表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/12

琉生4

未羽が帰ってくる日、朝から家の中が少し違っていた。


父はいつもより早く起きていて、いつもよちお洒落な部屋着を着ていた。

「今日の晩御飯はママが作るそうだ」

父は嬉しそうに、買い物リストを作っていた。


本当は空港まで迎えに行きたかったけれど、父は家で待っていよう僕に言い聞かせた。長い移動のあとに、空港でばたばたするより、家に帰ってきてすぐ休める方がいいからだと説明された。僕はそれにうなずいたけれど、うなずいたあとも、やっぱり空港に行きたい気持ちは消えなかった。


学校に行っても、頭の中は未羽のことでいっぱいだった。


先生の声は聞こえているのに、なかなか頭に入ってこなかった。黒板に書かれた文字をノートに写しているはずなのに、あとで見ると、字が歪に並んでいて、自分が何を書いたのかよくわからなかった。


未羽に会える。


そう思うたびに、胸の奥がふわっと浮いたようになった。うれしいのに、落ち着かなくて、早く会いたいのに、会ったら何から言えばいいのかわからなくて、授業中なのに、未羽が駆け寄ってくるのを待っているような気持ちになった。


未羽は、僕のことを覚えているだろうか。

そう考えてから、すぐに変だと思った。


未羽が僕を忘れるはずがない。僕が未羽を忘れなかったように、未羽だって僕を忘れていないはずだった。


それでも、電話の時の未羽の声を思い出すと、胸の奥に小さな引っかかりが残った。電話の向こうで、未羽はあまり話さなかった。元気?と聞くと、うんと言っていたけれど、未羽自身の言葉は少なくて、僕も受話器を持ったまま、何を聞けばいいのかわからなかった。


放課後、僕は寄り道をしないで帰った。


父はリビングで新聞を読んでいて、僕が帰ってきたことに気づくと、父は顔を上げて、おかえりと言った。


「ただいま」


ランドセルを置いて、手を洗って、リビングに戻る。いつもならテレビをつけたり、本を開いたりするのに、その日は何をしてもすぐにやめてしまった。

窓の外で車の音がするたびに体が勝手に反応して、違う車だとわかるたびに、胸の中だけが少し疲れていった。


父も同じだったと思う。

新聞を読んでいるふりをしながら、何度も時計を見ていたし、いつまで経ってもページをめくらなかった。僕がそれに気づくと、父は少しだけ笑って、「もうすぐだと思う」と言った。


