マパルスの答え
3日後、ディオから電話があった。
『グリフ。話がまとまりかけている』
「早いな」
『お前が思っているより、島の人間は暇じゃないが、動くときは早い』
「それで、どうなった」
『マパルスを作ってみようということになった』
「マパルス?」
グリフは聞き返した。
「何だ、それ」
『そうか。お前にはあまり話していなかったかもしれんな』
ディオは少し考えるように言った。
『インドネシアでは、互いに助け合うことをゴトン・ロヨンと呼ぶ』
「ゴトン・ロヨン」
『簡単に言えば、相互扶助だ。村の道を直す。誰かの家を建てる。葬式や祭りを手伝う。困った家を助ける。そういう考え方だ』
「それは分かる気がする」
『マパルスは、このあたりの地域で、その助け合いを形にする仕組みだ』
「日本で言えば、互助会みたいなものか」
『そうだな。互助会、あるいは小さな保険のようなものでもある』
グリフは椅子に座り直した。
「具体的には、どうするんだ」
『細かいところはこれから詰める』
「またそれか」
『初めから全部決めようとするな。お前の悪い癖だ』
ディオは笑った。
『大まかにはこうだ。日本へ行った者の仕送りから、一定の割合をマパルスに預けてもらう』
「仕送りから?」
『ああ。それに、お前が出したいなら出してもいい』
「俺の金も?」
『出したいんだろう』
「……否定はしない」
『その金を、特に困っている家族へ渡す』
グリフは眉を寄せた。
「それだと、ラフマンの家は助かるかもしれない。でも、ほかの家から不満が出るんじゃないか」
『出るかもしれん』
「おい」
『だが、多分大丈夫だ』
ディオの声は落ち着いていた。
『これは単なる施しではない。保険でもある』
「保険?」
『日本へ行った者だって、病気やけがで働けなくなることがあるだろう』
「ある」
『そうなれば、仕送りは減る。場合によっては止まる』
「そうだな」
『しかし、島の家族には、毎月の支払いがある。食費、学費、借金の返済、船の修理、親の薬代』
ディオの声が少し低くなった。
『仕送りが急に減れば、家族は困る』
「そのときに、マパルスから支給する」
『そういうことだ』
グリフは黙って考えた。
単にラフマンの家だけを助けるのではない。
日本へ行った者と、その家族全体でリスクを分け合う仕組みを作る。
それなら、全員に意味がある。
「預けてもらう割合は?」
『そこはこちらで調整する』
「収入が違う場合は?」
『割合にするか、一定額にするか、これから決める』
「不正に受け取る人間が出たら?」
『出るかもしれん』
「おい」
『だから、村で見ている人間が判断する』
ディオは笑った。
『始めてみて、悪いところがあれば直す。最初から完璧な制度なんか作れん』
「日本の役場が聞いたら倒れそうだな」
『役場に持っていくな』
「持っていかない」
『こちらには、こちらの信頼関係がある』
ディオはそこで一度言葉を切った。
『いや、そっちに信頼関係がないと言っているわけじゃないぞ』
最後は笑いながら付け加えた。
グリフも笑った。
「分かっている」
『それから、人の選抜についても、このマパルスが関わる』
「選抜も?」
『今やっていることがうまくいけば、日本へ行く人数は増やせるのだろう』
「まだ分からないが、可能性はある」
『そのときは、マパルスを窓口にする』
ディオの声が、少し真面目になった。
『日本語や健康状態、学ぶ意欲はもちろん見る。だが、家の事情も見る』
「困っている家を優先するのか」
『優先する場合もある』
「客観性はどうする」
『村の公的な立場の人間を入れる。ファジャル、ローサ、トニーさん、ヘルマン。ほかにも必要なら入れる』
「父さんは?」
『俺は審査には入らない』
グリフは少し驚いた。
『お前の父親である俺が選べば、日本側で問題になるのだろう』
「それは……そうだな」
『だから、俺は相談役だ。口は出すが、決める席には座らん』
「口は出すんだな」
『出すに決まっている』
ディオは当然のように言った。
『だが、決定権は持たない。それなら、お前にも迷惑はかけんだろう』
たしかに、その形なら、グリフの肉親が恣意的に選抜しているという印象は薄まる。
島側に公的な窓口ができ、そこが選抜や支援を担う。
日本側は、農協や受け入れ機関と連携しながら、その窓口とやり取りする。
いずれグリフ自身も、受け入れ実務を農協へ移していく予定だった。
