変わった島、変わらない人々
翌朝、グリフはゆっくり目を覚ました。
窓の外は明るい。
日本にいるときのように、目覚まし時計に追い立てられることはなかった。
しばらく天井を見つめ、自分がどこにいるのかを思い出す。
ルンザット。
ディオの家。
10年以上ぶりの自分の部屋。
グリフは起き上がり、携帯電話を確認した。
ローサからメールが入っていた。
島を回るなら、その前に話したいことがある。
ディオの家へ行く。起きたら連絡して。
グリフは、しばらく画面を見つめた。
ローサが来る。
それも、島を回る前に話したいことがあるという。
内容は分からない。
マパルスのことか。
農民側の受け入れのことか。
それとも、昔の話か。
グリフの中で、若いころのような感覚が少しだけ動いた。
すぐに返信する。
起きている。いつでも大丈夫。
数十秒後、返事が来た。
今から行く。
グリフは、思わず部屋の中を見回した。
半分物置の部屋。
寝起きの自分。
髪。
――いや、髪は今さらどうにもならない。
急いで顔を洗い、シャツを着替えた。
居間へ出ると、ディオの姿はなかった。
テーブルの上にメモが置かれている。
*
『倉林さんと港へ行く。昼前に戻る。』
『変なことをするな。』
ディオ
「何だ、この最後の一行は」
グリフは思わず声に出した。
家には自分しかいない。
そう気づいた瞬間、少し落ち着かなくなった。
ローサが来る。
2人きりになるのかもしれない。
何を話すのか。
何を話せばいいのか。
昔のわだかまりはもうない。
ないはずだ。
それでも、心が少し躍っていることは否定できなかった。
若いころに戻ったような、恥ずかしい感覚だった。
そのとき、外から声がした。
「グリフ、いるか」
ローサの声だった。
グリフは、少し慌てて玄関へ向かった。
「やあ、ローサ。いらっしゃい」
扉を開けた。
*
そこにいたのは、ローサだけではなかった。
ローサの隣に、父親のチャンドラが立っていた。
日に焼けた顔。
深い皺。
昔と同じ、鋭いが穏やかな目。
グリフは一瞬、動きを止めた。
「チャンドラさん……」
「久しぶりだな、グリフ」
チャンドラが低い声で言った。
グリフは、2人を家へ招き入れながら、胸の中に何とも言えない感情が広がるのを感じた。
がっかりしたような。
安心したような。
いや、むしろ安心していることに少しがっかりしたような。
ローサは、そんなグリフの微妙な表情を見て、すぐに言った。
「何だ。その顔は」
「いや」
グリフは咳払いした。
「久しぶりにチャンドラさんに会えて、驚いただけだ」
「そうか」
ローサは無表情で言った。
「それならいい」
チャンドラは、2人のやり取りを見て、少しだけ笑っていた。
グリフは、あらためて悟った。
ルンザットで、こちらの都合のよい展開など、そう簡単には起こらない。
*
「話って、何だ」
グリフは、2人の前にコーヒーを出しながら尋ねた。
ローサとチャンドラは、ディオの家の居間に腰を下ろしていた。
窓の外からは、朝の強い光が差し込んでいる。日本の4月とはまるで違う。まだ午前中だというのに、空気には熱と湿り気があった。
出したコーヒーは、ローサが仕切っている農園で採れた豆だった。
以前は、収穫した豆を州都のある島へ運び、そこで加工してもらっていた。だが今は、小規模ながら、果肉除去、乾燥、脱穀、選別まで島の中でできるようになっている。
もちろん、輸出用の大規模工場というほどではない。
それでも、以前とは比べものにならなかった。
ヘルマンのホテルでも、ルンザット産のコーヒーとして袋詰めにして売られている。
ローサはカップを手に取り、香りを確かめてから一口飲んだ。
少しだけ目を細める。
「あら」
「何だ」
