新聞記事の向こう側
翌日のランチ後、夜の営業のためにグリフは仕入れに出ていた。
エスニック系の調味料や乾物は東京の業者からまとめて仕入れているが、野菜や肉、卵などはできるだけ地元の店で買うようにしていた。
参道の土産物屋の前を通る。
観光客の姿も少しずつ増えていた。
店先には木刀や絵葉書、地酒が並んでいる。
その横では、母と娘がスマートフォンを見ながら何か話していた。
やがて娘が、流行りの映画の主題歌を口ずさみ始めた。
少し前から町のあちこちで聞く歌だった。
映画館のない倉沢ですら話題になっているのだから、都会ではもっとすごいのだろう。
――そんなに面白いのかな。
グリフはまだ見ていなかった。
参道の先では、修学旅行生らしい集団が自撮り棒を持って写真を撮っている。
スマートフォンを持つ人もずいぶん増えた。
数年前なら考えられない光景だった。
そんなことを考えながら歩いていると、携帯電話が鳴った。
敏夫からだった。
*
「もしもし、直人です」
「私だ。明日の朝刊に記事が出る」
敏夫は単刀直入だった。
「メガソーラーについてだ。基本的には再エネ推進として前向きな内容になる。ただ、観光への懸念も残るという程度のニュアンスらしい」
「わかりました。十分だと思います」
「それと、牛山グループからの候補者も決まった。村田さんという人だ。若手だよ」
敏夫は続けた。
「今回は当選は難しい。だから大御所は出ない。ただ、可能性がゼロではないということで若手に挑戦権が回ってきた格好だな」
「もし当選しても、大御所たちの言うことを聞いてくれそうな人物ということですか」
「その辺は分からない。ただ、私もそうだろうとは思っている」
「了解しました」
「また何か進展があれば連絡するよ」
電話はすぐに切れた。
敏夫も忙しいのだろう。
おそらく今夜も誰かと会っている。
グリフは携帯をポケットにしまった。
そして別の問題を思い出す。
ディオが勝手に約束してしまった20人だった。
――20人か。
改めて考えても無茶な数字だった。
今の店で雇えるのはせいぜい2人。
駅前に2号店を出したとしても、さらに2人か3人。
それで限界だ。
残り十数人はどうする。
グリフはこの数週間、商店街の店主たちにも声を掛けていた。
英会話勉強会に来ている人たちにも相談してみた。
だが反応は似たようなものだった。
外国人を雇うこと自体への抵抗は以前より薄れている。
しかし手続きが分からない。
何を準備すればいいのか分からない。
責任を持てない。
そんな答えが返ってくる。
個人商店では無理もなかった。
*
――やっぱり技能実習生か。
グリフはそう考え始めていた。
農業分野なら受け入れ人数も多い。
ただし農家が勝手に受け入れるわけではない。
監理団体だの組合だの、いくつもの組織が関わるらしい。
ざっと調べただけでも面倒だった。
そして、その面倒な組織を短期間で動かすには。
――結局、政治力がいる。
そういう結論になる。
だからこそ今回の選挙だった。
もし牛山グループが勝てば。
もし敏夫がその中心に近い位置に立てば。
その時、自分の要望も通しやすくなるかもしれない。
不利な側を勝たせることができれば、その人間の価値は跳ね上がる。
敏夫自身もそれを分かっているはずだ。
――村田さん、だったか。
グリフはスマートフォンで検索した。
町議会議員の紹介ページが出てくる。
写真も載っていた。
40代前半。
爽やかな笑顔。
いかにも好青年という顔だった。
――悪くないな。
武藤は70代後半。
いつ引退しても不思議ではない。
もしかすると敏夫は、武藤の後継争いを視野に入れていたのかもしれない。
だから警戒された。
だから外された。
そんな見方もできた。
――敏夫さんは、どうしたいんだろうな。
牛山グループへ移るのか。
それとも武藤グループへ戻るのか。
昨日の様子を見る限り、そのどちらにも行ける立場を作ろうとしているようにも見えた。
だが、それはそれで危うい。
どちらからも信用されなくなる可能性もある。
――だったら思い切って牛山側に行けばいいのに。
そう考えて。
グリフは苦笑した。
それは自分に都合がいいからだ。
20人の問題を解決するためには、その方がありがたい。
ただ、それだけだ。
敏夫には敏夫の事情がある。
自分に話していないことも山ほどあるだろう。
そう考えると、
――俺も大概だな。
と思った。
少し前まで、
敏夫を利用して20人問題を何とかしよう。
そんなことを考えていたのだから。
お互い様だった。
風が吹く。
商店街ののぼり旗が揺れた。
そしてグリフは、もう一つの懸案を思い出した。
――そういえばジョコか。
ジョコは来春、日本語学校を卒業する。
その後どうするのか。
日本に残りたいのか。
ルンザットへ帰りたいのか。
そもそも今の在留資格のままで働けるのか。
そこを本人ときちんと話したことがなかった。
20人の問題に比べれば小さい。
