琉生11
六年生の夏休み、未羽は母に会うためにアメリカへ行った。
未羽がいなくても、夏休みは普通に始まった。
朝はラジオ体操に行って、昼は瞬や優斗と遊んだ。宿題を広げたまま誰かの家でだらだらしたり、暑くなると水を飲みに台所へ行ったり、夕方になるまで外に出たりした。
未羽がいないことには、もう前ほど驚かなかった。
小三の時みたいに、道を渡るたびに横へ手を出すことはなかったし、廊下で未羽を探すことも、休み時間のたびに気にすることもなかった。
未羽は今、アメリカにいる。
そう思うだけで済むようになっていた。
その日、優斗は空になったペットボトルを何本も持ってきた。
大きさの違うものを床に並べて、輪ゴムや割り箸や、どこから持ってきたのかわからない細い棒を出した。ペットボトルの一部は、もう変な形に切られていた。飲み口のところに輪ゴムがかかっていたり、底の方に穴が開いていたりして、武器なのか、罠なのか、僕にはよくわからなかった。
瞬は宿題のプリントから顔を上げた。
「なにそれ」
「これ?」
優斗は、ペットボトルにかけた輪ゴムを指で引っ張った。
びん、と変な音がした。
瞬は少しだけ黙ってから言った。
「楽器作ったの?」
「違うよ」
優斗は真面目な顔で言った。
「音楽」
瞬は、ますますわからないという顔をした。
「これが?」
「そう」
優斗は別のペットボトルを割り箸で叩いた。ぽこ、と軽い音がした。
「上手くなったら、ちゃんとした音楽になるの」
「いつ?」
「いつか!」
優斗は迷わず答えた。
その言い方がおかしくて、瞬が笑った。
「いつかって、便利だな」
「便利じゃないよ。未来だよ」
「未来って言えば何でも許されると思ってるだろ」
「思ってない」
「思ってる顔してる」
瞬がそう言うと、優斗はむっとした顔をした。でも、すぐにまた輪ゴムを引っ張った。
びん。
今度は少し低い音だった。
瞬は笑いながら、またプリントに目を戻した。
「じゃあ、未来の音楽家、宿題も未来にするなよ」
「宿題は未来じゃなくて、最後の日にするものだよ」
「それ、未来よりだめだろ」
二人が笑った。
僕も笑ったけれど、目は優斗の手元に向いたままだった。
輪ゴムの長さを変えると、音が変わった。ペットボトルの大きさを変えても、叩いた時の音が違った。きれいな音ではなかった。うるさいだけの音もあったし、すぐに消えてしまう音もあった。
でも、違っていた。
同じように見えるものから、違う音が出ていた。
僕は、前に父が見せてくれた映像を思い出した。
若い父が舞台の上でギターを弾きながら、友人と共に歌っていた。細長い首みたいなところがあって、そこに張られた弦を指で押さえて、もう片方の手で鳴らしていた。
映像の中のギターは、優斗のペットボトルよりずっとかっこよかった。
でも、輪ゴムを引っ張った時の音を聞いた瞬間、僕はなぜかそれを思い出した。
その日の夕方、僕は収納部屋を開けた。
奥の方に、父の古いギターがあった。前に見た時は、ただの大きな荷物にしか見えなかった。けれど、その日は違った。ケースを開けると、木の匂いと、少し古い匂いがした。
ギターは思っていたより大きかった。
僕は抱えるようにして持ち上げ、弦に指をかけた。
じゃん、と鳴ると思った。
でも、出た音は、ぼん、とも、ぎゃん、ともつかない変な音だった。
僕はもう一度弾いた。
やっぱり変だった。
指で押さえてみても、音はきれいにならなかった。むしろ、もっと苦しそうな音になった。僕は首をかしげて、弦を一本ずつ鳴らした。映像の人みたいに指を動かそうとしても、どこを押さえればいいのかわからなかった。
「何してるんだ?」
後ろから父の声がした。
僕は少しだけびくっとした。勝手に触って怒られるかと思った。でも父は怒っていなかった。収納部屋の入口に立って、僕とギターを見ていた。
「ギターに、興味があって」
「見ればわかるよ」
父は少し笑った。
「音が変なんだ」
「そりゃ、いきなり弾いたら変だよ」
父は近づいてきて、僕の手からギターを受け取った。僕が持つと大きすぎたギターは、父が持つとちゃんと楽器に見えた。
父は椅子に座って、弦を軽く鳴らした。
さっきまで変な音しか出なかったギターが、急に違うものみたいに鳴った。
僕は黙った。
父の指が弦の上を動く。左手の指が場所を変えるたび、音が変わった。右手が弦を払うと、音が広がった。父は少しだけ眉を寄せて、途中で弦のつまみを回した。それからもう一度鳴らした。
今度は、もっときれいだった。
知らなかった。
この家の収納部屋に、こんな音がしまわれていたなんて知らなかった。
「楽譜がなくても、弾けるの?」
僕が聞くと、父は得意そうでも、照れたようでもない顔で言った。
「少しだけな」
少しだけ、には見えなかった。
僕には、父が急に知らない人みたいに見えた。いつもの父なのに、いつもの父より少しかっこよかった。
「やりたいのか?」
父が聞いた。
僕はギターを見た。
優斗のペットボトルの音を思い出した。映像の中のギターを思い出した。父の指から出た音を思い出した。
「多分」
そう答えると、父は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、まずは父さんの大事なギターを、琉生も大事に扱うこと。弦で指を切ることもあるから、無理はしないこと」
