正しさだけでは足りない
ジョコは最後まで黙って聞いていた。
そして、静かに言った。
「家族から疑われるのは、つらいですね」
「お前は、そういうことはなかったか」
「僕は1人で来ましたから」
ジョコは少し考えた。
「比較される相手がいませんでした。家族からは、感謝しかされませんでした」
「そうか」
「ラフマンは、かわいそうです」
ジョコの声には、素直な同情があった。
「俺も、昨日初めて分かった」
グリフは洗い場の方を見た。
ラフマンは背中を丸めることなく、淡々と食器を洗っている。
「ラフマンの家は、島の中でもかなり貧しいらしい」
「はい」
ジョコは頷いた。
「不器用なのは確かです。でも、意地が悪いわけではありません」
「人当たりが悪く見えるだけか」
「たぶん、余裕がないんだと思います」
その言葉は、グリフの胸に刺さった。
余裕がない。
それは、ラフマンの接客態度や職場での硬さを説明するのに、一番近い言葉かもしれなかった。
ジョコは少し目を伏せた。
「僕も、彼のことを少し誤解していたかもしれません」
「俺もだ」
グリフはすぐに言った。
「これから、どうするんですか」
「給与は、今言った事情で上げられない」
グリフは机の上で手を組んだ。
「だから、まず状況を説明する。留学生と技能実習生では制度が違うこと。働ける時間が違うこと。授業料や携帯電話など、見えにくい待遇もあること」
「向こうの家族にも、ディオを通して説明してもらおうと思っている」
ジョコは少し不安そうな顔をした。
「それで、大丈夫でしょうか」
「大丈夫ではないかもしれない」
グリフは正直に答えた。
「でも、今はそれ以外に方法が思いつかない」
*
ジョコは黙った。
その沈黙に、何か考えがあるように見えた。
「何か気になることがあるのか」
「2つ、心配があります」
「2つ?」
「はい」
ジョコは、少し言いにくそうにしながらも続けた。
「一つは、ルンザットのことです」
「ルンザット?」
「直人さんは、ディオさんに、公正に選抜するよう頼んだんですよね」
「ああ」
グリフは頷いた。
「日本の公的な機関や農協が関わることになる。だから、誰を日本へ送るかは、客観的な基準で決めるべきだと思った」
日本語力。
学習意欲。
健康状態。
家族の同意。
日本で働く目的。
そうした基準を作ってほしいと、ディオへ頼んだ。
見た目についても、飲食や接客を考えて希望としては伝えたが、優先順位は高くなかった。
実際、後から来た技能実習生の中には、先に来た4人以上に整った顔立ちの者もいた。
ディオが外見だけで選んだわけではないことは明らかだった。
「客観的な基準で選ぶと、学力や日本語の上達が分かりやすくなります」
ジョコが言った。
「そうだな」
「でも、そうすると、家の事情は後ろに下がります」
「家の事情?」
「その家が貧しいとか、年が上だから早く稼がなければならないとか、病気やけがで漁に出られなくなったとか、兄弟が多いとか」
ジョコは一つずつ挙げた。
「そういう事情は、客観的な点数にしにくいです」
グリフは黙った。
たしかに、そのとおりだった。
ディオは、自分の加工場で人を雇うとき、困っている人間を優先していた。
夫を亡くした女性。
けがで漁に出られなくなった男。
子どもを多く抱えた家。
そうした事情を見て、多少能力が足りなくても雇うことがあった。
グリフが何も言わなければ、ディオはおそらく、日本へ送る人間についても、さまざまな事情を考慮しただろう。
だが、グリフは公正さを求めた。
日本側へ説明できるように。
恣意的だと言われないように。
誰かの縁故や感情で決まったと思われないように。
それは間違っていないはずだった。
「勉強することはいいことです」
ジョコは続けた。
「でも、勉強するには時間も必要です。道具も必要です。家族の協力も必要です」
「貧しい家ほど、無理をしてでも、その時間を作ろうとします」
「ラフマンの家みたいにか」
「はい」
ジョコは頷いた。
「そして、誰が日本へ行けるかで、島の中に競争が生まれます」
「日本へ行ける人と、行けない人」
「選ばれた家と、選ばれなかった家」
「仕送りが多い家と、少ない家」
グリフは、目を伏せた。
ルンザットにいたころ、自分が目指していたのは、島全体が少しずつ豊かになることだった。
観光客を呼ぶ。
漁業のために冷凍施設を整える。
農業では換金作物を導入する。
ディオの加工場で仕事を作る。
それは、島の中で誰かが誰かに勝つことではなかった。
島全体の底を上げるための取り組みだった。
