琉生6
「前から仲はよかったけど、こんなだったっけ?」
瞬がそう言ったのは、帰りの会が終わったあとだった。
教室にはまだ何人か残っていて、ランドセルを背負ってじゃんけんをしていたり、チョークで黒板にお絵描きをしていたり、各々好きな事をしていた。外はまだ明るくて、運動場からは高学年が体育の授業をしていた。
僕たちはダラダラ教室で時間を潰して、優斗のお家の余り物のケーキを授かろうと計画していた(優斗のうちはケーキ屋さん)。そろそろだと思い、僕が立ち上がると、未羽の指が僕の指に触れた。僕はそのまま握った。
瞬は、それを見ていた。
「おまえら、前から仲はよかったけど、こんなだったっけ?」
瞬は、からかうみたいに笑った。
でも、声は少しだけ不思議そうだった。
中国に行く前の未羽は、こんなふうではなかった。
未羽は昔から、僕の近くにいることが多かった。
眠る時は未羽は僕と手を繋いだし、知らない場所では僕の方が未羽を探していた気がする。
だからといって、ずっと手を繋いでいたわけではない。
瞬が面白い遊びを始めれば、未羽は混ざり、優斗が何か作っていれば、しゃがんで覗き込んだ。僕が別の遊びをしていても、未羽は未羽で遊んでいた。
未羽が僕のところに戻ってくるのは、当たり前だった。
だから僕は、未羽が離れて遊ぶことを、変だと思ったことはなかった。
未羽が戻ってくることも、変だと思ったことはなかった。
でも今の未羽は、遊びに行く前から、僕の隣にいる。
数日後の放課後、瞬と優斗はうちに来た。
母はまだ帰っていなくて、父は仕事部屋にいた。居間には僕と未羽と瞬と優斗だけだった。
僕たちは、テレビの前に座って太鼓のゲームをした。
瞬は強かった。
画面に流れてくる丸を見ながら、余裕そうな顔で叩くのに、だいたい僕より点が高かった。
優斗は、気に入った曲を何度もやりたがって、僕はうんざりした。
未羽は、あまり上手ではなかった。
でも、失敗すると少しだけ眉を寄せて、次の丸を真剣に見た。瞬が横から「今の遅い」と言うと、未羽は何も言わずに、次は強めに叩いた。
ゲームをしている間、未羽は僕の手を握っていなかった。
当たり前だった。
バチを持たなければいけないし、順番を待っている時も、画面をじっと見つめていた。
だから僕は、少し安心していたのだと思う。
未羽は、ずっと僕の手を探しているわけではない。遊べないわけでもない。前と全部が変わったわけではない。
未羽と優斗が丁度一曲叩き終わると、瞬は言った。
「なんか食おうぜ。その後、別の遊びしよう」
反対する人はいなくて、僕たちはキッチンに行って冷蔵庫にある、デザートを取り出した。
「シュークリームかスイートポテト、どっちがいい?」
瞬が聞くと、未羽は目を輝かせた。
「スイートポテト!」
「僕も!」
洋菓子屋さんの優斗もスイートポテトを選び、僕と瞬はシュークリームを食べた。みんな、満足すると、それぞれ遊び始めた。
優斗は、いつの間にか大きめの瓶の蓋を持ってきていた。そこに輪ゴムを何本かかけて、指ではじいている。
びん、と変な音がした。
「それ何?」
僕が聞くと、優斗は蓋を見たまま言った。
「楽器」
「それ、楽器なの?」
「うん」
瞬は優斗の方をちらっと見ただけで、すぐに興味をなくした。その時、未羽の手が僕の手に触れた。ゲームをしていた時には離れていた手だった。
休憩になって、画面を見る必要がなくなって、誰も順番を待たなくなった途端、未羽は僕の手を探した。
僕は、何も言わずに握った。瞬は、それを見ていた。
「またつないでる」
からかうような声だったけど、未羽は瞬を見なかった。僕の手を握ったまま、優斗の作った蓋の楽器を見ていた。
優斗が輪ゴムをはじくたびに、びん、びん、と音がする。未羽は少しだけ首を傾けた。
それから僕たちは、父の鑑賞室で、瞬が持ってきた映画を見た。映画を見る時は、だいたいいつもこの部屋だった。
大きな画面には、知らない町が映っていた。部屋いっぱいに音が響いていた。
瞬は、たぶん、その時もまだ深く考えていなかったのだと思う。
「そんなに離れたらだめなの?」
そう言って、瞬は僕と未羽に近づいた。
僕が何かを気づくより早く、瞬の指が僕たちの手の間に入った。軽く握っているだけだった僕たちの手は簡単に解けた。
一瞬、音が止まった気がした。
実際には、大きな画面からは映像が流れ、音が響いていけた。
でも僕には、その瞬間だけ、部屋の中が急に静かになったように感じた。
画面の光が、未羽の顔を青く照らした。
未羽は、自分の手を見た。それから、僕を見た。何が起きたのかわからない顔だった。
次の瞬間、未羽は泣いた。水が入っていると知らなくて、ふざけて風船を割った時みたいな気分だった。
ただ、びっくりして、怖くて、怖くて、どうしたらいいのかわからなくなった。何故か、僕には、未羽が世界に一人取り残された恐怖で泣いているように見えた。
僕はすぐに未羽の手を取った。
「未羽」
未羽は握り返さなかったし、僕に手を握られていると気づいていない気がする。
「未羽」
何度呼びかけても、未羽は僕を見なかった。大きな声で泣き続けていた。
