琉生5
次の日も、その次の日も、未羽は僕の近くにいた。
父が出した箸を持ち、母の声に少し遅れて顔を上げ、僕のそばからあまり離れなかった。
僕は、なんとなく違和感を抱いていた。けれど、未羽がいることに満足していた。
本当に僕が未羽の変化を知ったのは、学校に通い出してすぐだった。
月曜日、未羽は僕と一緒に学校へ行った。
いつもより少し早く家を出た。先生に挨拶をして、教室へ行く前に未羽のことを頼むためだと、父は言っていた。
学校の廊下で、未羽は僕の隣を歩いていた。手は、つないでいなかった。
学校に着いた時、未羽は少しだけ僕の手を見た。学校の子が何人もいたし、先生に会いに行くところだった。僕はランドセルの肩ひもを握ったまま、気づかないふりをした。
未羽も、何も言わなかった。
職員室の前に着いて、僕は未羽を呼んだ。
「未羽」
未羽は顔を上げた。
「大丈夫?」
未羽は少し考えてから、うなずいた。
僕たちは先生に会った。僕の先生ではなく、未羽の先生だった。
先生は未羽の顔を見て、ゆっくり笑った。
「おはようございます。未羽さん」
未羽はすぐには返事をしなかった。
母が小さく背中に手を置くと、未羽は先生を見て、言った。
「おはよう、ございます」
声は小さかったけれど、ちゃんと返事をした。
先生はうなずいた。
「未羽さんの先生なので、困ったことがあったら、教えてくださいね」
未羽はじっと先生を見て、返事ができなかった。母が中国語で何かを小さく言うと、未羽はようやく「はい」と返事をした。
それから、母は先生としばらく話をした。
時々流れてくる言葉に、僕は悲しくなった。
「想像以上に、日本語が理解できないようですね」
「ゆっくり話すよう、言い聞かせます」
先生は、もう一度未羽に笑いかけた。
「うん。未羽さん、じゃあ、教室に行きましょう」
未羽は僕を見た。
僕はその時初めて、未羽と僕の教室が違うことを思い出した。思い出したというより、わかっていたのに、ちゃんと考えていなかった。
未羽の教室は、僕の隣だった。
「休み時間に来ればいいよ」
僕が言うと、未羽は僕を見たまま、うなずいた。
先生が未羽の方へ手を出した。未羽はその手を見て、それから僕を見た。
母が何かを言おうとしたけれど、その前に、未羽は先生についていった。
僕は自分の教室に入ると、瞬が僕の席まで来た。
「未羽、来たんだろ」
「うん」
「大丈夫かな。母さんがすごく心配してたけど」
「大丈夫だと思う」
瞬は未羽の教室の方を見た。
「あとで来るかな」
「来るんじゃない」
僕はそう答えた。
本当に来るかどうかはわからなかった。でも、未羽はさっきうなずいた。だから、来るのだと思った。
一時間目が終わり、先生が教室を出ると、みんなはすぐに立ち上がった。消しカスをこねる子、トイレへ行く子、隣の席の子と話す子。いつもの休み時間だった。
僕は少しだけ、隣の教室の方を見た。
すると、すぐに未羽がそっとドアからこっちを覗いていた。
「あ、未羽」
僕が立つより先に、瞬が気づいた。
未羽は瞬を見た。それから、僕を見た。
僕が手を上げると、未羽はほっとしたように、少しだけ表情をゆるめた。
「来たんだ」
僕が廊下に出ると、未羽はうなずいた。
「先生、平気?」
未羽はまた少し考えた。
「うん」
「クラスは?」
未羽は答えなかった。
僕は、質問が悪かったのだと思った。クラスがどうかなんて、どう答えればいいのかわからない。
「次も授業だから、戻った方がいいよ」
僕が言うと、未羽は隣の教室を見て、戻っていった。僕はその後ろ姿を見て、少し安心した。
二時間目の後は、長い休みだった。
瞬たちは、チャイムが鳴るとすぐに外へ走っていった。僕もついていった。校庭に出ると、もう何人かがボールを蹴っていた。
「琉生、こっち!」
瞬が叫んだ。
僕はそのまま瞬たちに混ざった。
サッカーは、いつもみたいに始まった。ちゃんとした試合ではなかった。人数も決まっていないし、ルールも曖昧だった。ただ、ボールを追いかけて、取れたら奪い返す。誰かが笑って、誰かが転んで、先生に怒られないくらいに走る。