もちろん、日本へ働きに来ることも、島を豊かにする道の一つである。
仕送りが増えれば、家族の生活は楽になる。
日本で学んだ技術や考え方を、将来ルンザットへ持ち帰ることもできる。
だが、その仕組みが島の中に競争を生み、人間関係にひびを入れるなら、それはグリフの望んだ形ではなかった。
「島全体で豊かになるよりも」
ジョコは静かに言った。
「島の中の誰かに勝つことが大事になってしまうかもしれません」
グリフは、天井を見上げた。
*
店の天井には、開店時に取り付けた南国風の照明がぶら下がっている。
その薄い影が、白い壁に揺れていた。
「だけど、誰にでも分かる基準で選ぶのは、正しいはずだ」
グリフは言った。
「はい」
ジョコは否定しなかった。
「日本では、そうだと思います。ルンザットでも、間違っているわけではありません」
「でも」
「正しいことが、いつも幸せにつながるとは限らないんだと思います」
その言葉に、グリフは返事ができなかった。
敏夫や村田と関わるようになってから、グリフは政治や行政の見方が少し変わっていた。
以前は、役場の仕事を、融通が利かず、時間ばかりかかる非効率なものだと思っていた。
だが、基準を作ること。
法律を守ること。
手続きを踏むこと。
感情や個人的なつながりだけで決めないこと。
それらが、多くの人が関わる仕事ではどれほど重要かを学んできた。
村田の住民投票でも、役場の慎重さには意味があった。
敏夫の調整も、法的な線引きや実務の積み重ねがなければ成り立たなかった。
正しさは、必要だ。
それは今でも否定できない。
だが、そこで終わってはいけないのではないか。
正しい基準を作ったあと、その基準からこぼれる痛みを、どう見るのか。
公平に選んだ結果、貧しい家がさらに無理をするなら。
努力した者を選ぶ制度が、努力する余裕のない者を置き去りにするなら。
そのとき、正しさだけで十分だと言えるのか。
グリフは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり口を開いた。
「もう一つは何だ」
ジョコは表情を少し変えた。
一つ目より、さらに言いにくそうだった。
「もっと身近なことです」
「身近?」
「日本語学校には、いろんな人が来ています」
「そうだろうな」
「いい人もいます。悪い人もいます」
「悪い人?」
グリフは眉をひそめた。
ジョコは頷いた。
「もしラフマンがお金をもっと必要としていて、家族からも何か言われ続けたら、別のアルバイトを探すかもしれません」
「いや、留学生は週28時間を超えて働けない」
グリフはすぐに言った。
「資格外活動の範囲だ。これは仕事を複数持っていても合計で28時間だ」
「みんな知っています」
ジョコは静かに答えた。
「でも、バレなければいいでしょう、という人もいます」
グリフは黙った。
「役所に届けない仕事です」
「現金でもらう仕事」
「名前を出さない仕事」
「そういう話を持ってくる人がいます」
「それは危険だ」
グリフの声が低くなった。
「金はもらえるかもしれないが、もしばれたら在留資格に関わる。本人だけじゃない。家族にも、後から来る人間にも迷惑がかかる」
「分かっています」
「ラフマンだって分かっているはずだ」
「分かっていても、弱っているときは危ないです」
ジョコは、まっすぐグリフを見た。
「そういう人たちは、お金で困っている人を見つけるのが上手です」
「絶対に誰にもバレない」
「みんなやっている」
「1回だけなら大丈夫」
「そう言ってきます」
グリフは、背中に冷たいものが走るのを感じた。
どこにでも、そういう人間はいる。
東京で大学生だったころ、友人の友人が大麻をやっているらしいという噂を聞いたことがあった。
ニュースでも、留学生が違法なアルバイトに関わった事件を見たことがある。
ラフマンたちが通う日本語学校にも、そうした話がまったくないとは言えない。
可能性としては低い。
そう思いたかった。
だが、もし一度でも誘いに乗ればどうなるか。
その後で、
「ばらされたくなければ、もっと働け」
「友人も連れてこい」
「金を払え」
と脅される可能性もある。
違法な仕事そのものより、その後の支配の方が恐ろしい。
「さすがに、それはない」
グリフは言った。
「ラフマンは、そんなやつじゃない」
言いながら、自分でもその言葉が願望に近いことを感じていた。
ラフマンは真面目だ。
家族思いだ。
だからこそ危うい。
家族のために、少しだけ無理をしようと思ってしまうかもしれない。
