琉生7
夏休みの間、未羽はよく外に出た。
瞬が虫取り網を持って走れば、少し遅れてついていった。捕まえた蝉を虫籠に入れる時、未羽は顔を近づけすぎて、瞬に「近い近い」と言われていた。優斗が川の浅いところで平たい石を拾って並べていると、未羽は隣にしゃがんで、それをじっと覗き込んだ。
僕の手を探すことは、まだ多かった。
道を渡る時。知らない人とすれ違う時。瞬が急に大きな声を出した時。未羽の指は、当たり前みたいに僕の手を探した。
でも、僕が少し離れても、未羽はすぐに不安そうな顔をしなくなった。
早朝仕掛けた罠を見回る時なんて、僕を起こさずに、瞬、優斗、瞬の父の4人で確認して、クワガタ、カブトムシを持ち帰ってきた。僕が川の少し深い方へ行っても、未羽は追いかけてこなかった。
僕がいなくても、未羽は未羽で遊んでいられた。
それはたぶん、いいことだった。
中国でのことは、僕にはよくわからなかった。未羽がどんな風に学校で過ごして、どんな人と話して、どんなふうに仕事をしていたのか、僕はほとんど知らなかった。
でも、未羽は今、僕の隣にいた。
蝉を見て、川に足を入れて、瞬の後ろを追いかけて、優斗の隣でしゃがんでいる。
だから、夏休みが終わっても、このままここにいるのだと思っていた。
八月の半ばが過ぎた頃、母が未羽に聞いた。
「未羽」
母は、いつもより少しゆっくり名前を呼んだ。未羽は顔を上げた。僕はその隣で、虫籠の中の蝉を見ていた。もうあまり鳴かなくなった蝉だった。
「日本に残る? それとも、中国に戻る?」
僕は、母が何を聞いているのか、すぐにはわからなかった。
未羽は日本にいるのだと思っていた。
だって、未羽は僕の手がないと泣くくらい、不安定だった。最近やっと、瞬と走り回れるようになり、優斗と静かにしゃがめるようになった。
それなのに、母は聞いた。
「日本に残る? それとも、中国に戻る?」
未羽はすぐには答えなかった。
僕の手を握ったまま、母を見ていた。それから、少しだけ目を伏せた。何かを考えている顔だった。静かで大人みたいな表情だ。
虫籠の中で、蝉がかさ、と動いた。夏の終わりの蝉は、前みたいにうるさく鳴かなかった。羽だけを震わせて、籠の壁にぶつかっていた。
「未羽」
母が、もう一度呼んだ。
「日本に残ってもいいよ。中国に戻らなくてもいい。お仕事も、無理に続けなくていい」
未羽は母を見ていた。
「でも、戻りたいなら、戻ってもいい。ママが決めることじゃない。未羽が決めていいのよ」
僕は母を見た。
どうしてそんなことを聞くのか、わからなかった。中国で嫌なことがあったなら、戻らなければいい。僕のそばにいたいなら、日本にいればいい。僕には、それだけのことに思えた。
未羽は僕を一度見て、母に視線を戻した。
「中国」
小さな声だったけど、頼りない声ではなかった。
「なんで?」
僕はすぐに聞いた。未羽は、何を聞かれているのか、わからないような顔だった。
「なんで中国なの?」
未羽は答えなかった。さっきまで当たり前にそこにあった手が、急にどこかへ行ってしまうものみたいに思えた。
「日本にいればいいじゃん」
言いながら、胸の奥が熱くなった。
「僕もいるし、瞬もいるし、優斗もいるし」
未羽は僕を見ていた。
「川も行けるし、虫も取れるし、優斗の家のケーキも食べられるし」
自分でも、何を言っているのかわからなかった。そんなことを並べても、何の理由にもならない気がした。でも、他に何を言えばいいのか、わからなかった。
「中国、嫌だったんじゃないの?」
その時、未羽の顔が少しだけ歪んだ。未羽の目に、涙がたまった。
でも、前みたいに大きな声では泣かなかった。口を開けて泣くことも、肩を震わせることもなかった。ただ、目からぽろっと涙が落ちた。
僕は、もっとわからなくなった。
「嫌じゃないの?」
未羽は首を横に振らなかった。
「戻りたいの?」
今度も、頷かなかった。
「じゃあ、なんで?」
未羽は答えないまま、僕の手を握る力だけが少し強くなった。その手は、離れたくないと言っているみたいだった。
なのに、未羽は中国と言った。
「琉生」
母が、僕の名前を呼んだ。怒った声ではなかった。でも、それ以上聞いてはいけないとわかる声だった。
「未羽は考えて答えたの」
「でも、泣いてる」
僕は続けて聞いた。
「泣いてるのに、なんで?」
母はすぐには答えなかった。未羽の前にしゃがんで、涙を指でぬぐった。
「泣くことと、選んだことは、同じじゃない時があるの」
僕には、意味がわからなかった。
泣くくらい嫌なら、やめればいい。離れたくないなら、残ればいい。僕の手を握っていたいなら、ここにいればいい。
そう思った。
でも未羽は、僕の手を握ったまま、もう一度小さく言った。
「中国に、行く」
今度は、さっきより少しだけ震えていた。
それでも、言い直さなかった。
その日の夜、未羽は僕の隣で眠った。
眠る時、未羽はいつもみたいに僕の手を握っていた。指先は少し熱くて、時々、眠りながら確かめるみたいに握り直した。
僕は眠れなかった。
未羽は僕の手を握っている。
それなのに、中国に戻ると言った。僕がいない場所に行くと言った。
川で並べた石も、虫籠の中の蝉も、瞬の笑い声も、優斗が並べた石も、全部まだ近くにある気がした。夏休みは終わっていないみたいだった。なのに、もう終わることだけが決まっていた。
僕は未羽の手を握り返した。未羽は少しだけ安心したように息を吐いた。
それが余計にわからなかった。
僕の手で安心するのに、どうして僕のいない場所を選ぶのだろう。
必要なら、そばにいればいい。
小三の僕には、それ以外の答えがわからなかったし、未羽は教えてくれなかった。




