藤樹堂の傘の下
数日後、グリフは久しぶりに藤樹堂を訪れた。
春子から、駅前に計画している新店舗について相談がある、と呼び出されたのだ。
事務所へ入ると、春子と黒田がパソコンの前に並んで座っていた。
黒田は、もともと1階の売り場を担当していた。だが、パソコンに詳しいことが分かり、いつの間にか事務方へ配置換えされたらしい。
選挙期間中は敏夫の手伝いで忙しくしていたが、選挙が終わっても売り場へは戻らず、そのまま事務所に席を置くようになっていた。
「この注文は30箱。こっちは来週の火曜日まで。送り先を間違えないでね」
春子が伝票を指で叩く。
「はい。こちらは熨斗ありですね」
黒田が確認しながら、手際よくパソコンへ入力していた。
「春子さん、こんにちは」
「あ、直人。ちょっと待ってて。もうすぐ終わるから」
「忙しそうですね。向こうで待ってます」
グリフは事務所の隅にある打ち合わせ用のテーブルへ移った。
以前は誰も使っていない時間の方が多かった場所だが、今は伝票の束や商品見本、取引先から送られてきた資料が積まれている。
藤樹堂が、少しずつ昔ながらの和菓子屋ではなくなりつつあるのが分かった。
やがて入力を終えた春子が、大きな紙を抱えてやって来た。
「待たせたね」
テーブルいっぱいに広げたのは、駅前にある空き店舗の間取り図だった。
駅のロータリーに面した、かなり広い物件である。
かつては八百屋だった。その後、店舗を拡張して小型のスーパーになったが、郊外にショッピングモールが開業してから客足が途絶え、長い間空きテナントになっていた。
春子は図面の中央を指で叩いた。
「どう思う?」
「どう、とは」
「和菓子屋だけで使うには広いでしょう。直人も駅前に店を出したいなら、一緒に入ればちょうどいいじゃない」
グリフは図面をのぞき込んだ。
売り場だけでも、現在のワルン・クラサワより広い。奥には厨房に使えそうな作業場があり、倉庫と事務室もある。
条件だけを見れば悪くない。
しかし、問題は春子が何を考えているのかだった。
「前に言っていたコラボ店というのは、同じ建物に店を出すという意味ですか」
「そうよ」
「じゃあ、内部を区切って、それぞれ別の店として営業してもいいんですね」
春子は少し考えた。
「完全に分ける必要ある?」
「ありますよ」
グリフは即答した。
「和菓子店とインドネシア料理店ですよ。何も考えず一緒にしたら、羊羹の隣でサンバルを売る店になります」
「面白いじゃない」
「面白さだけで飲食店を作らないでください」
少し離れた席で、黒田が画面を見たまま口元を緩めた。
春子は気にせず話を続けた。
「ココまるの売り上げが好調なのよ。若い子に、かわいいって評判なの」
「そうみたいですね」
「だから、また何か一緒にやりたいの。ほら、なんとか効果っていうやつ」
「シナジー効果です」
「それよ、それ」
「それと、ココまるは、うちで使っている商品名ですよね。藤樹堂では『生あまん・ココナッツ味』だったはずですけど」
ココまるは、もともと藤樹堂では「生あまん・ココナッツ味」という名前で販売されていた。
ほぼ同じ商品を、ワルン・クラサワでは「ココまる」と名づけて売っている。
若い客には、こちらの名前の方が受けた。
そのため、いつの間にか藤樹堂でも商品名が「ココまる」に変わっていた。
もちろん、グリフへの連絡はなかった。
別にどちらでもよかったので黙認していたが、せっかくなので少しだけ嫌みを言ってみたのだ。
春子は悪びれなかった。
「生あまんも、いい名前だと思うのよ」
「そうですか」
「でも、言いにくいの」
春子は1音ずつ区切った。
「な・ま・あ・ま・ん」
実際に口を何度も開けたり閉じたりする。
「口が忙しいでしょう」
「商品名を変えた理由が、口の運動量なんですか」
「そう。だからココまるにしたの」
グリフは、言い訳があまりに独創的だったので許すことにした。
「それで、コラボ商品の案は何かあるんですか」
「あるよ」
春子が胸を張った。
「タピオカ」
「タピオカですか」
グリフの声が少し低くなる。
「前に一度流行りましたよね。でも、今さらどうでしょう」
「また流行ると思うのよ」
「根拠は?」
「予感」
「一番経営判断に使っちゃいけないやつですね」
「そうかしら」
春子は不満そうだった。
グリフは図面を見ながら考えた。
「原料のキャッサバはインドネシアでも栽培されていますから、コラボの理由は作れます。でも、タピオカ自体は、もうブームが終わっていますよ」
「もう1回来る気がするんだけどなあ」
「来ませんって」
「そうかあ」
春子は本気で残念そうに肩を落とした。
少し離れた場所で、黒田が入力の手を止めた。
「写真映えはしそうですけどね」
「ほら、黒田君も言ってる」
「黒田さん、余計な援護はしないでください」
後年、グリフはこの時の春子の予感が正しかったことを知ることになる。
しかし、この時点では、春子の思いつきの一つとしか考えていなかった。
春子は図面をたたみ始めながら、思い出したように言った。
「それからさ。加藤のことなんだけど」
――加藤さんか。
グリフは身構えた。
選挙期間中、加藤にはかなり店を手伝ってもらった。
ひょっとすると、その分の人件費を請求されるのかもしれない。
「加藤が、あんたの店を気に入ったらしくてね」
「はい」
「できれば、そっちで働きたいって言い出したのよ」
――どういうことだ。
――藤樹堂を辞めて、うちで直接雇えという話か。
加藤は菓子職人である。