少しして、瞬が校舎の方を見た。
「あ、未羽」
僕も振り返った。
未羽が校庭に出てきていた。校庭の端で立ち止まって、たくさんいる子たちの中から、誰かを探すみたいに見ていた。
僕が手を上げると、未羽はすぐにこっちを見た。
「未羽、こっち!」
瞬が明るく呼んだ。
未羽は少しだけ迷ってから、僕たちの方へ来た。
「やる?」
瞬がボールを足で止めたまま聞いた。未羽は瞬を見た。でも、返事をする前に、僕を見た。
「一緒にやる?」
僕が聞くと、未羽は小さくうなずいた。瞬は笑った。
「じゃあ、蹴ってみて」
瞬が未羽の方へ、ゆっくりボールを転がした。
未羽はボールを見て、思いきり足を出した。ボールはまっすぐには飛ばなかった。僕の方に来るはずだったのに、少し横へ転がって、瞬の足元に戻った。
「ナイスフェイント」
瞬が言った。未羽は少し困った顔をしたけれど、瞬が笑っていたからか、未羽もほんの少し笑った。
未羽は、思ったより走れた。
人の間を抜けるのがうまくて、誰かにぶつかりそうになると、すっと横にずれた。ただ、ボールが足元に来ると不器用になる。
僕に向かってボールを蹴りながら、未羽は笑っていた。
だから僕は、大丈夫なのだと思った。
それからも、未羽は休み時間のたびに僕に会いに来た。
「次、理科室なんだ」
僕が言うと、未羽は僕を見た。
「理科室」
僕はもう一度言った。
「教室じゃないところ。僕たち、もう行かないといけないから」
未羽は、うなずいた。
「終わったら戻るから」
未羽はまた、うなずいた。
だから、僕は伝わったと思った。
理科室は独特の匂いがあって、机も普通の教室より広くて、水道がついていた。先生が黒板の前で話している間、僕は窓際の水槽をちらちら見ていた。
チャイムが鳴った。
先生が「教室に戻っていいです」と言うと、みんなはざわざわしながら廊下へ出た。
理科室から教室までは少し離れていた。僕はいつも通り、瞬たちとふざけながら教室に向かっていた。
階段を曲がって、自分の教室のある廊下に出た時、僕は足を止めた。
僕の教室の前に、未羽が立っていた。
周りに、何人かの子がいた。隣のクラスの子も、僕のクラスの子もいた。誰かが何かを言っていた。
「琉生、理科室だよ」
「すぐ戻るよ」
「泣いてるの?」
未羽は泣いていなかった。目が大きく開いていて、口は少しだけ結ばれていた。滅多に泣かない未羽の泣く前の表情だ。
僕の教室の中を見て、それから廊下を見て、でも、どこを探せばいいかわからないみたいだった。
「未羽」
僕が呼ぶと、未羽はぱっとこっちを見た。
その瞬間、未羽の顔が崩れた。泣いたわけではなかった。でも、息をするのを思い出したみたいに、肩が少し落ちた。
僕は走って、未羽の前まで行った。
「理科室って言っただろ」
言ってから、違うと思った。
言った。確かに言った。
でも、未羽には足りなかったのだと思った。理科室と言えば、わかると思っていた。でも、未羽にとっては違ったのだと思った。理科室がどこにあるかより、僕がそこにいないことの方が大きかった。
未羽は何も言わなかった。ただ、じっと僕の手を見ていた。
僕は、手を出した。未羽はすぐに強く握った。
周りの子が少し静かになった。
瞬もいた。いつからいたのかはわからなかった。瞬はいつもなら何か言うのに、その時は何も言わなかった。
未羽ではなく、僕の手を見ていた。
僕は未羽の手を握ったまま、教室の中へ入った。
僕は、未羽が遠くに行ったのだと思っていた。
僕の知らない言葉を話して、僕の知らない場所で暮らして、僕がいなくても平気になったのだと思っていた。
でも、それは、僕を必要としていないということではなかった。
未羽は、変わっていないのかもしれない。
昔みたいに、悲しい時や、怖い時や、どうしていいかわからない時、未羽は僕の手を探す。
未羽は、僕がそこにいるかどうかを確かめに来ていた。
僕がいると、未羽は笑えた。
でも、僕がいるはずの教室にいなかっただけで、未羽は泣く少し前の顔になった。
未羽は日本に戻ってきたのではない。僕がいるから、知らない学校にいるだけだった。




