墓標の聖域
腐食の魔人の魔力がさらに強く放たれる。鋭いギザ歯を覗かせ、不敵に笑うその存在は人知を超えた冒涜的な魔力を放ち、触れたもの全てを腐敗させる。少しばかり削れている魔力も、それの圧倒的な身体能力の前では大きなアドバンテージとはならない。それだけ、魔人の力は強大であった。
智也は鋭い目でモルギドを睨む。モルギドはただ嘲笑うように笑うだけだった。
「前兆、すでに君以外の者は戦えない……ここまで持ちこたえた醜い覚悟も、もう終いにしよう。さあ、楽になれ。この私自ら、魂をあるべき場所へ返してやろう」
拳を強く握りしめる。みんなで戻るという誓いを、今度こそ、誰の失いたくないという信念を強く、強く、胸に刻み込み、魔人と対峙する。蒼い魔力の勢いは僅かに衰え、次第に深緑色の魔力に呑み込まれつつある。それでも、その蒼い魔力の輝きは変わらなかった。
「潔く大いなる循環に戻れ、私が優しく言っている今のうちだぞ?」
「……お断りだ。お前には、誰も殺させない!」
「……生にしがみつき、戻らない者の残滓にしがみつく……抗い、もがき、少しでも長く長くその栄華が続くようにといずれ終わりある時の中で必死になってもがく──汚らわしい。気味が悪い、なんという冒涜、なんという醜い執着。潔く朽ちろ、糧となれ。大いなる循環を否定し、回帰することを拒む醜い獣が……!」
モルギドは両の手を高く掲げた。
「 見よ、この星を、私の予見の通り、貴様らの拒絶が、この星を穢した。汚らわしい。汚らわしい。貴様らは害獣だ」
「……だから、殺すのか?」
「勘違いするな。殺すのではない……ただ、帰すのだ」
腐食の魔人モルギド、その存在は魔人の中でも異質であった。
かつてのモルギドは屍食教と呼ばれる宗教を起こした。現在では既に存在しないが、アルファスのいた千年前の時代に存在したその教団の教義は、自然のままに生き、天寿を真っ当するという思想を持ち、死を魂の回帰と定義し、死した者の血肉を糧として喰らうという、常人からすれば冒涜的なものであった。
そして、魂の帰る先、死した者達の墓標をつくるため、モルギドはとある魔術を生み出すに至った。
死した者の魂はいずれ消えて無くなる。しかしながら、モルギドの持つ死から蘇るほどの強大な魂の力と、魔術的な素質は世界の理すらも歪めるほどの魔術を生み出した。
「魂の終着点、それは虚無でしょう。しかし、虚無に帰ることは私の意に反する。魂とは永久不滅なもの、生の不浄から解放された清浄なる楽園で無ければならないのだ」
モルギドは掌の甲を合わせ、冒涜的な旋律を唱える。一節、一節唱えるごとに周囲の空気が淀み、震えるように大気が揺れ、腐敗臭が強まる。
(何か仕掛けてくる!)
智也は『空風』で間合いを詰め、蒼い魔力を込めた拳をモルギドの魔術式に叩き込んだ。
──その瞬間、藍色の閃光が弾け、智也の拳が砕けた。
(これは、ゾルデイラの反射の防御魔術のはず……)
智也の足元を何かが掴んだ、足元に目を落とすと、そこにいたのは醜い死に顔を浮かべた暗い藍色の影だった。影は智也の方を恨めしそうに見上げ、足を掴んでは離そうとしない。
咄嗟に、ノックスの方を智也は振り向く。
間違いなく、そこには首の切断されたゾルデイラの死体が転がっていた。
モルギドは鋭い牙を剥き出し、醜悪な笑みを浮かべる。
冒涜的な旋律はさらに不気味さを増し、空間に漂う淀みがさらに強くなる。
最後の一節が唱えられ、智也には最後に告げられたその言葉だけが聞こえた。
「墓標の聖域」
──その瞬間、世界が反転した。
地下室全体がまるで別世界に呑み込まれたかのように一変し、壁も何もかもが消え去り、灰色の空が覗く。コンクリートだった地面は色の無い土壌へと変わり、空気からも土からも生気を感じ取ることが出来ない。
生気の無いその世界に広がるのは寂れた無数の墓標。十字架であったり墓石であったり、それに統一感は無く、地平の果てまで墓標が並び広がっている。その世界はまるで、朽ち果て、生命の存在しない世界。死という概念そのものを封じ込めたかのような寂しい世界だった。
「魂の帰る地、そして、君たちが眠る場所だ」
直後、ノックスがその長剣をモルギドに向けて振るった。
躊躇いの無いその一撃には確かな殺意があり、紗由理ごとモルギドを殺すためのものだと智也ははっきりと感じ取れた。
「止めてくれ!」
智也は体当りしてノックスの剣の軌道を僅かに逸らした。
しかし、剣はモルギドに依然として直撃する。そういう軌道を描いていた。
ノックスは気づいた。剣を振るった時の異様な軽さに。
長剣の刀身は砕け、朽ち果てた剣はサラサラと塵となり、地面に降り積もった。
「確かに魔力を纏った一撃だった……それすらも、届かないとは……」
智也は知っていた。
この空間は、モルギドの世界、魂の内側であることを。