「なんか、いつものよりおいしい気がする」
「淹れ方に気を使っているからな」
グリフは少し得意げに言った。
「日本では、これをお金をもらって客に出している。豆のうまさを引き出す方法は研究した」
ローサは、もう一度コーヒーを飲んだ。
「なんか、ありがとう」
珍しく素直な礼だった。
グリフは少し驚いた。
「どういたしまして」
いつものローサなら、
「豆がいいからでしょう」
くらいのことは言いそうだった。
チャンドラも黙ってカップを口へ運んでいる。
昔から寡黙な男だったが、何も見ていないわけではない。むしろ、言葉を使わずに相手を観察する人間だった。
*
グリフは、2人が何を話しに来たのか、少し身構えた。
ローサはカップを置いた。
「で、話なんだけど」
「うん」
「グリフがいなくなってから、10年以上過ぎているわけ」
いきなり口調が硬くなった。
「その間、一度も帰ってこなかった」
グリフは返事に詰まった。
――寂しい思いをさせたな。
そう言いたくなった。
若いころの自分なら、冗談めかして、あるいは少し芝居がかった調子で言ったかもしれない。
だが、目の前にはチャンドラがいる。
娘を持つ父親の前で、そんなことを言えるほど、グリフは若くも無神経でもなかった。
「悪かった」
短くそう言うと、ローサは少しだけ目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げる。
「少しは聞いているかもしれないけど、グリフは島では英雄扱いなの」
「アディから聞いた」
「たぶん、実物以上に」
「そこは否定しない」
ローサは淡々と続けた。
「あのとき、ゲリラの掃討を指揮して、誰も死なせずに警察へ引き渡した英雄」
「戦闘にも強い」
「頭もいい」
「見た目もかっこいい」
「そういうことになっている」
グリフは少し居心地が悪くなった。
ゲリラの件については、アディからも聞いていた。
島では、グリフがゲリラと直接戦い、倒したことになっているらしい。
実際には違う。
チャンドラは確かに敵を倒した。
グリフも追い詰めはした。
だが、最後に仕留めたのはローサだった。
そのことは、ローサとグリフの間の秘密になっていた。
当時のグリフは、そこに強くこだわってはいなかった。
英雄扱いされたいとも思っていなかった。
ただ、10年以上そのままになっていれば、もはや島の事実として固まっているのだろう。
*
「若者の憧れになっている」
ローサは言った。
「グリフが言ったことにして、島の問題を解決したこともある」
「それは俺のせいじゃない」
グリフは両手を軽く上げた。
「別に悪い話でもないだろう。都合よく使ってくれていいよ」
「そうじゃない」
ローサは即座に切った。
「憧れの対象が、ただのハゲのおじさんじゃまずいの」
沈黙が落ちた。
チャンドラがカップを置いた。
グリフはゆっくりローサを見た。
「ハゲてない」
「ハゲてる」
「これは日本の伝統で――」
「黙って」
ローサは容赦なかった。
「この島にも、もうテレビは普通にある。日本のことも知っている」
「それに、もしジョークのつもりなら、かなりつまらない」
グリフは言葉を失った。
昨日の「侍の国」作戦は、どうやら一晩で完全に寿命を迎えたらしい。
ローサは布の包みを取り出し、中から1枚のバンダナを出した。
濃い藍色の布だった。
「まずは、これを頭に巻いて」
「まずは?」
「帽子だと、動いたときに脱げるから」
「動く予定があるのか」
「ある」
ローサは当然のように言った。
グリフは、何か嫌な予感を覚えながらも、バンダナを受け取った。
頭に巻く。
ローサは少し距離を取って、グリフを見た。
目が、わずかに柔らかくなる。
「よかった」
「何が」
「昔に戻った」