店では接客も調理補助もこなしていたが、本来は藤樹堂にとって貴重な人材のはずだった。
「まあ、本人の希望だから、それでもいいんだけど」
春子はあっさり言った。
「その代わりね」
――その代わり。
グリフの頭に、嫌な予感が浮かぶ。
――ジョコは駄目だぞ。
――あいつは料理人で、うちの看板でもある。
春子は何でもないことのように言った。
「あんた、藤樹堂に入らない?」
グリフは数秒、言葉を失った。
――どういうことだ。
――加藤さんと俺のトレードか。
――しかし、トレードというのは選手と選手でするものだろう。
――選手と監督、いや、選手と球団オーナーを交換する話なんて聞いたことがない。
「えっと……意味がよく分からないんですけど」
「そのままの意味よ」
春子は椅子へ座り直した。
「私は、あんたを買ってるの」
「人身売買みたいな言い方はやめてください」
「評価してるってこと」
春子は気にする様子もなく続けた。
「料理人としても腕がいい。でも、あんたはそれだけじゃないでしょう」
「パソコンもできる。宣伝もできる。新しい商品も考えられる。人を使うのも上手い。町の人とも観光客とも話ができる」
春子は指を折りながら並べていった。
「これから藤樹堂が大きくなるなら、そういう人が必要なのよ」
「甥だからとか、そういうことじゃない」
春子はそこで、珍しく真っすぐグリフを見た。
「人材として、直人が必要だと思ってる」
グリフは、すぐには返事ができなかった。
率直に嬉しかった。
これほどあからさまに、必要だと言われた経験はほとんどない。
春子は駆け引きをするような人間ではない。
相手を持ち上げ、断りづらくしてから条件を押しつけるような器用さもない。
言葉どおり、本気でそう思っているのだろう。
言い方は少し乱暴だが、実務的にはワルン・クラサワを藤樹堂の傘下へ入れ、グリフ自身も経営に加わってほしいという話らしい。
だが、それは店の将来だけでなく、自分の生き方まで変える決断だった。
「必要だと言ってもらえるのは、素直に嬉しいです」
グリフは慎重に答えた。
「ただ、すぐには決められません。少し考える時間をください」
「駄目」
「え?」
即答だった。
「今の話、聞いてました?」
「聞いてたよ。でも、時間はあまりないの」
春子は机の上に置いてあった1枚の書類をグリフの前へ滑らせた。
そこには、誰でも知っているコンビニエンスストアの名前が書かれていた。
「コンビニから話が来てるの」
「え、コンビニから?」
グリフは思わず書類を手に取った。
ココまるを一部店舗で扱いたいという内容だった。
まだ正式契約ではない。しかし、条件が整えば取り扱い店舗を増やす可能性まで書かれている。
「今の体制じゃ回らないのよ」
春子はため息をついた。
「もし受けるなら、もっと広い工場が必要になる。人も雇わなきゃいけない。銀行とも話をしなきゃならない」
図面を指で叩く。
「この駅前の店だって、ただの売り場じゃなくて、製造や発送の拠点にすることも考えなきゃいけない」
「それは、かなり大きな話ですね」
「そうなの」
春子は珍しく真剣な顔をしていた。
「今までみたいな、家族でやってる昔ながらの和菓子屋のままじゃ無理なのよ」
「藤樹堂を、ちゃんとした会社にしなきゃならない」
黒田がパソコンから顔を上げた。
「注文管理だけでも、今のやり方ではそろそろ限界です」
「黒田君もこう言ってる」
「僕は事実を言っただけです」
すぐに黒田は画面へ戻った。
「敏夫さんはどう言ってるんですか」
グリフが尋ねた。
「話は面白いって言ってる。でも、最近は政治の方でも引っ張りだこなのよ」
敏夫は村田の選挙を勝利へ導いた立役者の1人として、町内で急に注目を集めるようになっていた。
1年半後には町議会議員選挙もある。
牛山派や村田の周辺から、今後の選挙や議会運営について意見を求められる機会も増えていた。
「本人は表に出ないつもりみたいだけど、周りが放っておかないのよね」
春子は不満そうに言った。
「店のことも政治のことも全部やるのは無理でしょう。だから直人に来てほしいの」
「でも、俺にも店がありますよ」
「だから店ごと来ればいいじゃない」
理屈としては乱暴だった。
だが、春子の中では何の矛盾もないらしい。
「あなたが来てくれないなら、コンビニの話は断るしかないかなあ」
春子は残念そうにつぶやいた。
その言葉が、グリフには妙に重く響いた。
自分が断れば、藤樹堂は大きな機会を逃すかもしれない。
しかし、受ければワルン・クラサワの経営方針も変わる。
ジョコにも相談しなければならない。
これからルンザットから来る4人のこともある。
技能実習生の計画が動き出せば、町の委員会や農協との交渉にも時間を取られる。
藤樹堂へ入れば経営資源は増える。
一方で、自分の自由になる時間や決定権は減るかもしれない。
――これは就職の誘いなのか。
――企業合併なのか。
――それとも、春子さんによる吸収なのか。
考えるほど、何を提案されているのか分からなくなってきた。
「と、とにかく、一度持ち帰って考えます」
グリフは立ち上がった。
「ジョコにも相談しないといけませんし、店のこともありますから」
「早く決めてね」
「どのくらいまでに?」
「明日」
「それは考える時間とは言いません」
グリフは図面から目をそらし、そのまま事務所を出た。
背中に春子の声が飛んでくる。
「タピオカの件も考えといて!」
「それは考えません!」
そう言い返し、グリフは逃げるように藤樹堂を後にした。




