子犬騒動
ルオンは庁舎から帰ってきて、宿舎の自室でずっと窓の外を見つめていた。都のイスファルでもこんなにたくさんの緑を目にすることはない。遠い遠い山の先はカルデミナ帝国があるという。
生まれてからこれまで都からこれほど離れたことはない。それなのに、この先にもずっとずっと世界は広がっていて、そこには国があって人が暮らしている。
『世界は広く、果てしなく続いている』
そう、改めて感じた。ルオンは思わずため息をつくと、窓のガラスが白く曇った。するとハクが部屋に入ってきた。
「お疲れでございましょう、殿下。ミルクティーなどいかがですか」
「いや、疲れたわけではないのだ。ただ、こうして外を眺めていると、自分の存在の小ささをちょっと感じたというか…」
ハクは小さく微笑んで、ルオンの側に片膝をついた。
「確かにこの世界にたった一人ではそう感じられるかもしれません。ですが、ここには私と殿下がおります。私の世界では殿下は何よりも大切な御方です」
「…私もそなたを大事に思ってるぞ」
「はい。ですから世界とは広くもあり、またその中の一つ一つの存在は尊く愛深きものなのだと思います」
ルオンはそれを聞いて、ハクから顔を背けた。その頬は真っ赤に染まっている。
「ハク、そなた恥ずかしくはないのか?」
「そうでございますねぇ。私は好きなものは好きと、嫌いなものは嫌いと口にする人間でございますから、そこに恥ずかしさというものはありませんね」
平然とそう答えるハクに、ルオンはミルクティーを口にしながら言った。
「そういえば、そなたもナフカも似ているな。ナフカは父上が好きだって言うのが目に見えてわかる」
「確かに、あの方はわかりやすいですから」
「ナフカとは長い付き合いなのだろう?」
「ええ。恩人、いや家族のように思っています」
「いつか聞かせてくれ。お前たちのこと。今聞いてもいいが、もう少し大人になってから聞きたい」
「はい、時が来たならばお話いたしましょう」
すると、ルオンが飲みかけのカップをハクに戻した。
「殿下?」
「ハク、そこの茂みがずっと動いているのだ」
ハクも窓にくっついてルオンの指す茂みに目をやった。確かに何か生き物がいるようである。
その時だった。
「あっ!」
茂みから真っ白な毛並みの犬が現れた。だが、その足取りはどこか不自然である。
「ハク、あれは怪我をしているのではないか?」
「…言われてみれば確かに」
「ハク、外に出るぞ!来い!」
「お、お待ちください殿下!危険です!」
もし野犬であれば襲ってくるかもしれない。万一、このような辺境で犬に噛まれでもしたら、万全な治療など行えるかも怪しい。また、あの犬が追われる身だとすれば、怪我をさせた獣が側にいるかもしれない。
「お待ちください、殿下!」
ハクは叫びながらルオンを追う。途中出会った兵にも声をかけて共に追わせた。
「殿下!」
ハクはルオンを後ろから抱きとめた。
「離せ、ハク!」
「危険でございます。殿下、なぜ飛び出して行かれるのです。あの犬が怪我をしているかもしれぬのはわかりますが、御身のこともお考えください!」
ハクの語気は強く放たれた。すると、ルオンはムキになって言った。
「だが、私達が気づかねばあの者はあのまま傷ついているのだぞ!助けられる人間がいるのに自分の身を案じろと言うのか!」
ハクは一度発しようとした言葉を失った。そして無言でルオンに視線を向ける。その視線はルオンの体を一瞬で硬直させた。
「…っ、なんだ」
「ここでお待ちください。私があの犬を連れてきます」
そうして抱きとめていたルオンを兵に託す。
「お前達、殿下を見ていてくれ」
「はっ…はい!」
ハクはそう言って、宿舎の裏に回った。
「何事だ」
宿舎からナフカが出てきて状況を確認した。
「はっ。それがどうやら犬が関係しているようでして」
「犬?」
ナフカは状況を聞こうとルオンに目をやった。だが、目にいっぱいの涙を溜めたルオンはこう言った。
「わかっているのだ。わかっているけど…っ!なんで怒らせなきゃいけないんだ!っぐ…ひっく…」