その言葉に、グリフは少しだけ胸を突かれた。
バンダナで額が隠れると、確かに昔の面影が少し戻る。
グリフは年齢の割には若く見える方だった。
肌も鍛えた体つきも、完全に崩れてはいない。
額さえ隠せば、10年以上の空白は少しだけ曖昧になる。
ローサは、そこで視線を下へ移した。
「あとは、体ね」
「体?」
ローサはチャンドラを見た。
「どう、父さん」
ずっと黙っていたチャンドラが、そこで初めて口を開いた。
「ちょっと表に出ようか、グリフ」
グリフは嫌な予感が確信に変わるのを感じた。
チャンドラの体は、昔と変わらず鍛えられていた。
いや、年齢を考えれば、むしろ異様なくらいだった。
肩も腕も太く、腹も出ていない。
グリフは、アリと組手をしたあと、総一郎とのトレーニングの成果で何とか1勝できたことがある。
だが、そのアリは腹が出ていた。
目の前のチャンドラは、まったく別だった。
野生の古い木のような強さがある。
*
「いや、昨日帰って来たばかりですし」
「軽く見るだけだ」
チャンドラは立ち上がった。
ローサも立った。
グリフも、立たざるを得なかった。
3人で外へ出る。
日差しはすでに強い。
庭の地面は踏み固められており、少し離れた場所には椰子の木の影が落ちていた。
「グリフ」
チャンドラが、手を軽く上げた。
「適当に打ちかかってこい。まずは素手でいこう」
「まずは、という言葉が怖いんですが」
「いいから来い」
「いや、本当に昨日――」
「じゃあ、こちらから行こう」
言い終わる前に、チャンドラが踏み込んできた。
速かった。
年齢を考えれば、という注釈がつかない。
普通に速い。
グリフは反射的に腕を上げた。
だが、次の瞬間には体勢を崩されていた。
防具もない。
畳もない。
総一郎の道場とは違う。
足元は土で、相手は昔のままのチャンドラだった。
数分後、グリフは肩で息をしていた。
チャンドラは、少し息を乱しただけで立っている。
ローサは腕を組んで眺めていた。
「まずいな、ローサ」
チャンドラが言った。
「思った以上にひどい」
「確かに、ひどいわね」
ローサも頷いた。
「手荒な歓迎ですね……」
グリフは、なんとか笑ってみせた。
「グリフ」
ローサは真面目な顔になった。
「さっきも言ったけど、あなたは島の英雄で、戦闘にも強いことになっている」
「それは話が大きくなりすぎている」
「もう小さくはできない」
ローサは容赦がない。
「たぶん、何人かあなたに試合を申し込むと思う」
「試合?」
「この島では、あのときから訓練が続いている」
チャンドラが補足した。
「昔は、必要に迫られて始めた」
「いつまた危険な連中が来るか分からなかったからな」
「今は半分、島の伝統だ」
ローサが続ける。
「半分は観光客向けのイベントにもなっているけどね」
「それ、だいぶ違う方向に進化してないか」
「平和になったということよ」
それは確かに、悪いことではなかった。
*
「それでだ」
チャンドラが言った。
「グリフ。私とお前で、学校で模擬試合をしよう」
「学校で?」
「子どもたちの前でやる」
「なぜ子どもたちの前で」
「大人の前でやると、本気で試したがる者が出る」
ローサが言った。
「子どもだけなら、噂になる」
「噂?」
「グリフは今も強い。チャンドラと1勝1敗だった」
「そういう噂を先に作ってしまう」
グリフは頭を押さえたくなった。
「そんなの、ばれませんか」
「たぶん大丈夫」
チャンドラはあっさり言った。
「子どもしかいない。結果は子どもが噂として伝えてくれる」
「子どもを情報操作に使うな」
「島では普通だ」
「普通ではないだろ」
ローサが一歩近づいた。
「面倒だと思うかもしれないけど、やらないともっと面倒なことになるわよ」
