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10年先の選挙

グリフが目を覚ますと、もう日が高くなっていた。

昨夜、大野が帰ったのは11時を過ぎていた。

それから資料作りを始め、気が付けば空が白み始めていた。

店の前には寝る前に貼った「本日臨時休業」の紙が揺れている。

資料はなんとか完成した。

最後のページを見直しながら、グリフは小さくうなずいた。


里山観光整備による経済効果試算(案)

現在、光明神社への年間観光客数は約50万人。

そのうちわずか5%が里山観光へ流れた場合、

年間2万5千人

の利用者になる。

利用者1人当たりの平均消費額を、

入場・体験料 500円

飲食代 1,000円

土産購入 1,500円

合計3,000円と仮定すると、

年間消費額は

7,500万円

となる。

さらに利用者が10%まで増加した場合、

年間利用者は5万人。

消費額は

1億5千万円

に達する。


次に雇用効果。

里山ガイド 2名

管理人 2名

駐車場・受付 2名

農産物販売所 3名

合計9名程度の常時雇用が見込まれる。

さらに飲食店、宿泊施設、土産店などへの波及効果を考えると、

町全体では15〜20名程度の雇用創出が期待できる。


対して熊田メガソーラー計画。

発電出力1,200kW。

建設時には雇用が発生するが、

完成後の常駐職員は基本的にゼロ。

点検員が定期的に訪れる程度である。

固定資産税収入は期待できるが、

地域消費や雇用創出効果は限定的。


グリフは椅子にもたれた。

もちろん希望的な数字も含まれている。

だが荒唐無稽な数字ではない。

十分に現実的な範囲だ。

そして何より、

「反対だから反対」

ではなく、

「こちらの方が町に利益がある」

という形で話ができる。

そこに価値があった。

「これなら戦えるな」

グリフは満足そうに呟いた。


***


そして最後に添付したのが例の画像だった。

光明神社の背景に並ぶ何百枚もの太陽光パネル。

無機質な黒い板が山肌を覆っている。

グリフは自分でも思った。

――これは効くな。

理屈より先に感情へ届く。

数字と感情。

両方が揃った。

少なくとも今できることはやったと思った。

満足感と疲労感が同時に押し寄せる。

すぐに敏夫へ電話した。

資料完成を伝えると、受話器の向こうで感心したような声が返ってきた。

「もう出来たのか」

「なんとか徹夜で」

「本当に君は仕事が早いな」

そして、

「すぐ行くよ」

と言って電話を切った。

1時間ほどして敏夫が現れた。

ただし1人ではなかった。

後ろに若い男が立っていた。

「こちらは町議としての活動を手伝ってもらっている黒田くんだ」

敏夫が紹介する。

「普段は店の売り場で働いてくれている。パソコンが好きらしいので連れてきた」

「黒田と申します。よろしくお願いいたします」

抱えていた段ボールを下ろしながら頭を下げる。

――若いな。

グリフは思った。

売り場にはあまり顔を出さない。

見覚えはなかった。

20代後半か。

せいぜい30代前半だろう。

自分より年下かもしれないが念のため丁寧に返した。

「田辺です。こちらこそよろしくお願いいたします」

敏夫が言った。

「休業にしたのか。申し訳ないな」

「いえ」

「明日から加藤が来るから使ってやってくれ」

「助かります」

グリフは頷いた。

「早速ですがこちらが資料です」

ノートパソコンを開く。

敏夫と黒田が画面を覗き込んだ。

ページを送るごとに2人の表情が変わっていく。

経済効果の試算。

観光客の流動予測。

里山整備案。

そして最後に完成イメージ画像。

「ほう……」

敏夫が小さく唸った。


*


「これは説得力がある」

黒田も頷いている。

「数字も整理されていますね」

「数字は私なりの計算です」

グリフは正直に言った。

「どなたかに検算してもらえると助かります」

「わかった」

敏夫が答える。

「銀行系の人脈を使えば数字に強い人間も見つかるだろう」

「聞いてみるよ」

黒田が段ボールを開けた。

中には購入したタブレットが並んでいる。

「社長、私はこの資料をタブレットへコピーすればいいですか」

「そうだな」

敏夫は頷いた。

「とりあえず全部入れてくれ」

「修正が入った場合は」

「私が対応します」

黒田が即答した。

「修正後は田辺さんにも共有します」