死が清浄となり、生が不浄となる反転した世界、この世界の内側では生きているもの全てが浄化され、死に近づく。死に抗う者、意思、それすらも浄化対象となるこの世界にあるのは永遠の安息。魂が永劫に囚われ、二度と外に出ることが許されない。
死したゾルデイラの魂もまたこの世界に囚われ、その狭間でのみ男は顕現したのだ。
果てのない地に、新たに一つ墓標が生まれる。
「フォルジェイド……貴方の献身は、この墓標の中に深く、深く、刻み込みましょう」
ハエの姿となり、長い時を主の復活に捧げた彼の者の墓標をモルギドは優しくさする。
慈悲深い眼差しを向けるその姿には、先程までの生への執着を嫌悪するおぞましさは無く、回帰した魂に対して向けられる美しい慈愛さえ感じさせる。
「少し、気が乱れていたか……」
慈悲深い深緑色の瞳が智也に向けられる。
智也はそれがかえって恐ろしく感じられた。
「生へのしがらみ、それは人にとって捨てきれないもの……こうして復活を果たした私すらも、それには抗えないのかもしれない。ゆえに──静かな回帰を迎えよう」
──智也とノックスの肉体が急速に朽ち果てていく。
全身から生気が抜けていき、肉が縮み、魔力さえ喪失していく。
「この空間において、命あるものは邪悪、ゆえに、浄化されるのです」
「生きようとするのが、悪だと……?」
「そのとおりです。さあ、死して帰りなさい。清浄なる地へと」
深緑色の極光のような美しい光が周囲を優しく包み込む。冷たいこの光は慈悲深く穏やかな死を誘う。痛み
は無い、苦しみも無い。ただ、喪失だけが胸を抉る。
「死んで、たまるか……」
「それもまた、醜いながらも純粋な願い……しかし、無意味なこと」
モルギドは天女のような微笑みを浮かべ、慈愛に満ちた眼差しを向ける。
それでも、智也はその眼差しを否定するかのように睨み返した。
「無意味、なんかじゃない……お前は、抗うことが醜いと言った……でも、それは違う……!」
彼はいまでも夢に見る、世界が終わったあの日のことを。
あの時誓った決意を。
どんな理不尽にも立ち向かう覚悟を。
「抗って、抗って、どんな理不尽とも戦って、最期に、自分にとって最高の結末を迎えるのが、僕の人生だ…………抗わなかったら、何も掴めない。大事な親友の命も、大切な人の尊厳も、だから、諦めない!!」
ボロボロな体、しかし、その迫力は衰えない。
強く、決意の籠もった瞳には別の世界で失った大切なものを背負った信念が宿っている。
「その心は尊ぶべきか……しかし、醜い」
「醜くて結構だ、綺麗に何か成し遂げられるほど、僕は強く無い。諦めかけて、それでも、立ち上がる理由を思い出して、奮い立つんだ!」
モルギドが僅かに眉間にシワを寄せた。
「ならば、潔く、聖域にて眠りなさい」
深緑色の極光がモルギドの頭上に集まり、そして放たれた。清浄なる死の力が込められたその膨大な魔力の光は希望のような光を放つ絶望であった。
智也は僅かに口角をあげた。
「お前の世界では、お前に勝てない。だから、逃げさせてもらう」
ノックスの手を掴み、智也は「時空風」と力強く唱える。深緑色をかき消すような蒼い魔力が一瞬放たれた瞬間、智也たちの姿は消えて無くなっていた。
◇
再び、智也とノックスは姿を表した。
そこは元の世界、地下室の中だった。
智也とノックスは激しく咳き込み、地面に膝をついた。
「どうやって、あの空間から逃げ出したんですか?」
「僕の魔力は空間に干渉出来る、だから話しながら時間を稼いで位相を解析して、空間転移を使ってあの世界から脱出した」
それは、紗由理の行方を追っていた時に使用した魔術の応用だった。
「聖域から逃げ出すとは、なんという冒涜か」
再び、地下室の中に深緑色の魔力が満ちた。モルギドは怒りに震える声を発する。
「先ほど君は、魔人を傷つけるのを止めようとしましたが、いったいどうする気ですか? 既にあれは人間とは別の存在ですよ。今すぐにでも、殺さなければ、多くの犠牲者が出る……君の大切な人が、大勢の罪無き人を殺すかもしれないと、わかっているんですか?」
ノックスは普段よりも強い口調だった。
「……僕は、犠牲が少ない方がいい」
「なら」
「だから、紗由理さんも、全員救う!」
ノックスは眉尻を上げ、智也の胸ぐらを掴み上げ、顔を近づけた。
「あれがどれほど危険かは、貴方も身を持ってわかっているはずだ」
「考えは、ある……でも、成功率はほとんど無い。だから、協力して欲しい」
智也の真っ直ぐな瞳が、ノックスの瞳を貫いた。
ゆっくりと、胸ぐらから手を離す。
「……策とは、何ですか?」
智也に唯一あった策、魂に干渉し、紗由理の意識を目覚めさせる方法、それは、奇しくも彼の人生において恐怖を象徴するものを利用するものであった。
【眼】の瞳孔、その奥を覗き込むことで、魂が繋がり、精神が干渉し合う現象、師である朝霧はこれを「アイ・リンク」と呼んでいた──
第20話のネタをついに使うときが来た……