それから、しばらくして、本当に家の前で車が止まる音がした。


父が新聞を畳むより早く、僕は立ち上がっていた。

玄関の向こうで、荷物を動かす音がした。誰かが小さく息をつくような音も聞こえた。それから、聞き慣れているはずなのに、久しぶりに聞く母の声がした。

「ただいま」

僕は玄関まで走った。ドアが開いて、先に母が入ってきた。

母は少し疲れた顔をしていた。髪も服も、長い移動のあとだとわかるくらい乱れていたけれど、僕を見ると、自然と笑顔になった。

「琉生、ただいま」

「おかえり」

そう言いながら、僕は母の後ろを見た。


未羽がいた。


母の後ろに隠れるようにして、玄関の外に立っていた。

髪が腰近くまで伸びていた。顔も、背も、僕の知っている未羽だった。そのまま未羽が駆け寄ってくると思っていたけど、未羽は動かなかった。


ただ、僕をじっと見ていた。


長い間見ていたわけではないのかもしれない。でも、その時の僕には、とても長く感じた。未羽の目は、僕の顔を確かめるみたいに動いて、それから、僕の手元で止まった。

「未羽」

名前を呼ぶと、未羽の目が少しだけ揺れた。

返事はすぐには返ってこなかった。


母が未羽の肩に手を添えた。中国でずっとそうしていたのか、母の手つきは自然だった。母は、言った。

「未羽、琉生だよ」

未羽は母を見なかった。

僕を見たまま、唇を少し動かした。声が出るまでに時間がかかった。何かを言おうとして、言葉の場所を探しているようだった。


「る……い」

小さな声だった。

たった二文字なのに、胸の奥がぎゅっとした。

「うん。琉生だよ」

僕がそう言うと、未羽は少しだけ下を向いた。

泣くのかと思った。でも、泣かなかった。笑いもしなかった。ただ、母の後ろから一歩だけ出て、僕の服の端を掴んだ。


昔なら、迷わず手を握ってきていたはずだった。


知らない場所に行く時も、眠る時も、未羽は僕の手を握っていた。それが当たり前すぎて、手を繋いでいることを特別だと思ったこともなかった。

でも今、未羽が掴んだのは僕の手ではなく、服の端だった。

指先だけで、そっと掴んでいた。僕は未羽の手を見た。

「手、繋ぐ?」

未羽はすぐには答えなかった。僕の顔を見て、それから僕の手を見た。意味がわからなかったのか、言葉がすぐに入ってこなかったのか、僕にはわからなかった。

僕は自分から未羽の手を取った。

未羽の手は冷たかった。

少し遅れて、未羽の指が僕の指に触れた。それから、ゆっくり握った。力は弱かったけれど、離そうとはしなかった。


父が後ろから玄関に来た。

「おかえり、未羽」

未羽は父の方を見た。

父の顔を見て、少し間を置いて、それから小さく頭を下げた。

「……ただいま」

声は、僕の名前を呼んだ時よりも、もっと小さかった

父は一瞬だけ黙った。でもすぐに笑って、「疲れただろう。中に入ろう」と言った。


母が荷物を持ち直したので、父がそれを受け取った。母はありがとうと言って、靴を脱ぐ前に僕の方を見た。

「琉生、未羽の靴、出してあげて」

僕はうなずいて、靴箱から未羽の靴を出した。


最近買ったばかりの緑の毛虫のスリッパだ。

未羽が中国へ行ってから、僕のスリッパに合わせて、何度も買い直した。4歳の未羽の好みに合わせて、僕が選んだものだった。買う時父は渋い顔したけど、僕は譲らなかった。


未羽はその靴を見て、変な顔をした。

自分の靴だとわかったのだとわからなかったんだと後から思う。母が中国語で短く声をかけると、未羽はうなずいて、ゆっくり足を入れた。

その中国語を聞いた時、僕は少し変な感じがした。


母の声なのに、僕は意味がわからなかったけど、未羽はその言葉にはすぐに反応した。さっきまでの少し遅れた動きとは違って、母の中国語には、すぐに体が動いた。

未羽は中国にいたのだと思った。

当たり前のことなのに、その時になって、やっとわかった気がした。


玄関を上がって、リビングに入る。


机も、ソファも、カーテンも、前と同じだった。未羽が前に座っていた場所も、そのままだった。けれど未羽は、すぐには部屋の中へ入らなかった。

リビングの入り口で立ち止まり、部屋の中をゆっくり見た。

母が何か言いかけて、一度口を閉じた。それから中国語で、短く言った。

未羽はそれにうなずいて、僕の手を握ったまま、僕についてきた。

僕がソファに座ると、未羽も隣に座った。

母は荷物を片づけるために父と話していた。二人の会話は日本語だった。画面越しじゃない母の声を聞くのは久しぶりで、うれしいはずなのに、未羽がその会話を追えているのか気になってしまった。


未羽は母と父の方を見ていた。

でも、二人が話すのと、ただぼーっと眺めていた。

「未羽」

僕が呼ぶと、未羽は僕を見た。

「疲れた?」

未羽は僕の顔を見たまま、少し考えるように黙った。それから小さくうなずいた。

「眠い?」

また少し間があって、うなずいた。

「お腹すいた?」

今度は、うなずかなかった。首を振るわけでもなく、ただ、困ったように目を伏せた。

僕は何を聞けばいいのかわからなくなって、自分の手元を見た。


未羽の指は、まだ僕の指に触れていた。強く握っているわけではなかった。でも、離れるつもりもないみたいに、しっかり握られている。


夕飯は、母が作った。

父が途中まで準備していたものを、帰ってきた母が手早く仕上げていった。久しぶりに聞く母の包丁の音や、台所から漂ってくる匂いで、家の中が少しずつ前の家に近づいていく気がした。

食卓に並んだのは、僕の好きなものだった。

母が中国へ行く前、よく作ってくれたものだった。


「琉生、これ好きだったよね」

母がそう言って、僕の皿に少し多めに乗せた。

「うん」

僕はうなずいた。

母が僕の好きなものを覚えていてくれたことが、うれしかった。母が帰ってきたことも、未羽が隣に座っていることも、父がいつもよりゆっくり食卓にいることも、全部うれしいはずだった。