「4人で互いに見張らせるか」
一瞬、そんな考えが浮かんだ。
誰がどこへ行ったか。
誰と会ったか。
何時に帰ったか。
互いに報告させる。
問題を防ぐには、有効かもしれない。
だが、すぐに打ち消した。
それでは、彼らを信頼していることにならない。
ただでさえ、ルールだ、時間だ、ごみだ、近所だと細かく言っている。
さらに互いに監視させれば、アパートは生活の場ではなくなる。
グリフは、急に息苦しさを覚えた。
守りたい。
だが、守ろうとすればするほど、彼らの自由を縛る。
信頼したい。
だが、信頼だけでは危険を防げない。
公平でありたい。
だが、公平な基準が、誰かの痛みを見えなくする。
正しくありたい。
だが、正しさだけでは救えないものがある。
ジョコが静かに言った。
「直人さん」
「何だ」
「ラフマンを、怒らないでください」
グリフは顔を上げた。
「怒らないよ」
「彼は、たぶん自分でも苦しいです」
「分かっている」
「でも、分かっている人ほど、言い方が厳しくなることがあります」
ジョコは少しだけ笑った。
「直人さんも、そういうところがあります」
グリフは苦い顔をした。
「お前、最近、遠慮がなくなったな」
「日本語が上手になりましたから」
「そういう問題か」
「はい」
ジョコは真面目な顔で頷いた。
その真面目さに、グリフは少しだけ笑った。
しかし、すぐに表情を戻した。
「ありがとう」
「何がですか」
「2つとも、言ってくれて」
ジョコは首を横に振った。
「僕も、ルンザットから来た人間です」
「直人さんほど大きなことはできません」
「でも、近くで見えることはあります」
グリフは、洗い場のラフマンをもう一度見た。
ラフマンは、こちらの会話に気づいていないのか、気づいていて無視しているのか、黙って皿を拭いていた。
その背中は、昨日までと同じように硬く見えた。
だが、もう同じ背中には見えなかった。
グリフは深く息を吸った。
うまく吸えなかった。
胸の奥に、何か重いものが引っかかっている。
受け入れは、順調に進んでいる。
そう思っていた。
だが、順調という言葉の下で、小さなひびがいくつも走り始めていた。
グリフは、そのひびを見なかったことにはできなかった。
***
翌日、グリフはディオへ電話をかけた。
日本時間では午前中だったが、ルンザットではまだ朝の早い時間である。
島の電波状況は昔に比べればずいぶん良くなっていたが、それでも時折、声が遠くなることがあった。
何度目かの呼び出し音のあと、ディオが出た。
『おう、グリフ。どうした』
いつもの声だった。
低く、少し眠そうで、それでいて不思議と明るい。
その声を聞いただけで、グリフの胸の奥に残っていた緊張が、わずかに緩んだ。
「少し相談がある」
『珍しいな。お前が改まると、だいたい面倒な話だ』
「今回は、本当に面倒な話だ」
グリフは、前置きを短くして事情を説明した。
最初に来た4人の留学生と、後から来た技能実習生との仕送り額に差が出ていること。
ラフマンの家族が、その差を知り、ラフマンが日本でお金を使っているのではないかと心配していること。
ラフマンが、それをとてもつらく感じていること。
さらに、客観的な基準で日本へ送る人間を選ぼうとした結果、島の中で競争が生まれてしまうのではないかと気になっていること。
話しながら、グリフ自身も整理できていないことに気づいた。
給与の問題。
仕送りの問題。
家族の誤解。
留学生と技能実習生の制度の違い。
島の中での選抜のあり方。
それらが、一本の糸のように絡まり合っている。
自分1人でほどこうとすれば、余計に結び目を固くしてしまう気がした。
電話の向こうで、ディオは黙って聞いていた。
グリフが話し終えると、少し間があった。
そして、意外なほど明るい声が返ってきた。
『考えすぎだ、グリフ』
「考えすぎ?」
『ああ。お前は昔から、頭の中で10個先まで心配する』
「心配するだけの理由はあるだろう」
『ある。だが、こっちのことはこっちで何とかする。心配するな』
「何とかって、どうするつもりだ」
『それはこれから考える』
「考えてないのか」
『今、聞いたばかりだろうが』
ディオは笑った。
『トニーさんやヘルマン、それから幹部連中に相談する。こういう話は、1人で決めるもんじゃない』
グリフは小さく息を吐いた。
「そうか」
『それに、ラフマンの家のことなら、こっちでも気にしている人間はいる。お前が気づいたのは遅いが、気づかないよりましだ』
「厳しいな」
『父親だからな』
