琉生3
日本に戻ってからの生活は、思っていたより早く馴染んだ。
朝起きて、学校へ行く。授業を受けて、給食を食べる。休み時間になると、瞬が僕を呼ぶ。
優斗はたいてい瞬と一緒にやってきた。二人で急に走り出したり、誰かを驚かせてニシニシ笑ったりする。優斗が何かを思いついた顔で近づいてきた時は、僕も警戒するようになった。
そんな中、未羽はそばにいなかった。
それでもチャイムは鳴るし、授業は始まる。放課後になれば、瞬は遊ぼうと誘ってくれる。
未羽がいなくても、一日はちゃんと進んでいく。
そのことが、変だった。
夜、布団に入ってから、ふと自分の手が目に入った。
寮にいた頃から、眠る時に未羽はいなかった。けれど、朝になれば会えた。廊下ですれ違うこともあったし、食堂で見つけることもあった。同じ学校の中にいて、同じ一日を過ごしていた。
今は違う。
僕は、今の未羽を何も知らない。
未羽がいないことよりも、それが変だった。
それでも、次の日になれば学校へ行った。
瞬は相変わらず急に走り出すし、優斗は何かを見つけるたびに足を止めた。僕は二人についていったり、先に歩いたり、ときどき置いていかれたりした。
未羽がいないことを、毎日考えていたわけではない。考えない日もあったし、そういう日はだんだん増えていった。
そのことに気づいた時だけ、少し泣きそうになった。
父は、ときどき未羽の話をした。
向こうの学校で、仲のいい同級生ができたらしい。中国語の成績は赤点のままらしい。寮でも、ちゃんとやっているらしい。
ちゃんと、という言葉が、僕にはよくわからなかった。
未羽が泣かないことなのか。ご飯を食べることなのか。意地悪をされなくなったことなのか。
聞けば、父は答えてくれたと思う。でも、僕はあまり聞かなかった。聞いたところで、父の話の中にいる未羽が、僕の知っている未羽になるわけではなかったからだ。
しばらくして、父が言った。
「未羽、少しだけ母さんの仕事に顔を出しているみたい」
仕事、と言われても、最初は意味がわからなかった。
「演技だよ。ドラマとか映画とか、そういうものに子役として出ているんだ」
僕は、へえ、と言った。
すごいね、と言えばよかったのかもしれない。でも、すごいのかどうかもよくわからなかった。
未羽が学校へ行っていること。寮で眠っていること。知らない子と話していること。
それだけでも、もうよくわからないのに、そこへまた一つ、僕の知らない未羽が増えた。
未羽は、僕の知らない場所で、僕の知らない顔をしているらしい。
その日の夜、久しぶりに未羽と電話で話した。父が受話器を渡してくれて、僕はそれを両手で持った。
「未羽?」
少し遅れて、向こうから声がした。
「るい」
未羽の声だった。
それだけで、胸の奥がぎゅっとなった。未羽はちゃんと未羽だった。僕の名前を、ちゃんと呼んだ。
「学校、どう?」
僕が聞くと、未羽は少し黙った。
「がっこう……うん」
「楽しい?」
また、少し間があいた。
「たのしい」
返事はあった。でも、どこか違和感のある日本語だった。
「友達できた?」
そう聞いた時、受話器の向こうで母の声がした。中国語だった。僕には意味がわからなかった。
未羽も何かを言った。それも、中国語だった。
僕は受話器を握ったまま、何も言えなくなった。
未羽が何を言ったのか、わからなかった。誰に向かって言ったのかも、わからなかった。
少しして、未羽が戻ってきた。
「るい」
「うん」
「るい、げんき?」
「元気」
僕がそう答えると、未羽は小さく笑った気がした。でも、その笑い方も、電話の向こうではよくわからなかった。
本当は、もっと聞きたかった。
ご飯は食べているのか。
寮で眠れているのか。
泣いていないのか。
僕がいなくても、大丈夫なのか。
でも、どれも聞けなかった。
聞いたら、恐ろしいことが起こる気がした。僕が僕でいられなくなるような何かを、知ることになる気がした。
電話を切ったあと、父が言った。
「元気そうだったな」
未羽は確かに、元気だった。
それでも、違和感はいつまでも消えなかった。
そしてその違和感は、次に未羽と会った時、形を持って僕の前に現れた。
未羽は、僕の名前を呼ぶだけで精一杯だった。




