琉生9
未羽は帰ってきたけれど、小三の夏みたいに、僕の横にはいなかった。
道を渡る時も、未羽は僕の手を探さなかった。知らない人とすれ違っても、僕の袖をつかまなかった。瞬が大きな声で笑うと、一瞬だけ僕を見ることはあったけれど、すぐに自分で前を向いた。
夜も、未羽は自分のベッドで眠った。
最初の夜、僕は少しだけ待っていた。
未羽が昔みたいに、何も言わずに僕の布団へ入ってくるかもしれない。僕の手を探すかもしれない。
でも、未羽は来なかった。
朝になると、未羽は普通に起きてきた。元気そうな顔で食卓に座り、父に何か聞かれて、小さく頷いた。それから僕を見ると、ふわっと笑った。
未羽はもう、僕の手を必要としていなかった。
でも、僕を見ると、肩の力が抜けたような顔になる。
その顔を見た時、少しだけ息がしやすくなった。
学校でも、未羽は前みたいに僕を探しに来なかった。
未羽には未羽の教室があって、隣には一緒に話す女子がいた。日本語が途中で止まることはあったし、話についていけずに少し遅れて笑うこともあった。それでも、未羽は僕の横ではなく、自分の場所に立っていた。
廊下ですれ違った時だけ、僕を見て少し笑った。
僕は、その顔を見るたびに思った。
未羽が僕を必要としなくなったことと、僕がいらなくなることは、同じではないのだと。
そう思えるようになった頃、大きな荷物が家に届いた。
父が玄関で受け取った箱は細長くて、僕たちの家に置くと、それだけで通る場所が狭くなった。段ボールには中国語が書かれていて、角が少し潰れていた。
「未羽」
父が呼ぶと、未羽はリビングから顔を出した。
最初は、それが何かわからなかったらしい。けれど、箱の横に貼られた紙を見た瞬間、目が大きくなった。
「……来た!」
声が少し裏返った。
未羽は靴下のまま玄関まで走ってきた。転びそうな勢いだった。
そんな未羽を見るのは、久しぶりだった。
未羽は箱の前にしゃがみ込み、貼られている紙を何度も見た。それから父を見上げた。
「開けていい?」
いつもより、はっきりした日本語だった。
父がカッターを取りに行く間も、未羽は箱のそばから離れなかった。膝の上で手を握り、じっと待っていた。待ちきれない顔をしているのに、勝手には開けなかった。
「そんなに大事?」
僕が聞くと、未羽は僕を見た。
いつもの、僕を見て安心した時の顔とは違った。
もっと明るくて、嬉しさがそのまま前に出てくる顔だった。
「うん」
未羽は大きく頷いた。
父がテープを切ると、未羽は息を止めた。
段ボールの中から、布に包まれた長いものが出てきた。布を外すと、木の匂いのする楽器が現れた。
僕は、それを琴だと思った。
「琴?」
そう聞くと、未羽はすぐに首を振った。
「違う。古筝」
聞き慣れない言葉だった。
未羽はもう一度、ゆっくり言った。
「こそう。中国の」
それから中国語で父に何か説明した。父は全部わかっている顔ではなかったけれど、未羽が嬉しいことだけはわかったらしく、何度も頷いていた。
古筝は、部屋に置くと急に大きく見えた。
楽器が一つ増えただけなのに、家の中に、未羽が中国から持ち帰った場所がそのまま置かれたような気がした。
未羽は畳の上に座り、端の弦を一本鳴らした。
ぽん、と低い音がした。
未羽はすぐに首を傾げた。
次の弦を鳴らし、その隣も鳴らした。一つずつ確かめるように、何度も音を出した。
僕には、どれも似た音に聞こえた。
けれど、未羽の顔は、鳴らすたびに少しずつ曇っていった。
未羽は、弦の下に立っている小さな柱に触れた。ほんの少しだけ動かし、もう一度同じ弦を鳴らした。
ぽろん。
また柱を動かした。
もう一度、音を鳴らした。
それを何度か繰り返してから、未羽の手が止まった。
「……音が、違う」
父が古筝のそばにしゃがんだ。
「直せないのか?」
未羽は唇を噛み、首を振った。
届く前までは、古筝があれば弾けると思っていたのだと思う。
古筝は目の前にある。
弦もある。
触れば音も出る。
それなのに、未羽が知っている音にはならなかった。
未羽は古筝の前に座ったまま、しばらく動かなかった。
翌日、父は何件も電話をかけた。
「中国の琴なんですけど」
「古筝という楽器で」
「日本の箏とは違うものらしくて」
父は何度も同じ説明をした。
けれど、電話の向こうの人たちは、たぶん困っていた。
父の声は少しずつ低くなり、最後には「そうですか。ありがとうございます」と言う回数だけが増えた。
未羽は、リビングの隅に置かれた古筝を見ていた。
近づいて、弦を一本だけ鳴らすこともあった。
でも、すぐに手を離した。
その日の夜、母が中国の先生に連絡してくれた。
父はノートパソコンを古筝の前に置いた。
画面の中で先生が何かを言うと、未羽は返事をしながら柱や弦を触った。先生に言われた場所を見て、慎重に柱を動かし、音を鳴らした。
その時の未羽は、少しだけ元気になったように見えた。
先生が画面の向こうで頷くと、未羽も頷いた。
けれど、何度か繰り返すうちに、未羽の顔はまた曇っていった。
画面越しでは、細かな音まではわからないらしかった。
中国にいれば、先生が隣に座って直してくれたのかもしれない。
でも、ここは日本だった。
先生は画面の中にしかいなかった。
通話が終わったあとも、未羽は古筝の前に座っていた。
父が言った。
「ごめんな。もう少し探してみるから」
未羽はすぐに首を振った。
「ごめんじゃない」
それから古筝を見た。
「でも、弾きたい」
その声は、思っていたよりずっと小さかった。
未羽は泣いていなかった。
怒ってもいなかった。
それでも僕は、その時になって初めて、未羽がひどく悲しんでいるのだとわかった。
古筝が届いた時、未羽は僕の知らない顔で笑った。
僕を見て安心する時の顔ではなかった。
自分の欲しいものを見つけた人の顔だった。
だから僕は、未羽がまたあの顔をできるようになればいいと思った。
その週の終わり、父は瞬の家に電話をかけた。
「変なお願いなんですけど」
父はそう言った。
瞬の家は、昔から続く和菓子屋だった。
僕は店の名前を知っていたし、父や母が誰かにきちんとした手土産を持っていく時にも、何度か聞いたことがあった。
父は、瞬の家なら、箏を習っている人や、古い楽器に詳しい人を知っているかもしれないと思ったらしい。
父は本当に困っていた。
未羽は古筝の前に座るたびに、少しずつ静かになっていた。
僕は、父が電話をする声を、黙って聞いていた。