でも、隣の未羽が気になって、うまく笑えなかった。


未羽は箸を持って、料理を見ていた。

母が日本語で、「未羽も好きだったよね?」と聞いた。

未羽はすぐには答えなかった。母の顔を見て、それから料理を見て、少し遅れて小さくうなずいた。

母はその反応を見て、すぐに中国語で言い直した。すると未羽は、さっきより早くうなずいた。


僕はその違いを見ていた。

父も気づいたのか、箸を持ったまま未羽を見ていた。

「日本語、少し難しいか?」

父がそう聞くと、未羽は父を見た。けれど、答えなかった。

母が中国語で短く伝えると、未羽はようやく小さくうなずいた。

父は困ったように笑った。

「そっか。そうだよな。ずっと中国にいたんだもんな」

母は未羽の方を見てから、父に言った。

「子供だしすぐに思い出すと思う。琉生もゆっくり話してあげてね」

その話も日本語だったから、未羽にどこまで伝わっているのか、僕にはわからなかった。


未羽は大人たちの声を聞きながら、ゆっくり食べた。

嫌いだからではないと思った。知らない味だからでもないと思った。ただ、箸の使い方がとても上手で、上品に食べているように見えた。


僕は自分の皿を見た。

好きなものなのに、味が記憶のものより遠かった。

母は僕のために作ってくれたのに、僕は未羽ばかり見ていた。

未羽は、母が中国語を混ぜると反応する。父が日本語で話しかけると、少し止まる。僕が名前を呼ぶと、僕を見る。


それだけだった。

それだけなのに、違うと思った。

夕飯のあと、未羽は母とお風呂に入った。

僕はリビングで待っていた。父はテレビをつけていたけれど、音は小さかった。僅かに響いてくる声は意味がわからないけど、未羽は嬉しそうにしていた。


しばらくして、父が言った。

「未羽、日本語分からなくなっているなぁ」

僕はテレビを見たまま、うなずいた。

「うん」

「家に帰ってくるのを、琉生と会えるのを、未羽はすっごく楽しみにしていたって母さん言ってたぞ。いっぱい話しかけてやれよ」

「うん」

そう言ったあとで、いっぱい聞きたかったことを思い出した。


中国はどうだったのか。友達はできたのか。小学校は楽しかったのか。夜は眠れていたのか。母の手伝いはどうだったのか。

聞きたいことはたくさんあった。

でも、未羽の顔を見ると、どれも口に出せなかった。


お風呂から出た未羽は、僕のパジャマを着ていた。ロボットのヒーロがいっぱいついているパジャマで、未羽はこれを着たかったらしい。サイズもぴったりで、それを見た僕は、心が暖かくなった。

未羽は僕を見ると、すぐに駆け寄ってきた。僕は何も言わずに手を出した。


夜は、未羽は母と寝ることになっていた。

慣れない日本1人で寝るより、今日は母と一緒がいいだろうと父が言った。僕もそうだと思った。

でも、寝る前になると、未羽は僕の服を掴んだ。

母が未羽に中国語で何か聞いた。未羽は答えなかった。ただ、僕の服を掴む指に少しだけ力が入った。

父がそれを見て、「未羽の部屋でもあるし、子供部屋で寝るか」と言った。

2年経ち、僕と未羽の部屋は大きく変わった。大きなベットが真ん中に置いてあったのが、一回り小さいベットが2つ、それぞれ部屋の両端に置かれている。


部屋の電気を消して暫くすると、未羽が僕のベットに潜り込んだ。

「るい」

「うん」

昔なら、驚かなかったと思うけど、その時は嬉しさと共に驚きがあった。未羽は布団の中で、そっと僕の手の甲に触れた。僕はその手を握った。

未羽の手は、まだ少し冷たかった。

「未羽」

小さく呼ぶと、返事はなかった。でも、手に少しだけ力が入った。

「おかえり」

そう言うと、未羽はしばらく黙っていた。もう眠ったのかと思った。

でも、少ししてから、未羽が小さく言った。

「ただいま」


玄関の時より、少しだけはっきり聞こえた。

僕は未羽の手を握ったまま、目を閉じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