琉生10
次の日の夜、瞬の家から電話があった。
父は何度か「ありがとうございます」と言ってから、受話器を置いた。
「箏の先生が、一度見てくれるって」
未羽は古筝の前で顔を上げた。
「古筝?」
「専門ではないらしい。でも、見てみないとわからないって。今度、瞬の家に来るから、その時に持ってきていいそうだよ」
瞬のおばあさんの知り合いで、長く箏を教えている人らしかった。
約束の日、父は古筝をもう一度布で包んだ。
僕も持とうとしたけれど、思っていたより重かった。父は「大丈夫」と言って、ほとんど一人で抱えた。
未羽はその横を歩いた。
自分では持てないのが気になるのか、何度も古筝の方を見ていた。
瞬の家は、僕たちの家からそれほど遠くなかった。
休みの日に遊びに行ったこともあったし、玄関を上がって、そのまま瞬の部屋へ通されたこともあった。
でも、その日はいつもと違った。
父は大きな古筝を抱えていて、未羽はその隣を少し緊張した顔で歩いていた。
いつもなら、瞬の家はただ瞬の家だった。
その日は玄関に立っただけで、少し背中を伸ばさなければいけないような気がした。
家の奥から、人の話す声がかすかに聞こえた。甘い匂いもする。店から流れてきた匂いなのか、家の中で何かを作っていたのかはわからない。
そこへ、瞬が奥から出てきた。
「上がって」
いつもと同じ声だった。
けれど、学校で見る瞬とも、遊びに来た時の瞬とも少し違った。大きな声を出さなかったし、僕の肩を叩いたりもしなかった。
「こっち」
瞬は僕たちを奥の部屋へ案内した。
知っている家なのに、知らない場所へ入っていくみたいだった。
部屋には、白い髪を後ろでまとめた女の人が座っていた。
思っていたより小柄だった。けれど、背筋がまっすぐで、座っているだけなのに大きく見えた。
父が古筝を置いても、その人はすぐには楽器へ触れなかった。
まず、未羽を見た。
「あなたが未羽さん?」
未羽は小さく頷いた。
「中国のお箏だと聞いたのだけれど」
未羽の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「古筝」
声は小さかった。
でも、そこだけははっきりしていた。
先生はすぐに頷いた。
「そうね。古筝ね。ごめんなさい」
未羽は先生を見た。
子どもだから適当に合わせたのではなく、本当に言い直したのだと確かめるみたいに、少しだけ長く見ていた。
それから、未羽の肩がわずかに下がった。
父が事情を説明した。
中国から送ってもらったこと。届いた時から、未羽の知っている音とは違っていたこと。中国の先生に画面越しで見てもらったけれど、全部は直せなかったこと。
先生は途中で口を挟まなかった。
時々頷きながら、最後まで聞いていた。
父の説明が終わると、先生は古筝の前に座った。
「私は古筝の専門ではないの」
先生は先にそう言った。
未羽の顔が少し曇った。
「でも、箏と似ているところもあるわ。壊れているところがないか見ることと、柱の位置を少し確かめるくらいなら、手伝えるかもしれない」
先生は古筝を見て、それから未羽を見た。
「触ってもいい?」
未羽はすぐには返事をしなかった。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
先生は端の弦を一本鳴らした。
ぽん、と低い音がした。
次の弦を鳴らし、その隣も鳴らした。
僕には、どれも似た音に聞こえた。
でも先生は、音を出すたびに少しだけ首を傾けた。未羽も隣に座り、先生の手元と弦を交互に見ていた。
二人だけが、僕には聞こえないものを聞いているみたいだった。
「ここは、柱が動いたのかもしれないわね」
先生が小さな柱に指を添えると、未羽が息を止めた。
先生と未羽が何度か音を確かめたあと、先生が言った。
「少し時間がかかると思います」
父が未羽を見ると、未羽は古筝から目を離さないまま頷いた。
瞬のお母さんが、僕たちを隣の部屋へ案内した。
瞬も一緒だった。
低い机の上に、お茶と小さな和菓子が並べられていた。襖は閉まっていたけれど、古筝の音はよく聞こえた。
ぽん。
少し間があって、もう一度。
時々、未羽の小さな声と、先生の返事も聞こえた。
いつもの瞬なら、退屈になると僕に話しかけたと思う。先生が何をしているのか聞いたり、襖の向こうの未羽に声をかけたりしたかもしれない。
でも、その日は瞬は何も言わなかった。
音が鳴るたびに、耳を澄ませているようだった。
父もほとんど話さなかった。
僕たちは、何が変わったのかわからない音を、隣の部屋からずっと聞いていた。
お茶が少し冷めた頃、未羽の声が、それまでより少しだけ明るくなった。
しばらくして、一本ずつ途切れていた音が止まった。
先生の声が、襖の向こうから聞こえた。
「私にわかる範囲では、大きくずれているところはなくなったと思うわ。古筝として完璧かは、私には言えないけれど」
少し間があった。
「最後は、あなたが弾いて確かめてみて」
未羽の返事は聞こえなかった。
少しして、古筝が鳴った。
それまで一つずつ切れていた音が、今度は途切れずにつながった。
一つの音が次の音を連れてきて、その音がまた次へ流れていった。
僕には、曲の名前も、正しく弾けているのかもわからない。それでも、上手いと思った。
瞬は何も言わず、和菓子にも手をつけない。僕も同じように、襖の向こうの音を聞いていた。
未羽の姿は見えない。それでも、古筝だけを見ていることは、なんとなくわかった。僕や父といる時とは少し違う。中国にいた時の未羽は、こんなふうだったのかもしれない。
知らない未羽なのに、前からそこにいた未羽でもあるような気がした。音が戻ったことも、未羽が喜ぶことも嬉しい。それなのに、胸の奥に残ったものが何なのかは、よくわからなかった。
音が戻ったことは、嬉しかった。
未羽が喜ぶだろうと思うと、僕も嬉しかった。
けれど、胸の奥に残ったものが何なのかは、よくわからなかった。曲が終わっても、最後の音はしばらく部屋に残っていた。
誰もすぐには話さなかった。
やがて襖が開き、未羽が出てきた。
来た時より、顔から力が抜けていた。
父が古筝を包んでいる間、未羽は先生を見て、頭を下げた。
「ありがとうございます」
先生は少し笑った。
「また音が気になったら、持っていらっしゃい。私にわかることなら、一緒に考えましょう」
未羽は頷いた。
玄関で靴を履き、父が古筝を持ち上げた。
帰るのだとわかると、瞬が急に未羽のそばへ寄った。
「すごかった」
未羽は瞬を見た。
「何が?」
瞬はすぐには答えなかった。
たぶん、どこがすごかったのか、本当は説明できなかったのだと思う。
「……なんか、全部」
未羽は少しだけ困った顔をした。
それから、小さく笑った。
僕にも、どこがすごいのかは説明できないけど、瞬の言ったことは、少しだけわかる気がした。
父が古筝を抱え、その隣を歩く未羽の足取りが少し軽く見えた。
家へ帰る道でも、さっきの音がまだ、僕の耳の奥に残っていた。




