琉生2
中国での最初の半年は、思っていたほど怖いものではなかった。
僕たちは家の近くの幼稚園に通った。
先生の言うことは全部わかったわけではないけれど、毎日聞いていれば、だんだん同じ言葉が耳に残るようになった。
座って。
並んで。
食べて。
だめ。
こっちに来て。
そういう言葉は、意味より先に体が覚えた。
未羽も、僕の後ろに隠れてばかりいたわけではなかった。
先生に手を引かれればついていったし、歌の時間には口だけ動かしていた。友達と呼べる子がいたのかはわからない。でも、少なくとも幼稚園は、僕たちが毎日行って、毎日帰ってこられる場所だった。
だから僕は、中国で暮らすことを、少しだけ覚えたつもりでいた。
家のテレビでは、よく戦争のドラマが流れていた。
兵隊の服を着た人たちが走って、誰かが怒鳴って、銃の音がして、建物が燃えていた。話の意味はわからなかった。ただ、ときどき、その中から「ばかやろう」という言葉だけが聞こえた。
その言葉だけはわかった。
中国語が少しずつわかるようになっても、その日本語だけは、聞こえるたびに変な感じがした。
けれど、小学校に上がる頃、その少し覚えたはずの世界は、また別のものになった。
近くに学校はあるのに、そこには行けないらしい。どうしてだめなのか、僕にはよくわからなかった。ただ、大人たちが困った顔をして、何度も話し合っていたことだけは覚えている。
そのあと僕たちは、母のいる家からずいぶん遠い学校へ行くことになった。学校には寮があって、僕たちはそこで暮らすことになった。
寮は、男の子と女の子で建物が分かれていた。
それを聞いた時、僕は少し驚いた。けれど、驚いただけだった。
昼間は同じ学校にいる。食堂で顔を見ることもある。休み時間に見つければ、少しは話せる。だから、夜だけ離れることが、そんなに大きなことだとは思っていなかった。
でも、その日の夜、僕はなかなか眠れなかった。
最初は、布団の匂いが違うからだと思った。隣のベッドの子が寝返りを打つ音が気になるからだとも思った。窓の外から聞こえる声が、家の外の声と違うからだと思い込んだ。
しばらくして、僕は自分の手が、何もないところを探していることに気づいた。
いつもなら、そこに未羽の手があった。未羽が僕の手を探していたのだと思っていた。眠る時、知らない場所にいる時、不安な時、未羽が僕の手を掴むのだと思っていた。
でも違った。
僕も、未羽の手がないと眠れなかった。
それに気づいた時、少しだけ変な気持ちになった。
僕はずっと、未羽の方が僕を必要としているのだと思っていた。
未羽が僕のそばに戻ってくるから、僕はそこにいる。
未羽が手を伸ばすから、僕はその手を取る。
そういうものだと思っていた。
でも、たぶん違った。
僕も、未羽が戻ってくることに安心していた。
眠る時に手を探されることも、知らない場所で服を掴まれることも、遊び疲れた未羽が隣に座ることも、全部、当たり前になっていた。
寮に入ってから、僕たちは昼間しか会えなくなった。
食堂で顔を見る。
廊下ですれ違う。
休み時間に少しだけ話す。
それだけで、前と同じように一緒にいるとは言えなかった。
未羽が女子寮でどうしていたのか、僕は知らない。
誰と同じ部屋だったのか、眠る前に何をしていたのか、困った時に誰に話しかけたのか、僕にはわからない。ただ、朝の食堂で会う未羽の、髪の結び方が日によって変わっているし、長い袖の巻き方が違っている事に気づいた。僕の知らない誰かが、未羽の近くにいるのだと思った。
僕の方にも、少しずつ未羽の知らないものが増えていった。
同じ部屋の子の名前。
先生に見つからない抜け道。
消灯のあと、小さな声で交わされる話。
未羽に話せばいいだけなのに、話さないまま増えていくものがあった。
同じ学校にいるのに、同じ場所で暮らしているわけではない。
同じ国にいるのに、同じ夜を過ごしているわけではない。
そのことを、僕は寮で初めて知った。
一年生の夏、僕たちは日本へ帰った。
瞬は、前と同じように僕たちのところへ走ってきた。中国のことを知らない顔で、普通に笑って、普通に遊んだ。
その無知に、僕は少し救われた。未羽もたぶん、そうだった。
久しぶりの家は、知っている匂いがした。瞬がいて、優斗がいて、言葉を考えなくても返事ができた。だから僕は、このまま日本にいるのだと思っていた。
八月の終わりが近づいた頃、母に聞かれた。
「日本にこのままいる? それとも、中国の小学校に戻る?」
僕は、すぐに日本と言った。母は頷いて、それから未羽を見た。未羽はすぐには返事をしなかった。
僕は、未羽も同じことを言うと思っていた。
だって、ずっとそうだった。
どこに行く時も、帰る時も、眠る時も、未羽は僕のそばに戻ってきた。
けれど未羽は、母を見て、小さな声で言った。
「中国」
母が少し驚いた顔をした。僕も、たぶん同じ顔をしていた。
どうして、とは聞けなかった。
未羽は僕を見なかった。
迷っていない顔ではなかった。
でも、間違えた顔でもなかった。
その時の未羽がどんな顔をしていたのか、僕は今でもはっきり覚えている。