「よし」

敏夫は満足そうだった。

「明日中には関係者へ配布しよう」

「1台は私が持ち歩く」

「使い方を教えてくれ」

黒田は早速作業を始めた。

グリフはその様子を見ながら思った。

――本格的になってきたな。

ただの世間話ではない。

もう選挙戦そのものだった。

敏夫がコーヒーを飲みながら言う。

「直人君、本当に助かったよ」

「これでようやく勝ち筋が見えてきた」

「もちろん結果は分からない」

「だが、一方的な選挙にはならないと思う」

グリフは頷いた。

そして、

――今だな。

と思った。

「いや、そう言ってもらえると頑張った甲斐がありました」

少し間を置く。

「ところで……」


敏夫がこちらを見る。

グリフは来春の件を話した。

ルンザットから20人来ること。

技能実習生として受け入れたいこと。

農協とのつながりが欲しいこと。

そして、もし村田が町長になったら口添えをお願いしたいこと。

一通り話し終わると、

敏夫は額を押さえた。

「そうか……」

「ディオさんも早まったことをしたな」

苦笑混じりだった。

だが怒ってはいない。

「農協への口添えなら私でも多少は出来る」

「ただ来春となれば、やはり町長の後押しがあった方がいいだろうな」

「はい」

「ぜひお願いします」

「もちろん当選のためには全力を尽くします」

敏夫は少し考えた。

「ただな」

「20人を一度は難しいかもしれない」

「2人、3人ずつ分ける方法はどうだろう」

「なるほど」

グリフも現実的だと思った。

「父に聞いてみます」

「私も村田さんにはそれとなく話しておく」

「ただし当選してからだ」

「今は選挙だけに集中してもらいたい」

政治家らしい判断だった。

「向こうも政治家だからな」

「当選したら“何か恩返しをさせてくれ”と言うだろう」

「その時が交渉のタイミングだ」

「十分です」

グリフは素直に頭を下げた。

――今はこんなところか。

――落選した場合は…、その時考えよう。

黒田の作業も終わった。

タブレットを何台か起動し、資料が正常に表示されるか確認する。

問題はなかった。

敏夫と黒田は店を後にした。

静かになった店内で、グリフは1人椅子に腰を下ろした。

時計を見る。

まだ夕方まで少し時間がある。

夜の営業までは余裕があった。

「少しだけ寝るか、」

そう呟いて奥の部屋へ向かう。

選挙も。

ルンザットの20人も。

ジョコの将来も。

問題は山積みだった。

だが今だけは眠気が勝った。

布団に横になると、グリフは数秒で意識を手放した。


***


それから1週間ほどのあいだ、町の水面下では静かな動きが続いていた。

人は政治というと演説会や街宣車を思い浮かべる。しかし実際には、その前段階のほうが重要である。

誰が誰に会ったのか。

誰が何を聞いたのか。

誰が何を信じたのか。

そうした小さな積み重ねが、やがて選挙という形になって表へ現れる。

敏夫はそのことをよく知っていた。

だから焦らなかった。

メガソーラー建設による景観への影響。

世界遺産への悪影響の可能性。

そして里山観光地化による経済効果。

それらは選挙運動として語られたわけではない。

商工会の会合で。

農家の集まりで。

県議の事務所で。

あるいは国会議員の後援会の席で。

雑談のような形で少しずつ広がっていった。

「そういえば新聞で見たな」

「本当に大丈夫なんだろうか」

「別のやり方もあるんじゃないか」

そんな声が町のあちこちで聞かれるようになった。

一方、武藤陣営は平穏だった。

平穏すぎたと言ってもよい。

敵がいないと信じている軍勢は、往々にして周囲への警戒を怠る。

今回の選挙もそのはずだった。

牛山グループは候補者を立てない。

保守は一本化される。

現職町長の再選は既定路線。

そう考えている者がほとんどだったのである。


*


投票日の1か月前。

現町長再選はほぼ確定、その空気を破るように村田が出馬を表明した。

異例の遅さだった。

地元紙は大きくこのニュースを取り上げた。

「無風選挙では民意を測れない」

「町の将来について議論が必要だ」

村田はそう語った。

そして争点の一つとして熊田地区のメガソーラー計画を挙げた。

地元メディアも驚いた。

保守分裂選挙は予想されていなかったからである。

武藤陣営は完全に虚を突かれた。

選挙戦の準備はしていた。

しかし、それはあくまで形式的なものだった。

予定していた集会の数は少ない。