そう考えれば、これは必要な一歩かもしれなかった。
*
『ただし』
ディオの声が、少しだけ厳しくなった。
『日本からの口出しは、少し遠慮してもらいたい』
「俺に言っているのか」
『お前に言っている』
「はっきり言うな」
『相手国の文化の尊重というやつだ』
グリフは苦笑した。
「その言葉を父さんから聞くとは思わなかった」
『便利な言葉は使う』
「確かに」
『お前は日本側での仕事や生活をうまくいかせろ』
ディオは言った。
『こちらの家族には、こちらで話す』
『そちらの若い連中には、大まかな状況だけ説明しろ。細かい調整は、家族と村でやる』
「本人たちに説明しなくていいのか」
『もちろん、隠す必要はない。だが、まず家族の了承を得る』
『家族が納得すれば、そちらから大きな文句は出にくい』
グリフは、少し考えた。
日本的な感覚では、本人の同意をまず重視したくなる。
だが、ルンザットでは家族単位の生活が強い。
仕送りの問題は、本人だけでなく、家族全体の問題である。
ディオの言うことには、現地の現実があった。
「分かった」
グリフは静かに言った。
「ありがとう」
『礼を言うのは、まだ早い』
「でも、助かった」
電話の向こうで、ディオが少し黙った。
『グリフ』
「何だ」
『お前は、こっちから離れて長い』
「ああ」
『だから、分からないことが増えるのは当然だ』
その言葉は、責めるものではなかった。
だからこそ、胸に残った。
『だが、分からないことは聞けばいい』
「そうする」
『じゃあな』
「ああ」
電話は切れた。
グリフは、しばらく携帯電話を耳から離せなかった。
ディオは、心配をかけまいとしている。
問題を軽く扱っているわけではない。
グリフが背負いすぎないように、島の側で受け止めようとしてくれている。
それはディオだけではない。
トニー、ヘルマン、ファジャル、ローサ。
かつて一緒に島の将来を考えた人々が、今もそれぞれの場所で動いている。
自分は1人でルンザットを支えているつもりでいたのかもしれない。
だが、実際には逆だった。
グリフもまた、島の人々に支えられていた。
そのことに気づくと、胸の奥が少し熱くなった。
*
そのとき、携帯電話が再び鳴った。
ディオからだった。
「何だ。言い忘れか」
『ああ、ひとつ忘れていた』
「何」
『さっきのマパルスの名前なんだが』
「名前?」
『普通、マパルスには名前をつける』
「そうなのか」
『それで、名前をグリフ・マパルスにしていいか』
グリフは一瞬、言葉を失った。
「……はあ?」
『だから、グリフ・マパルスだ』
「無理だ」
『なぜだ』
「恥ずかしい」
『そう言うな。お前の名前は便利なんだ』
「便利?」
『みんな知っている。説明が早い』
「説明が早いからって、人の名前を勝手に互助会につけるな」
『こっちでは、もう何人かそれで納得している』
「納得するな」
『じゃあ、それでいくから、よろしく』
「待て、まだ許可してない」
『相手国の文化の尊重だ』
「それを使うな」
ディオは笑っていた。
『じゃあな』
「父さん、待っ――」
電話は切れた。
グリフは、携帯電話を見つめた。
数秒後、深くため息をつく。
「グリフ・マパルス……」
声に出してみると、想像以上に恥ずかしかった。
その名前が島で普通に呼ばれる光景を思い浮かべ、グリフは思わず頭を抱えた。
それでも、胸の奥に残っていた重さは、少しだけ軽くなっていた。
*
もう一つの懸念は、不正なアルバイトへの誘いだった。
これは、留学生だけに限った話ではない。
技能実習生にも、その手が伸びてくる可能性がある。
農家で働く技能実習生は、日中は受け入れ先の農家にいる。夜はアパートへ戻る。生活範囲は広くない。
だが、人間は仕事場と部屋だけで生きているわけではない。
買い物にも行く。
日本語学校の知り合いと会うこともある。
駅前で声をかけられることもある。
同じ国の出身者や、似た境遇の外国人から、
「もっと稼げる仕事がある」
と言われれば、完全に無視できるとは限らない。
*
グリフは、農協の倉林へ相談した。
倉林は、話を聞きながら何度か頷いていた。
「確かに、可能性としては考えておいた方がいいですね」
「借金を背負って日本へ来ているわけではないので、一般的なニュースに出てくる事例よりは危険は少ないと思います」
グリフは言った。