「それは分かるけど」
「今ならまだ、軽い見世物で済む」
グリフは、チャンドラを見た。
チャンドラは無言で頷いた。
逃げ道はなさそうだった。
***
3人は、すぐに学校へ向かった。
早くしないと、大人たちが集まってしまう。
ローサが先導し、誰にも会わないように細い道を選んで進む。
その後ろをグリフとチャンドラが追った。
「これ、完全に悪いことをしに行く人間の動きですよね」
「悪いことではない」
ローサは前を向いたまま答えた。
「少し変なことをしに行くだけ」
「余計に嫌だ」
学校に着くと、ローサは手際よく子どもたちを集めた。
相変わらず、ローサは人気があった。
子どもたちは彼女の声を聞くと、すぐに校庭へ集まってくる。
「ローサ姉さん、何をするの?」
「グリフが来てるの?」
「あのグリフ?」
「あのグリフよ」
ローサが言うと、子どもたちの目が一斉に輝いた。
グリフは、少しだけ後悔した。
人数が増えすぎる前に、チャンドラが校庭の中央へ立った。
グリフも向かい合う。
ローサが子どもたちへ説明する。
「危ないから近づかないこと」
「2人とも本気ではやらない」
「でも、ちゃんと見ること」
子どもたちは興奮していた。
「いくぞ、グリフ」
チャンドラが構える。
「いいですよ」
グリフも構えた。
1回目の勝負は、一瞬で決まった。
チャンドラが踏み込み、グリフはそれに合わせて体をずらす。
総一郎からしつこく叩き込まれた、相手の力を受け流す動きだった。
次の瞬間、チャンドラの体が地面に転がった。
校庭が歓声で割れた。
「う、痛てえ」
チャンドラが大げさにうめいた。
ローサがすぐに駆け寄る。
「大丈夫、父さん」
そして、グリフを睨む。
「なんて強いの、グリフ」
芝居がかっていた。
あまりにも芝居がかっていた。
子どもたちは完全に信じていた。
「グリフすごい!」
「チャンドラを倒した!」
「一瞬だった!」
グリフは、小さくローサへ言った。
「演技が下手じゃないか」
「黙って」
*
チャンドラが立ち上がった。
「もう1本だ」
2回目は、少し長く続いた。
危ないので、殴る蹴るはなし。
レスリングのように、互いに体を寄せ、押し合い、崩し合う。
チャンドラは年齢を感じさせない重さと粘りがあった。
グリフも、まったく手を抜いていたわけではない。
むしろ、手を抜いたら危なかった。
最後は、チャンドラがうまくグリフの足を刈り、体を落とした。
グリフは地面へ転がり、腕を取られる。
「どうだ、グリフ!」
チャンドラが叫ぶ。
グリフは苦笑しながら言った。
「まいりました」
また歓声が起きた。
子どもたちは大騒ぎだった。
「1勝1敗だ!」
「グリフもチャンドラも強い!」
「今も英雄だ!」
ローサは2人を立たせ、子どもたちの方へ向いた。
「2人ともすごかったでしょう」
子どもたちが頷く。
「でも今日はここまで」
「えー!」
「グリフはまた連れてくるから」
ローサはそう言って、強引に場を締めた。
大人が集まり始める前に、3人は学校を離れた。
校舎が見えなくなったところで、グリフはその場に座り込んだ。
「グリフ?」
ローサが振り返る。
「大丈夫です。歩けます」
グリフは顔をしかめた。
「ちょっと足をひねっただけです」
チャンドラが近づき、膝をついて足首を見る。
「ここじゃまずいな」
ローサも表情を変えた。
「うちに来て」
「大丈夫だって」
「歩けるなら、余計に早く来て。腫れる前に冷やす」
そう言うと、チャンドラがグリフの肩を支えた。
「昔より重くなったな」
「チャンドラさんも、昔より容赦がなくなりましたね」
「歳を取ると、手加減が面倒になる」
「それはよくない歳の取り方です」
そんなやり取りをしながら、3人はチャンドラの家へ向かった。