そう言ってぼろぼろと泣き出すので、聞き出せることはなさそうだった。ナフカはひとまず兵に剣を借りた。
「お前達、殿下を宿舎の前にまでお連れしろ。それから、一部隊は私についてきてくれ」
「はっ」
そうしてハクの向かった宿舎の裏へナフカも向かった。
宿舎の裏へ回ったハクは、その怪我をした犬を見つけて近寄った。
「おい、大丈夫か?」
もちろん返事があるわけではないが、見たところどうやら前足を切っているらしい。白い毛が赤く染まっていた。
「…手当をしてやる。お前を連れて行くからしばらくの辛抱だ」
そうしてハクは犬を抱えた。窓から見たところ大きさはわからなかったが、実際はまだ子犬で、腕に簡単に抱きかかえることができた。
「クゥン!」
抱き上げたときに足に痛みが走ったらしい。子犬は叫んだ。
「痛いよな、だがもう少し待て」
そうしてハクは傷口に触れないように子犬を抱きしめ、立ち上がった。
その時、子犬が吠えた。それと同時に茂みがざわざわと音を立てる。何か来る!そう感じたときだった。
現れたのは大きな熊だった。体長はゆうにハクの身長を超える。その手に光る爪がなんとも目立っていた。爪から滴るそれに気がついたとき、腕に痛みが走った。服が裂け、脚の肉が抉れて見えている。
「ちぃっ!」
あまりの速さに気づかなかった。
もしかすると、この熊はずっとこの子犬を狙っていたのかもしれない。伺う機会を見計らっていたら、ハクがこの犬に触れたゆえに獲物を取られたと思って怒っているのだろう。
「くそっ、面倒な!」
やはりルオンを留めてよかったという安堵と、完全に怒りの矛先を向けられているこの状況をどうにかしようにも、剣で戦える相手ともわからない不安に駆られていた。無闇に動けば、きっと力を前にねじ伏せられるだけだろう。
子犬の震えが伝わってくる。
「一緒に餌になるわけにはいかないんだ!」
ハクは、ひとまず剣を抜いた。どう戦うか、そう迷っていたときだった。
「ハク!!」
「ハク様!!」
ナフカと兵たちがやってきた。そして目の前の熊に一同は驚く。
「主!どうしたらいいですか!!」
「山へ返したいが、難しいだろう!」
「…そうですね、山を走り回ることは得意ですよ。だけど完全にロックオンされてますからね」
「殺るしかないのか…」
すると部隊の一人が他の隊も呼んできたらしい。
「弓隊準備できました!」
「槍隊準備できました!」
兵達はナフカに言う。
そうとはいえハクの安全が計れない今、迂闊に攻撃するのが正しいのかナフカはわからずにいた。
すると宿舎の主が慌てて駆けつけてきた。この異変に気づいたのだろう。
「みなさん、これを鏃に塗ってください。これはどんな獣も一撃で眠る薬です」
ナフカはそれを受け取ると兵に渡す。
「よし、弓隊準備だ」
「はっ」
依然として熊とハクの膠着状態は続いている。それもいつ崩れるかわからない。
鏃に薬を塗って部隊隊長が前に出る。
「弓隊急げ!」
その時、熊が動き始めた。向けられた爪をハクは交わして地面に転がる。動き始めてしまったゆえに、熊を狙うのが難しくなった。下手をすれば、ハクに当たってしまう。
「これではハク様も危険です!」
兵長が叫ぶとハクが叫んだ。
「主!気にせず射てください!早くしないともたない!」
「…わかった」
ナフカは兵長に言う。
「背中を向けた瞬間に射かけろ。最悪、ハクは俺がどうにかする」
そして兵長はその時期を見計らった。ナフカは手に剣を握る。
「…放て!」
その声と同時に矢が空を切り、ナフカが走り出した。矢が熊に刺さる。熊は一時硬直し、そしてハクに向かって倒れてくる。
ナフカは剣を捨てて、ハクをそこから引きずり出した。その細腕からどんな力を持って引きずれたのか、疑問に思うほど見事な速さであった。
「ハク!」
「…主、すいません。ご迷惑をおかけしました。殿下は?」
「宿舎にお連れした。その傷…酷いな。痛むだろう」