「でも、ラフマンのこともあります。家族へもっと送りたいと思えば、無理をするかもしれません」
「お金の不安があるときは、判断が鈍りますからね」
倉林は、少し考えてから言った。
「まずは本人たちへ、具体的な事例を説明しましょう」
「単に、法律違反だから駄目だ、では弱いですか」
「弱いと思います」
倉林は机の上に手を置いた。
「どういう言葉で近づいてくるのか。どういう流れで断れなくなるのか。どこで危険だと気づくべきなのか。そこまで説明した方がいい」
「絶対に誰にもばれない、とか」
「みんなやっている、とか」
「1回だけなら大丈夫、とか」
「現金だから記録に残らない、とかですね」
グリフは、ジョコから聞いた言葉を思い出した。
そういう者たちは、弱っている人間を見つけるのがうまい。
「それと」
倉林が続けた。
「この企画ならではの対策もできます」
「この企画ならでは?」
「家族です」
倉林は言った。
「彼らが怪しい誘いを受けたとき、最初に相談する相手は、田辺さんや私とは限りません」
「一緒に来た仲間でもないかもしれません」
「家族ですか」
「はい。電話やメールで、まず家族に言う可能性があります」
グリフは頷いた。
ルンザットの若者たちと家族のつながりは強い。
日本で何かあれば、本人たちは思っている以上に家族へ話す。
それは、グリフが忘れかけていたルンザットの生活感でもあった。
「家族が危険を知っていれば、止めてくれるかもしれません」
倉林は言った。
「日本側だけで注意するより、島側でも同じ認識を持ってもらった方がいい」
「ディオに伝えます」
「お願いします。マパルスの仕組みができるなら、そこを通じて共有するのもいいと思います」
仲間同士で監視させることも、グリフは一瞬考えた。
互いに報告させれば、危険を早く見つけられるかもしれない。
だが、それはやめた。
彼らの生活を守るために来てもらっているはずなのに、互いに疑わせるような仕組みを作れば、信頼関係が壊れる。
アパートが共同生活の場ではなく、監視の場になってしまう。
ただ、家族とのつながりを利用することはできる。
彼らが家族へ相談し、家族がマパルスやディオへ知らせる。
そうすれば、本人を追い詰める前に、周囲が支えることができる。
*
グリフは、ディオへ不正就労の事例と注意点を伝え、マパルスを通じて各家族へ共有してもらうことにした。
ディオは電話の向こうで、いつものように軽く受け止めた。
『分かった。家族へ伝える』
「軽く言ってるけど、かなり大事な話だからな」
『大事な話だから、軽く言っているんだ。重く言いすぎると、みんな怖がって何も相談しなくなる』
「それは……確かにそうか」
『怪しい話が来たら、まず家族へ言え。家族はマパルスへ言え。こっちで止める。そういう流れにしておく』
「頼む」
『お前も、そっちで怖い顔をして説明しすぎるなよ』
「俺はそんな顔をしてるか?」
『してるときはしてる』
電話を切ったあと、グリフは少しだけ反省した。
*
本人たちへの説明会は、農協の会議室で行った。
留学生4人と技能実習生たちが集まり、ジョコが通訳を手伝った。
倉林が、日本語でゆっくり説明する。
「働いてよい時間、働いてよい場所、受け取ってよいお金には決まりがあります」
ジョコがインドネシア語へ訳す。
グリフも必要に応じて補足した。
「誰かから、『もっと稼げる仕事がある』と言われたら、必ず相談すること」
「現金でもらえるから大丈夫、という言葉は危ない」
「名前を書かないから大丈夫、という言葉も危ない」
「みんなやっている、という言葉も信用しないこと」
リザルが手を挙げた。
「本当にみんなやっていた場合は?」
グリフは即答した。
「みんな間違っている」
部屋に少し笑いが起きた。
「では、もし美人に誘われたら?」
「断れ」
「でも、困っている美人かもしれません」
「お前は特に断れ」
ナノが横から言った。
「リザルの場合、美人というだけで危険度が上がります」
「ナノは、僕を信用していません」
「信用しています。だから心配しています」
リザルは納得していない顔をしたが、周囲は笑っていた。
ラフマンは、静かに話を聞いていた。
説明会のあと、グリフは彼を少し呼び止めた。
「この話は、お前を疑っているからしたわけじゃない」
ラフマンはグリフを見た。
「分かっています」
「本当か」
「はい」
ラフマンは少しだけ表情を緩めた。
