し方をするとき、ディオはたいてい何かを企んでいる。
「父さん」
「何だ」
「何かあるだろう」
「ある」
即答だった。
チャンドラも黙って座っている。
その沈黙が、かえって重かった。
ディオはグラスを置き、グリフを見た。
「チャンドラさんとも話しているんだが」
「はい」
「グリフ、お前」
ディオはグリフの目を見つめた。
「ローサと結婚しないか」
*
グリフは固まった。
なんとなく、そういうことを考えなかったわけではない。
農園でローサと並んで海を見たとき。
彼女に「きれいになった」と言ったとき。
胸のどこかで、もしも、という想像はした。
だが、それはまだ想像だった。
言葉として、父の口から出てくると、まったく別の重さを持った。
「いや」
グリフはようやく口を開いた。
「本人は」
「ローサは何と言っているんだ」
「もちろん、本人の了承は取っている」
ディオは当たり前のように答えた。
「取っているのか」
「取っている」
チャンドラも静かに頷いた。
「ローサは、嫌ではないと言った」
グリフは、その言い方に少し混乱した。
「嫌ではない、というのは」
ディオが笑った。
「ここらでは、家族同士の了承があり、本人同士が嫌でなければ結婚することが多い」
「もっと情熱的な返事はないのか」
「それは日本のドラマを見すぎだ」
「父さんに言われたくない」
チャンドラが初めて口を開いた。
「ローサは、昔から自分の気持ちを大げさに言う子ではない」
「はい」
「だが、嫌な相手なら、はっきり嫌と言う」
それは、よく分かった。
ローサなら言う。
たぶん、相手が傷つくかどうかも気にせず言う。
ディオが、にやりと笑った。
「グリフ、お前だって、ローサに惚れているだろう」
「なっ」
「丸分かりだ」
「そんなに?」
「船着き場で見たときから分かった」
「最初からか」
「ローサの写真を送れと言われたときから、少し怪しかった」
グリフは頭を抱えた。
「どうだ、いい父親だろう」
「今のところ最悪寄りだ」
「で、どうなんだ」
グリフは、しばらく黙った。
年齢のことが頭をよぎる。
自分はもう若くない。
ローサとは10歳違う。
日本には店がある。
町議選の話もある。
倉沢とルンザットを行き来する生活になるのか。
結婚すれば、彼女の人生も変える。
簡単に決めていいことではない。
「でも、年が10も違うし」
ディオが眉を上げた。
「何だ。嫌なのか」
「全然、嫌じゃない」
グリフはすぐに言った。
あまりに早く言ったので、自分で少し恥ずかしくなった。
「ローサはかわいいし」
「うん」
「周りからも慕われているし」
「うん」
「頭もいいし、強いし」
「うん」
「たぶん、俺より島のことを分かっている」
「うん」
「……できれば、結婚したい」
*
ディオは少し不満そうな顔をした。
「なんか、ぱっとしない言い方だな」
「今、人生の大事なところだから、うまく言葉が出ないんだよ」
「まあいい」
ディオはチャンドラの方へ向き直った。
右手を胸に当て、深く頭を下げる。
「チャンドラさん。こんな息子だが、よろしく頼む」
チャンドラも同じように右手を胸に当てた。
「こちらこそ、男勝りなところがある娘だが、どうかよろしく頼む」
グリフは、こちらの風習でどうすればよいのか分からなかった。
結局、両手を膝に置き、日本式に深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
*
しばらく沈黙があった。
それから、3人はグラスを持ち上げた。
ブランデーを飲み干す。
喉が熱くなった。
胸の奥も、別の意味で熱かった。
ディオが、何でもないことのように言った。
「で、グリフ。式だが、明日でいいか」
「え、明日?」
「明後日には帰るんだろう」
「そうだけど」
「なら、明日しかない」
「いや、そういう算数の問題じゃないだろ」
チャンドラも穏やかに言った。
「もちろん、きちんとした式や手続きは別にやる」
「日本の家族にも話さなければならない」
「ただ、簡単でも、家族の前で明日やっておきたい」
「明日……」
「場所はヘルマンのホテルだ」
ディオが続ける。
「日本の立会人式のような形でいいだろう」
「父さん、段取りが早すぎる」
「島では、遅いと話が広がりすぎる」
「もう広がるだろ」
「だから先に形にする」
理屈としては分かるような、分からないような。
グリフは深く息を吸った。
「ま、任せる」
何とか言えたのは、それだけだった。
その夜、グリフはなかなか眠れなかった。
ルンザットへ来て2日目の夜は、すぐ眠れた。
だが3日目の夜は違った。
天井を見上げながら、何度も同じ言葉が頭を回る。
ローサと結婚。
町議選。
倉沢。
ルンザット。
日本の母、涼子へ何と言うか。
総一郎へ何と言うか。
春子は何と言うか。
――春子さんは、たぶん最初に式場の話をするな。
そんなことまで考えたところで、ようやく少し笑えた。