「慣れっこですよ。それより、この犬を殿下に。お気にかけていらっしゃったので」
「馬鹿を言え。止血が先だ」
ナフカは、衣服を破ってハクの脚を縛った。
「…っ!」
それから小犬を預かると、怪我の様子を見て小犬を撫でた。
「この足で逃げるのは大変だったろう。こっちにも手当が必要だな」
ハクは兵に運ばれ、子犬はナフカに抱えられて運ばれた。
宿舎の入り口では話を聞いたルオンがさらに涙を溜めて待っていた。
「ハク…ハク!!」
「問題ありません、殿下。かすり傷ですよ」
「嘘を言うな、そんなに血が出ているではないか!早く医務官を呼んで手当をしてもらうのだ!」
「はい」
兵に連れて行かれるハクを見送るルオンにナフカは言った。
「それでは殿下はこちらを手伝っていただきましょうか」
「わかった」
ルオンの部屋に犬は連れて来られると、ずっとルオンの腕の中で震えていた。ナフカは水と付近とはさみ、それから薬を用意するとやってきた。
「なかなか大きな傷です。泥や汚れを拭って、その周りの毛は少し切りましょう。衛生的に悪いですから」
「わかった」
「それでは泥を拭ってください」
ルオンは、震える子犬を抱きながら泥を拭った。痛がって泣く子犬を見ながら、ハクを想う。
「ナフカ」
「はい」
「私は今日、軽率だったと思う」
「…」
「私はもっと、私の言葉の影響を考えるべきだったのだ」
「…」
ナフカは、沈黙していた。その沈黙は何を意味するのか、ルオンは泥を拭いながら考えていた。
「ナフカ、こんな感じか?」
泥を拭い終えるとルオンは尋ねる。
「ええ。あとはお任せを。周りの毛を少し切って薬を塗れば…あとは包帯を巻けば終わりです。巻き方はこう…。これからは殿下が薬を塗って包帯を替えてください」
「わかった」
「それから先程のことですが」
ナフカはルオンに向き直って言った。
「少なくとも一つの命を救うことができたのです。殿下が動かなければ、ハクも兵達もあそこまでこの犬を守ることはしなかったかもしれない。その点、良かったのではないでしょうか。世の中は『何が正しいのか』ですべてを測ることはできません。人の価値観、考え方は違いますでしょうから」
「…」
「子犬の手当が済めば、お父上のもとに来るようにとのご命令です。その子犬も連れて参りましょう」
「…わかった」
ナフカはルオンとともにシウォンの居室へ向かった。
「シウォン様、ルオン殿下をお連れしました」
「入れ」
部屋は異様な緊張感が漂っていた。シウォンの隣にはリヨルもいる。二人とも厳しい表情をしていた。
「ルオン、そこに座りなさい」
リヨルは言った。
「ことの詳細は聞きました。その犬が怪我をしているのを見て、お前は部屋を飛び出したそうね。ハクはお前を留めて犬の元へ向かい、熊に襲われたと」
「はい、その通りです」
「お前に万一のことがあったら、周りの者は責任を取らなくてはならないのです。ハクはもちろん、外を守る兵士達も同様に罰が下るでしょう。今回の騒動をそもそも止められなかった件で、ハクには責任を追求する必要があるでしょう。お前はイスファターナの皇族で、皇太子殿下の御子であることをもっと自覚なさい!」
ルオンは地面に膝をついて言った。
「ハクは何も悪くないのです。すべて私が悪いのです。父上、母上、どうかハクに罰を課さないでください!」
シウォンはリヨルに落ち着くように言うと、ルオンに言った。
「ルオン、お前はいつもお前の置かれている状況を当たり前だと思ってはいけない。お茶が飲みたいといえば茶が出され、あれが欲しいといえば与えられる。それを当然の権利だと思ってはいけない」
「はい」
「人というのは置かれた環境に慣れてしまうと、周りの感謝や恩恵に盲目となってしまう。命令をできる代わりに私達はこの国のすべての命に責任を持たなくてはならない。ここは宮殿じゃない。お前が外に出ようとすれば側近は常にお前の身の安全を考える。お前に危険があれば身を呈して守る。私達の行動よって怪我をしたり、命を落としたりする可能性を常に考えて行動しなくてはならないわけだ」