カシャっと
扉が静かに開いた音がやけに響いた。
父がそっと顔を出して、僕たちを一度だけ見た。それから何も聞かずに、部屋に入ってきて、未羽の前にしゃがんだ。
「未羽」
父が名前を呼んでも、未羽は泣き続けていた。
父は未羽を抱き上げた。
未羽の体は小さく震えていて、父の肩に顔を押しつけても、まだ泣き止まなかった。
「大丈夫だよ」
「もう頑張らなくていい」
父はそう言いながら、未羽を部屋へ連れて行った。
僕は追いかけようと思った。でも、足が動かなかった。
一瞬遅れて、僕たちは部屋の入口まで行った。中には入れなかった。ただ、開いたままの戸のところから、父の背中と、父に抱かれた未羽の髪だけが見えた。
「最後まで、よく頑張ったなぁ」
「しんどかったなぁ」
父はずっと優しく未羽に話しかけていた。少し落ち着いた未羽は涙を溜めた目で父を見上げた。
「みう、えらい?」
「ああ。偉いぞ。パパとママの自慢の子供だよ」
「るいも?」
「もちろんだ。未羽と同じ。大事で、自慢の子供だよ」
「うん」
「今度、未羽が出ているドラマをパパと見よう」
未羽は眉をひそめたけど、口元は小さく上がっていた。
「うん」
未羽は目をとろっとさせた。まだ少し息は震えていたけれど、父に抱かれたまま、すぐに眠ってしまった。
未羽をベッドに寝かせた父は、僕たちの方を見た。
「女の子が泣いているところを、陰から見るのはいけないよ」
僕たちは気まずくて、お互いを見た。
優斗は瓶の蓋を両手で持ったまま、何も言わなかった。
瞬も黙っていた。さっきまで一番うるさかった瞬が、今は一番静かだった。
「ごめんなさい」
瞬が、小さな声で言った。
父は怒らなかった。ただ、僕たちの前にしゃがんだ。
「何があった?」
瞬は顔を上げなかった。
「最近、未羽がずっと琉生と手を繋いでいるから……」
「そうだね。最近の未羽は寂しがり屋で甘えたがりだよね」
瞬が力なく頷いた。
「だから、ちょっと離したら、どうなるのかなって」
父は黙って聞いていた。
「びっくりするだけだと思った。すぐ、また琉生の手を握ると思った」
瞬の声は、だんだん小さくなった。
「泣くとは、思わなかった」
父は、瞬を責める顔をしなかった。でも、笑いもしなかった。
「うん。泣くとは思わなかったんだね」
瞬は頷いた。
「でも、もうしないであげてほしい」
「うん」
瞬はすぐに言った。
父は、そこで少しだけ声をやわらかくした。
「未羽は、甘えているだけに見えるかもしれない」
僕は父を見た。
「でも、今の未羽にとって、琉生の手は、ただ仲がいいから繋いでいる手じゃないんだと思う」
瞬は、ゆっくり顔を上げた。
「僕にも。未羽の中で何が起きているのか全部はわからない。でも、今の未羽には、琉生の手があると息がしやすいんだと思う」
父は、僕の方を少しだけ見た。
「だから今は、琉生の手があると、安心するんだと思う」
瞬は何も言わなかった。
「泣かせたことが、いいことだとは言わないよ」
父は静かに続けた。
「でも、未羽が泣けたこと自体は、悪いことじゃない。ずっと我慢していたものが、少し出たのかもしれない」
瞬の眉が少し動いた。
「でも」
父は、そこでちゃんと瞬を見た。
「だからって、もう一度泣かせていいわけじゃない」
「……うん」
「次に未羽が琉生の手を探していたら、揶揄わないであげてほしい」
瞬は、今度ははっきり頷いた。
「わかった」
父は少し笑った。
「ありがとうね、瞬くん。もう少し、未羽を見守ってあげて」
僕は、父の言ったことを全部はわからなかった。でも、あながち間違いじゃないと思った。
未羽に劇的変化はなかったけど、何かが変わったと感じる。
急に、僕と手を繋がなくなったわけではないし、休み時間はやっぱり僕の教室に遊びに来る。でも、ふっとした時の表情や、視線が少しずつ僕から離れるようになった。
僕の横で僕をじっと見なくなったし、離れる時も不安そうな顔をしなくなった。
三時間目の終わり、僕がトイレに行きたくなった時だった。
「トイレ」
そう言うと、未羽は小さく頷いて、ぱっと手を離した。
僕がちらっと未羽を振り返ると、未羽は窓の外を見ていた。
「未羽」
そこに、瞬が未羽の名前を呼んだ。未羽は瞬を見つめた。瞬は少しだけ迷ったあと、片手を出した。
「ん」
未羽は不思議そうに瞬の顔を見た。それから、瞬の手を見た。しばらくして、未羽は、そっと指先を伸ばした。
瞬は引っ張らなかった。未羽が握るのを待っていた。未羽の指が、瞬の指に触れた。それから、ゆっくり握った。
僕は、それを見てから廊下に出た。
トイレから戻ると、未羽はまだ瞬と手を繋いでいた。
でも、僕を見ると、未羽はすぐに顔がゆるんだ。
未羽は瞬の手を離して、僕のところへ来た。僕はいつものように手を出した。
未羽は、いつものように僕の手を握った。
何も変わっていないようにも見えた。でも、さっき見たものは消えなかった。
未羽は、僕の手がなくても平気になったわけではない。僕がいらなくなったわけでもない。
ただ、僕が戻ってくるまでの間、瞬の手を握っていられた。
それだけのことなのに、僕にはそれが少し不思議だった。