運動員も最低限。

街宣車の手配も十分ではなかった。

慌てて追加の集会を組み、後援会に動員をかけ、体制の立て直しを図ったが、後手に回った印象は否めなかった。

倉沢町長選挙は、こうしてようやく選挙らしい姿を見せ始めたのである。


*


村田の出馬表明から2週間。

グリフは店の仕事を加藤とジョコに任せることが増えていた。

昼は店。

夜は資料作り。

そして空いた時間は敏夫との打ち合わせだった。

敏夫は住民の職業や地域事情を分析して選挙戦を組み立てることに長けていた。

どの地区が弱いのか。

どこへ重点的に人を入れるのか。

どの集会へ村田を送り込むのか。

そして、その地区では何を話すべきなのか。

その能力は倉沢の政治家の中でも群を抜いていた。

武藤町長に重用された理由もそこにあった。

そして今、その能力は村田陣営のために使われていた。

さらに今回はグリフがいた。

資料作成。

映像編集。

タブレット活用。

これまで倉沢の選挙には存在しなかった武器だった。

「敏夫さん、明後日の木下地区での集会ですが、あそこは農家が多いです。里山観光の話を多めにしましょう。道路整備の話も少し入れたほうがいいと思います」

「そうだな」

敏夫は地図に目を落とした。

「あと、あそこは牛山さんの地盤だ。応援演説の時間も長めに取ろう」

「わかりました」

グリフは別の資料を取り出した。

「若い世代向けの資料も作りました。もしサラリーマン層が予想より多かったら、村田さんの経歴や子育て支援の話へ切り替えられます」

「助かるよ」

複数の作戦を同時に準備する。

最終的な判断は村田陣営に任せる。

外様である敏夫が前へ出すぎれば反発を生む。

それは武藤陣営で学んだ教訓だった。

敏夫自身は選挙事務所にも顔を出さなかった。

集会にも出ない。

電話もしない。

すべて金子議員を通していた。

武藤陣営には敏夫の動きは知られているだろう。

だが選挙が終わるまでは表に出ない。

それが敏夫なりの流儀だった。

「武藤陣営は争点潰しに出てきましたね」

グリフが新聞記事を指差した。

「メガソーラーは県の許可事項であって町長選の争点ではない、か」

敏夫は苦笑した。

「予想通りだな」

「でも施工会社と武藤さんの関係は、だいぶ知られてきています」

「そこは触るな」

敏夫は即答した。

「え?」

「利権だ、癒着だと言い始めたらこちらが負ける」

「でも事実では」

「事実かどうか証明できない」

敏夫は首を振った。

「我々が言うべきはそこじゃない」

そして資料を指差した。

「里山観光」

「年間2万5千人」

「地域消費7,500万円」

「雇用15人」

「こっちだ」

「比較させるんですね」

「そうだ」

敏夫は笑った。

「人間は自分で出した結論を信じる」

「こちらが結論を言う必要はない」

グリフも笑った。

この人は本当に怖い。

違法なことは一つも言わない。

だが相手を追い込む方法を知っている。

「ネットはどうします」

「使う」

敏夫は即答した。

「ただし選挙運動には使わない」

「情報共有ですか」

「そう」

グリフはタブレットを手に取った。

「里山観光の試算」

「完成予想図」

「熊田の現地写真」

「全部データ化してあります」

「Facebookに載せるのか」

「いや」

グリフは首を振った。

「Facebookは入口です」

「入口?」

「興味を持った人が見るだけです」

グリフはタブレットを操作した。

メガソーラー完成予想図が表示される。

「こっちです」

敏夫は少し驚いた。

「動画か」

「静止画より強いですよ」

神社の風景。

そして徐々に現れる太陽光パネル。

数十秒の短い映像だった。

「ほう」

「今の人は文章を読みません」

グリフは笑った。

「でも動画なら見ます」

「Facebookに貼る」

「メールで送る」

「タブレットで見せる」

「どれか一つ引っ掛かれば十分です」

敏夫は腕を組んだ。

「選挙が変わるな」

「変わります」

「5年後か10年後かは分かりませんけど」

「その頃には演説よりネットのほうが大事になるかもしれません」

敏夫はしばらく考えていた。

そして小さく笑った。

「直人君」

「はい」

「君は10年先の選挙をやってるな」

「そうですかね」

「少なくとも私は初めて見たよ」


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