「うん」
「あと、最初は思ったより音が出なくても、絶望しないこと」
「絶望をしないよ」
「いや、わからんぞ」
「今もしなかったよ」
「そうだなぁ」
父は笑った。
それから、ギターは僕の部屋に置かれることになった。
最初の何日か、僕の指はすぐに痛くなった。弦を押さえると指先がじんじんした。ちゃんと押さえられないと音が濁った。父が教えてくれた通りにしているつもりでも、同じ音にはならなかった。
それでも、僕は毎日触った。
宿題の途中で気になって、弦を鳴らす。夜、寝る前にもう一度鳴らす。朝起きて、父に怒られないくらい小さな音で鳴らす。
上手くなったら、ちゃんとした音楽になる。
優斗の言葉を、時々思い出した。
夏休みの半ばを過ぎた頃、父が電話をすることが増えた。
最初は仕事の話だと思っていた。けれど、父の声がいつもより低くなることがあった。母の名前が出ることもあったし、未羽の名前が出ることもあった。
ある夜、父は受話器を置いてから、しばらく黙っていた。
僕はギターを膝に乗せたまま、父を見た。
「未羽、夏休みが終わっても、すぐには帰ってこれなくなった」
父はそう言った。
弦に置いていた僕の指が止まった。
「なんで?」
「向こうで、演技の学校に通うことになったらしい」
演技の学校。
その言葉の意味はわかった。でも、それが未羽が帰ってこない理由になることは、すぐにはわからなかった。
「ずっと?」
「ずっとじゃない。日本には帰ってくる。でも、これからしばらく、夏は向こうに行くことになると思う」
「毎年?」
父は少しだけ間を置いてから頷いた。
「たぶん、毎年」
僕はギターを見た。
未羽は今、アメリカにいる。
そう思うだけで済んでいたはずだった。
でも、夏休みが終わったら帰ってくると思っていた。
来年の夏も、その次の夏も、未羽はまたいなくなる。僕たちが虫を取ったり、川に行ったり、宿題を最後まで残したりしている間、未羽は僕の知らない場所で、僕の知らないことを覚えていく。
「未羽が決めたの?」
僕が聞くと、父はすぐには答えなかった。
「未羽が、やりたいそうだ」
それは、前にも聞いたような言葉だった。
泣いていても、中国に行くと言った未羽。
僕の手を握っていても、僕のいない場所を選んだ未羽。
今度は泣いているのか、泣いていないのか、僕にはわからなかった。
「父さんはいいの。家族がバラバラなの」
父は目を見開いて、僕を見つめた。
「父さんは、母さんと結婚する時に覚悟は決めてたからなぁ。……でも、子供まで行くことは考えてなかったなぁ」
「悲しい?」
「悲しいなぁ」
「……寂しい?」
「寂しいなぁ」
「それでも、母さんが好き?未羽は大切?」
「そうだなぁ。母さんを愛してるし、未羽も琉生も世界一大事だなぁ」
「そう……」
「……琉生は、どう思う?」
「……未羽も母さんもいないのは、いやだと思う。でも、ずっとそばにいてもらうのも、違う気がする」
」
「そっか……」
父はまだ何か言いたそうにしていたけど、何も言わなかった。
僕はギターの弦を一本だけ鳴らした。
まだ、きれいな音にはならなかった。それでも、音は出た。
夏休みが終わって、少ししてから、未羽は帰ってきた。
久しぶりに見た未羽は、表情がキリッとしていると思った。髪は前より長くなっていて、話し方も少し変わっていた。何が変わったのかはうまく言えなかったけれど、言葉が前よりはっきりしていた。
中国から帰ってきた時とは違った。
日本語が変になると思っていたのに、未羽の日本語は、むしろ前より上手くなっていた。
「なんで?」
僕が聞くと、未羽は首をかしげた。
「なにが?」
「日本語」
未羽は少し考えてから言った。
「ママと、いっぱい話した」
「アメリカで?」
「うん。あと、日本の本も、いっぱい読んだ。カタカナ、まだ難しいけど」
未羽はそう言って、僕の部屋の方を見た。
そこに置いてあったギターに気づいたらしい。
「買ったの?」
「違う。父さんの」
「弾いてるの?」
「少し」
本当は、まだ少しとも言えなかった。弦を押さえると指が痛いし、音はよく濁る。父みたいには全然弾けない。
でも、未羽はギターの前にしゃがんで、じっと見た。
「聞きたい」
僕は困った。
「変だよ」
「いいよ」
「本当に変だよ」
「それでも聞きたい」
未羽はそう言って、僕を見た。
その顔は、昔みたいに手を探す顔ではなかった。僕に何かをしてほしいと泣きそうになる顔でもなかった。
ただ、純粋に好奇心溢れている顔だった。
僕はギターを持った。
父が持つより、まだずっとぎこちなかった。弦を押さえる指も、ちゃんとした場所に置けているのかわからなかった。それでも、僕は覚えたばかりの音を鳴らした。
じゃん、と鳴るはずだった音は、少しだけ濁った。
僕は恥ずかしくなって、すぐに弦を止めた。
「だから変だって言っただろ」
未羽はギターを見ていた。それから、僕を見て笑った。
「でも、すごくかっこいい音した」
その言い方が、あまりに普通だった。
僕はもう一度、弦を鳴らした。
今度も、きれいとは言えなかった。でも、一回目より少しだけましだった。
未羽は何も言わずに聞いていた。
夏の間に、未羽は僕の知らない場所で、僕の知らないことを覚えてきた。
僕も、未羽のいない部屋で、少しだけ新しい音を覚えた。
そのことが、なぜか少しだけ嬉しかった。