だが、今の店にとってはむしろこちらの方が重要だった。
ジョコがいなくなれば店は回らない。
グリフは買い物袋を持ち直した。
夕方の仕込みまで、まだ少し時間がある。
――帰ったら聞いてみるか。
ジョコはどうしたいんだ。
そう考えながら、ワルン・クラサワへ向かって歩き出した。
***
グリフは店に帰って来た。
ジョコはすでに厨房で仕込みを始めていた。
玉ねぎを刻む音が一定のリズムで響いている。
ランチ営業と夜営業の合間の店は静かだった。
グリフは買ってきた野菜や肉をテーブルに置くと、ふう、と息をついた。
「ジョコ、ちょっといいか」
「なんだ」
「ちょっと真面目な話だ。手を止めて座ってくれるか」
ジョコは不思議そうな顔をした。
普段のグリフなら、こんな前置きはしない。
包丁を置き、向かいの席に腰を下ろした。
「お前、来春日本語学校卒業だよな」
「ああ」
「その後のこと考えているか」
グリフは少し間を置いた。
「その後のこと、あまり考えたことない。このままここで働くつもりだけど」
「何か問題あるのか」
「ジョコのビザは留学生用なんだ。学校を卒業したら、そのまま日本にいることはできない」
ジョコの表情が曇った。
「それは困る」
即答だった。
「家族に仕送りできなくなる」
「弟や妹を学校にも出せない」
グリフは黙って聞いた。
「そうか」
「いくら送金しているんだ」
「5万円くらい」
グリフは思わず眉を上げた。
「5万か」
日本ではアルバイト代にも満たない額だ。
だがルンザットでは話が違う。
5万円あれば一家が十分生活できる。
電気代や学費を払っても余る。
家の修繕もできる。
病人が出ても町の病院へ連れて行ける。
子供に教科書や制服を買うこともできる。
漁のための網を新しくすることも可能だ。
島では教師や役場職員ですら月収1万円台から2万円台の人が珍しくなかった。
ジョコが毎月送る5万円は、家族全体の生活を支える収入になっていた。
おそらく親だけではない。
親戚も多少は恩恵を受けているはずだ。
ルンザットでは1人が稼げば家族全体で支えるのが当たり前だった。
「そりゃあてにするな」
グリフは小さく言った。
ジョコは頷いた。
「なんとか続けて働ける方法はないのか」
グリフは腕を組んだ。
正直に言えば、まだ答えはない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
「俺も考えてみる」
ジョコが顔を上げる。
「ジョコ」
「お前はもう店にとってなくてはならない存在だ」
「お前がここに残りたいと思うなら、それでいい」
「……俺がなんとかする」
ジョコはしばらく黙っていた。
それから小さく笑った。
「本当か」
「助かる」
グリフも笑った。
「なんとかするって言ったけどな」
「実は何も考えてない」
ジョコは吹き出した。
「やっぱりな」
「でも何とかなる気がする」
「それは危険な考えだ」
2人とも笑った。
少しだけ空気が軽くなった。
*
「よし、仕込みを続けよう」
2人は厨房へ入る。
ジョコは再び包丁を握った。
グリフは買ってきた野菜を冷蔵庫へ運ぶ。
「明日からちょっと俺忙しくなる」
「また選挙か」
「まあな」
「来週から加藤さんが手伝いに来てくれるけど、それまで3日くらい頑張らないといけない」
「加藤さん来るのか」
ジョコの顔が明るくなった。
「あの人腕がいいから助かる」
「だろ」
「覚えるのも早いしな」
「俺より真面目だし」
「それは認める」
グリフは苦笑した。
「それでもずっとじゃないだろう」
「来年になるけど、ルンザットからも人が来るから、その時は仕事教えてやってくれ」
「わかった」
ジョコは頷いた。
「誰が来るんだろう」
「……そういえば名前聞いてないな」
2人とも手を止めた。
「聞いてないのか」
「聞いてない」
「何人来るんだ」
「20人」
ジョコの包丁が止まった。
「20人?」
「そう」
「店を10軒作るのか」
「俺もそう思う」
ジョコは笑った。
グリフも笑った。
だが内心では笑えなかった。
――あとで父さんにメールしておくか。
誰が来るのかくらいは把握しておかなければならない。
それに加藤の件もある。
給料の話を敏夫としていなかった。
こちらの選挙協力とのバーターだろうか。
あとで請求されたりして。
そこまで考えて、
――いや。
敏夫さんはそんな人じゃない。
そう思い直した。
そして次の瞬間、
グリフはある人物の存在を完全に忘れていることに気付いていなかった。
春子である。
もし春子が聞いたら、
「なによ、加藤を貸し出してるんだから請求書くらい出すわよ」
と満面の笑みで言いそうだった。
もっとも、その請求書は普通の請求書では済まない可能性が高いのだが。
***
翌日、グリフは店を開ける前に朝刊に目を通した。
地方紙の社会面の下段。
決して大きな扱いではない。
だが、探していた記事はすぐに見つかった。
「熊田地区で太陽光発電所建設計画」
そんな見出しだった。
