琉生8
未羽が帰ってきていた夏は、夢だったみたいに終わった。
本当に未羽がいたのか、時々わからなくなる。
昼間は瞬たちと外に出て、虫を取ったり、かくれんぼをしたり、海にも行った。日本語はまだ少し変だったけれど、前よりは戻っていた。瞬に呼ばれれば振り向いたし、僕が名前を呼べば、ちゃんと僕の方へ戻ってきた。
だから、昼間だけ見ていれば、未羽はもう大丈夫なようにも見えた。
でも、夜になると泣いた。
中国へ戻ると決めてから、未羽は毎晩、僕の手を握っていた。声を上げて泣くわけではなかった。ただ、布団の中で息を詰めるようにして、僕の指を何度も握り直した。
「行きたくないの」
そう聞きたかった。
でも、聞けなかった。
聞けば、未羽が本当に行けなくなる気がした。それとも、行きたくないと言いながら、それでも行くと言われる気がした。
どちらも怖かった。
学校が始まると、未羽がいないことは、思っていたより普通だった。
未羽に合わせて、ゆっくり話す必要はなくなった。早口の言い合いが始まっても、未羽が困っていないか考えなくてよかった。移動教室の時も、僕は瞬たちと好きなだけふざけて歩けた。
最初の頃は、曲がり角や階段の前で足が止まった。
未羽が遅れていないか、後ろを見そうになった。
何度見ても、そこには誰もいなかった。
そのうち、見なくても歩けるようになった。
それなのに、道を渡る時だけはだめだった。
信号が青になると、僕の手は勝手に横へ動いた。知らない人が近くを通ると、少しだけ歩く速さを落とした。瞬が急に大きな声を出すと、隣にいるはずの未羽を探した。
頭では、未羽はいないとわかっていた。
でも、手だけはまだ、未羽がいる時のままだった。
未羽から電話が来ることもあった。
受話器の向こうで、未羽は僕の名前を呼んだ。
「るい」
それだけで終わる日もあった。
僕は何を言えばいいのかわからなかった。元気かと聞けばよかったのかもしれない。眠れているのか、泣いていないのか、僕の手がなくても平気なのか。
聞きたいことはいくつもあった。
でも、どれも聞けなかった。
未羽は、僕の知らない場所にいた。僕の知らない言葉で、僕の知らない時間を過ごしていた。
それでも、僕の名前だけは呼んだ。
手紙が来ることもあった。
そこに並んでいる字は、僕にはほとんど読めなかった。父が少しだけ読んでくれることもあったけれど、父の声になると、それはもう未羽の言葉ではない気がした。
ある日、父が手紙を読み終えたあと、僕を鑑賞室に連れて行った。
父が棚の中を探して、古いDVDを一つ取り出した。
「これを見てみる?」
僕が頷くと、父は微笑んで、鑑賞する準備をした。僕をそれをじっと見ていた。
舞台で、何人かが楽器を持っていた。その中に父に似ているような人がいて、ギターを弾いていた。
「これ、父さん?」
「そうだよ」
「楽器を弾いてたの?」
「昔ね」
父はそれだけ言った。
画面の中の父は、今の父よりよく笑っていた。隣の人と目を合わせて、叫んで、またギターを弾いた。
悲しい曲ではなかった。
速くて、少しうるさくて、楽しそうな曲だった。
僕は、父にも僕の知らない時間があったのだと思った。
父が父になる前の時間。
僕や未羽がいない時間。
画面の中には残っているのに、僕はそこへ行くことができない。
未羽の手紙と少し似ていると思った。
「もう弾かないの?」
僕が聞くと、父は少し考えた。
「たまに触るくらいかな」
「ギター、あるの?」
「収納に入ってるよ。見る?」
僕は知らないうちに頷いていたらしい。
収納部屋から出したギターは、映像に映っている物ほど、カッコ良くはなかった。
それからしばらくして、優斗が妙なものを持ってきた。
空き箱と輪ゴムと、何本かのペットボトルだった。
「これ、全部違う音するんだよ」
そう言って、優斗は空き箱に輪ゴムをかけた。指で弾くと、ぼん、と頼りない音がした。
瞬が笑った。
「それ楽器なの?」
「違うよ。音楽だよ」
「音楽?」
「もっとちゃんとすれば、たぶん音楽になる」
優斗は真面目な顔で言った。
輪ゴムを強く張ったり、緩くしたりして、何度も同じ場所を弾いた。瞬はすぐ飽きた。僕も最初は、何が面白いのかわからなかった。
でも、優斗はやめなかった。
少し音が変わるたびに、顔を上げた。
父が画面の中でギターを弾いていた時も、似たような顔をしていた気がした。
瞬は前より足が速くなった。
優斗は、身近なものから変な音を出すことに夢中になった。
僕にも、未羽の知らないものが少しずつ増えていった。
学校のこと。
瞬たちと通った道。
父が昔、ギターを弾いていたこと。
収納の中に、今もそのギターがあること。
未羽は、そのどれも知らなかった。
僕も、未羽が中国で何を見て、誰と話して、どんな夜を過ごしているのか知らなかった。
同じ時間を過ごさなくても、時間は勝手に増えていくらしい。
季節が変わっても、未羽は戻ってこなかった。
僕は未羽のいない毎日に慣れていった。
待たなくても歩けるようになった。
振り返らなくても走れるようになった。
それでも、夜、布団に入って目を閉じると、未羽が何度も握り直していた指の感覚だけが残っていた。
未羽はいなかった。
それでも、僕は、未羽がいたことを忘れなかった。
それから月日が流れ、小五の夏、未羽は再び日本へ帰ってきた。
今度は、一時帰国ではなかった。
母が仕事でアメリカへ行くことになったらしい、ということだけを、僕は大人たちの会話から知った。
未羽がどうして日本に残ることになったのか、僕にはわからなかった。
聞けばよかったのかもしれない。
でも、その時の僕は、未羽が帰ってきたことだけで満足していた。
玄関に立った未羽は、前より少し背が伸びていた。
髪も長くなっていた。
僕の知らない服を着ていた。
未羽は僕を見た。
少しだけ迷ったような顔をして、それから笑った。
僕は手を伸ばしかけた。
でも、未羽はもう、僕の手を探さなかった。
その代わり、僕の近くまで来て、少しだけ肩の力を抜いた。
それで十分だと思った。
少なくとも、その時は。