その言い方があまりにも自然で、グリフは少し笑ってしまった。
*
「みんな元気か」
『ああ。ファジャルが村長になったのは言ったか』
「聞いたような気もするし、聞いてないような気もする」
『お前は日本で忙しすぎる』
「それは認める」
『あと、ローサも最近、幹部になった』
「ローサが?」
その名前を聞いた瞬間、グリフの中で、古い記憶が少しだけ動いた。
ローサ。
10年以上前、ルンザットでともに島の未来を考えた1人である。
若く、頭がよく、村の人々からも信頼されていた。
そして、グリフが村民投票で敗れた相手でもあった。
あのときのわだかまりは、グリフが日本へ帰る理由の一つになった。
もちろん、今はもうそんなものは残っていない。
悔しさも、意地も、時間とともに薄れていた。
残っているのは、懐かしさだけだった。
「あいつは優秀だったからな。人望もあったし」
グリフは言った。
「でも、まだ若いだろう。俺より10歳ぐらい下だから……26か」
『若いが、実質的に農民を仕切っているのは彼女だ』
ディオの声には、はっきりとした評価があった。
『去年までは、名目上はベニが頭だった。だが、ベニももう十分やった。10年だ。そろそろ引退していい』
「これで名実ともにローサが農民側の中心か」
『そういうことだ。すっきりした格好だな』
「結婚したのか」
電話の向こうで、ディオが少し笑った。
『なんだ。気になるのか』
「そういう意味じゃない」
グリフはすぐに否定した。
「ただ、あいつの旦那になる男は、肩身が狭いだろうと思って」
『それもあるのかもしれんな』
ディオは楽しそうだった。
『まだ独身だ。きれいな顔はしているんだがな』
「相変わらずか」
『男がびびって近寄らないのかもしれん』
「分かる気がする」
グリフは思わず頷いた。
ローサの鋭い目と、容赦のない物言いを思い出す。
若いころの自分も、何度か正面から言い負かされた。
あれを毎日相手にする男は、相当な覚悟がいるだろう。
少し空気が和らいだところで、グリフは改めて言った。
「いずれにしても、そちらで相談してくれると助かる」
「面倒ごとを押しつけたみたいで、申し訳ない」
『だから、そんなに気にするな』
ディオの声が少し柔らかくなった。
『俺も日本にいたときは、細かいことで気に病んだことがあった』
「父さんが?」
『あるさ。言葉、手続き、人間関係、金のこと。日本は便利だが、何でも紙に書いて、何でも数字にする。慣れない人間には、あれは疲れる』
グリフは黙って聞いた。
『とにかく任せろ』
「ああ。頼む」
『大丈夫だ』
ディオは、軽く言った。
『あのときよりは、全然ましだ』
グリフは、その一言の意味をすぐに理解した。
あのとき。
ゲリラが島へ来たとき。
誰が生き残るのか、誰を逃がすのか、どこまで戦うのかを考えなければならなかった日々。
グリフ自身も、困ったことがあるたびに、心のどこかで同じように考えてきた。
あのときよりはましだ。
少なくとも、今は命のやり取りではない。
間違えれば人を傷つける。
判断を誤れば人間関係が壊れる。
それでも、生き死にではない。
「島でも、そう考えているのか」
『そりゃあな』
ディオは軽く笑った。
『あのとき一緒にいた連中は、たいていそうだ。面倒なことが起きると、誰かが言う。あのときよりはましだ、とな』
グリフは、電話を持つ手に少し力を込めた。
懐かしさと、申し訳なさと、少しの誇らしさが混じった。
『2、3日したら、また連絡する』
「ああ。待っている」
電話を切ったあと、グリフはしばらく携帯電話を見つめていた。
ディオの声は明るかった。
だが、それは問題を軽く見ているからではない。
心配をかけまいとしているのだと分かった。
*
その日のうちに、グリフはラフマンにも途中経過を伝えた。
ワルン・クラサワの仕事が終わったあと、短い時間を作って話した。
「父に連絡した」
グリフはインドネシア語で言った。
「ルンザット側でも、相談してくれるそうだ」
ラフマンは少し緊張した顔で聞いていた。
「家族にも、話が行きますか」
「いずれ行くと思う。ただ、すぐに結論が出る話ではない」
「はい」
「でも、何もしないわけじゃない」
ラフマンは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その声はまだ硬かったが、昨夜よりは少し落ち着いていた。
相談しても何の反応もない。
それが一番不安だろうと、グリフは思っていた。
今はまだ解決策を示せない。
それでも、動いていることだけは伝えておきたかった。