敏夫の言った通りだった。
記事全体としては、再生可能エネルギーの普及が全国的に進んでいることや、震災以降の電力事情などにも触れられていて、どちらかといえば肯定的な内容だった。
しかし後半では、
「光明神社周辺の景観への影響を懸念する声もある」
という一文が添えられていた。
さらに海外事例として、世界遺産登録後に景観問題で登録を取り消された事例にも言及されている。
ドイツのドレスデン・エルベ渓谷。
5年前の出来事だった。
記事そのものは穏当だった。
だが、読む人によっては十分に引っ掛かる内容でもある。
グリフは新聞をたたんだ。
――さて。
――どんな反応になるかな。
町の人間はこういう話題に敏感だ。
特に直接自分に関係がなくても、酒の席や商店街の立ち話で話題になる。
そこから先は人づてだ。
尾ひれも付く。
話は勝手に育つ。
その第一歩としては悪くない記事だった。
昼の営業を終えると、グリフは敏夫に連絡した。
2人は熊田地区の建設予定地へ向かうことになっていた。
夜には英会話勉強会もある。
長居はできない。
グリフは最近買ったタブレット端末を持っていくことにした。
*
敏夫の軽自動車は田んぼ道を抜け、山裾へ向かう。
車窓から見える稲穂はすでに刈り取られていた。
秋が深まっている。
「新聞見たかい」
運転しながら敏夫が聞いた。
「見ました。思ったより踏み込んでましたね」
「そうかい」
敏夫は少し嬉しそうだった。
「記者もそれなりに調べてくれたみたいだ」
「ドレスデンの件まで出てくるとは思いませんでした」
「私もだよ」
敏夫は笑った。
「新聞記者というのは、たまに期待以上の仕事をする」
現地に着くと、すでに何組か人影があった。
散歩に来たような人もいれば、車を停めて遠くを眺めている人もいる。
新聞の効果だろう。
急に関心を持った人間が増えたのかもしれない。
建設予定地は簡易的な柵で囲まれていた。
そして入口には大きな案内板が立っている。
グリフは内容を確認した。
事業名。
事業者。
施工会社。
発電出力。
着工予定日。
完成予定日。
いかにも工事現場らしい看板だった。
グリフはタブレットを取り出した。
パシャリ。
案内板を撮影する。
続いて周辺の景色も撮影した。
敏夫が興味深そうに覗き込む。
「便利なもんだな」
「便利ですよ」
「写真も撮れるし、ネットにも繋がるし」
「これ1台で新聞も読める」
「ほう」
敏夫は感心していた。
町議会でもまだ持っている人間は少ないだろう。
「敏夫さんも買ったほうがいいですよ」
「そうかい」
「今は珍しいから、これ持ってるだけで人が寄ってきます」
「それは便利だな」
「これからやろうとしてることにも使えると思います」
グリフは少し意味ありげに言った。
敏夫も何となく察したようだった。
「なるほどね」
*
その場で会社名を検索する。
グローバル・ニューエナジー・ジャパン。
聞いたことはない。
東京の会社だった。
役員一覧が表示される。
中国系と思われる名前が何人か並んでいた。
「中国資本か」
グリフはつぶやいた。
「パネルも中国製かな」
「今は多いんじゃないか」
敏夫が言う。
「安いらしいからね」
グリフは動画撮影に切り替えた。
建設予定地を中心に映す。
それからゆっくりと体を回転させる。
山裾。
田畑。
道路。
そして遠く。
光明神社の森。
肉眼では小さく見える。
しかし動画だと位置関係がよく分かった。
地図では分からない。
現地に立った人間だけが持てる感覚だった。
「なるほどな」
敏夫も頷く。
「賛成派も反対派も、一度ここを見た方がいいな」
「そう思います」
グリフも同意した。
*
一通り撮影を終えた。
「まあ、こんなもんでしょう」
タブレットをしまう。
「仕込みもあるし、そろそろ戻らないと」
そう言って車へ向かおうとした時だった。
敷地の反対側。
数人の男たちが話しているのが見えた。
施工関係者だろうか。
スーツ姿が2人。
作業着が数人。
その中に。
グリフは一瞬だけ違和感を覚えた。
――あれ?
見たことがある気がする。
誰だ。
思い出せない。
グリフは慌てて先ほど撮った写真を開いた。
拡大する。
画質は十分だった。
男の顔が写っている。
だが名前が出てこない。
どこで見たのかも思い出せない。
ルンザットか。
東京か。
倉沢か。
記憶の引き出しを探る。
だが見つからない。
「どうした」
敏夫が聞いた。
「何か気になることでも」
グリフは写真を閉じた。
「いえ、別に」
そう答えた。
顔を上げる。
もうその男はこちらを向いていなかった。
後ろ姿だけが見える。
どこかへ歩いていく。
山裾の光の中へ溶けるように。
――気のせいか。
――似てるだけだろ。
そう思った。
だが胸の奥には、小さな引っ掛かりだけが残った。
グリフは何も言わず車へ向かった。
そしてエンジンのかかった車に乗り込む頃には、
なぜその男が気になったのか、
自分でもよく分からなくなっていた。