「家族にも、マパルスから話が行ったそうです」
「そうか」
「母からメールが来ました。怪しい仕事をするくらいなら、送るお金が少なくてもいい、と書いてありました」
その言葉を聞いたとき、グリフは胸の奥が少し軽くなった。
「よかったな」
「はい」
ラフマンは小さく頷いた。
「少し、楽になりました」
*
それから、ラフマンは少しずつ変わっていった。
急に明るくなったわけではない。
人懐っこいアディのように、誰にでも笑顔を振りまくわけでもない。
リザルのように、女性客の前だけ急に声が柔らかくなるわけでもない。
だが、肩の力が少し抜けた。
ジョコの指示にも、以前ほど硬く反応しなくなった。
「ラフマン、この料理、5番テーブルへお願いします」
「はい」
以前なら、少し間を置いてから動いた。
今は、すぐに皿を持つ。
接客でも、ぎこちないながら笑顔を作るようになった。
ある日、常連客の女性が帰り際に言った。
「ラフマン君、最近ちょっと優しくなったね」
ラフマンは返事に困った顔をした。
「前は、優しくなかったですか」
女性は笑った。
「前は、真面目すぎた」
ラフマンはしばらく考え、深く頭を下げた。
「これから、少しだけ優しくします」
厨房で聞いていたジョコが、あとでグリフに言った。
「少しだけ、だそうです」
「ラフマンらしいな」
「はい」
そう言いながら、ジョコも嬉しそうだった。
***
9月に入り、駅前の新店舗がオープンした。
和菓子の藤樹堂と、アジア料理のワルン・クラサワ。
同じ建物の中で区切られた2つの店は、開店前から地元紙で取り上げられていたこともあり、初日から予想以上の客が入った。
春子は、開店前から自信満々だった。
「絶対に来るわよ」
「来てくれるといいですね」
グリフが慎重に言うと、春子は鼻で笑った。
「来るわよ。来なかったら、町民の舌がおかしい」
「かなり強い言い方ですね」
「私は商品を信じてるの」
その自信は、少なくとも外れなかった。
1週間後には、昼時に行列ができるようになった。
観光客だけでなく、地元の人間も来る。
藤樹堂で土産を買い、ワルンで昼食を取る。
ワルンで食事をした客が、帰りにココまるを買う。
春子の狙いどおり、2つの店は互いに客を送り合っていた。
ただし、現場は地獄だった。
「ナノ、2番テーブル、ナシゴレン2つ」
「はい」
「アディ、レジお願い」
「はい、少し待ってください」
「待てない。お客さんが待ってる」
「僕も待っています」
「何を?」
「自分の休憩です」
グリフは笑う余裕もなかった。
ナノは優秀だったが、1人では足りない。
結局、アディも新店舗へ呼ぶことになった。
それでも忙しさは変わらない。
厨房では、グリフが次々に鍋を振り、ナノが料理を運び、アディが接客と片づけに走り回る。
3人とも毎日くたくただった。
春子は、こういうときの判断が早い。
「人を回すわ」
「誰をですか」
「藤樹堂から1人」
「和菓子の方も忙しいでしょう」
「だから、使える人を探したの」
*
翌日、店に来たのは、加藤の弟だった。
名前は加藤修平。
兄より少し無口で、表情も硬い。
接客にはあまり向いていないように見えた。
初日に客から、
「おすすめは何ですか」
と聞かれ、しばらく黙ったあと、
「全部、作れます」
と答えた。
客は困惑した。
グリフも困惑した。
「おすすめを聞かれたら、料理名を言ってください」
「全部、同じくらい大事です」
「そういう職人精神はいったん置いてください」
だが、料理はうまかった。
加藤の弟だけあって、手先が器用で、手順を覚えるのが早い。
味を一度見せれば、2度目にはほぼ再現する。
ひと月も経つころには、店の主要メニューのほとんどを作れるようになっていた。
ミーゴレン。
ナシゴレン。
サテ。
スープ。
簡単な炒め物。
グリフは、時折注文の入る珍しい料理や、常連向けの特別な料理だけを担当すればよくなった。
「修平さん、接客以外は完璧ですね」
ナノが言う。
「接客は?」
「これからです」
「言い方に気を使わせて悪いな」
修平は真面目に頷いた。
「接客は、アディに習います」
アディは胸を張った。
「任せてください。笑顔が大事です」
修平が真顔で笑顔を作った。
アディが少し黙った。
「まず、怖くない顔から練習しましょう」
新店舗は忙しかった。
だが、少しずつ形になっていった。