「はい」
「ルオン、改めて尋ねよう。部屋を飛び出したお前の行動は果たしてその責任を果たせていたと思うか?」
ルオンは自分の至らなさに情けなくなっていた。
「いいえ…いいえ!」
言い表せない悔しさが込み上げてくる。固く握られた両の手はじわじわと汗が滲んでいた。
「そうだな。お前の行動は皆が見ている。二度同じことが続けば、次は本当にハクに側近として責任を取らせなくてはならなくなるぞ。わかったな」
「はい」
「それからもう一つ。お前は悪くないと、とある者から進言があった。その者は脚を針で二十以上縫うほどの怪我を負ったが、怪我は自分の未熟さによるものゆえ、お前を責めないでくれと言ってきた。さらにその子犬の命を救えたのはお前の行動によるものだから、その尊い行いを評価されるべきだと進言した」
「……ハク」
ルオンは涙で目にいっぱいにした。
「責任や使命を持つことでその重圧を感じながら生きなくてはならない。それは孤独に近いものがある。だから側近とは一心同体の繋がりで生きているのだ。お前の示す道についていきたいと思う者を大事にしろ。そして諫言を蔑ろにはしてはいけない。お前をこの様に評価するハクにお前は何を返せるだろうな、ルオン」
ナフカやキシュはその言葉に微笑んだ。
「いずれにせよ、今回のことはお前に責任がある。その子犬とハクの世話はお前の役目にする。どちらも全快するまでお前がしっかり面倒をみるように。わかったな」
「はい、父上。お言葉胸に刻みましてございます」
「ナフカ、すまないが力になってやってくれ」
「はい」
「さて、リヨル。母として心配するのもわかるがこの様なところでどうだ?」
リヨルは大きく頷いた。
「ルオン、役目をしっかり果たしなさい。わかりましたね?」
「はい、母上」
ルオンはその足でナフカと共にハクの休む部屋へと向かった。ハクは寝台の上で眠っている。
「これは殿下」
医務官はルオンを見るや立ち上がって頭を下げた。
「ハクの様子はどうだ?針で傷を縫ったと聞いた」
「ええ、傷はかなり深かったです。ハク殿は武官ということもあり、傷の修復には縫う方が良いかと思いました。今は治療のために用いた麻酔で眠っております。しかし、獣の傷は病に侵されることが多いのです。今夜あたり熱や何かしらの症状が出るでしょう」
「そうか、それでその症状はハクの命には関わらぬのか?」
「…それは何とも言えませぬ。獣の病は時の運でございます。薬を用いても体がそれに耐えられるかは、私にもわかりません」
ルオンはナフカを見た。ナフカも頷く。ルオンは再び目に涙を溜めていた。そしてハクの手をそっと握ると、その手は恐ろしく熱かった。
「…熱いな」
「氷嚢を持ってまいりましょう。少しお待ちを」
ナフカが動こうとすると、ルオンがナフカの手を引っ張った。
「殿下?」
「そなたにも謝らなくてはな。ハクを怪我させてしまってすまなかった」
「…」
「ハクはそなたを家族だと言っていた。そなたにとってもハクは大切だろう。私が至らないがゆえに、ハクは命の危機に立たされることとなった。本当にごめんなさい」
ナフカは掴まれたその手をぎゅっと握り返した。
「家族…。そうですか、ハクがそう言っていたのですね」
「そうだ」
「殿下、どうかご自分が何のために行動を取られたのかをお忘れにならないでください。結果として、ハクは怪我をしましたが、殿下の思いに応えたいというのが臣下の心というものです。今後、殿下はそのお立場をこれまで以上に考えていただかなくてはなりませんが、殿下が人としての思いやりの手を伸ばしたいときは、このハクが、殿下の手足となって動くでしょう」
ナフカは笑みを浮かべた。
「ハクとは幼い頃からの古い付き合いです。家族というか、それ以上にお互いに頼って私達は生きて参りました。だから、誰よりもハクのことはわかっているつもりです。ご心配なく。ハクは必ず目を覚まします。必ずです」
揺るがない自信がナフカにはあった。根拠はない。しかし、ナフカの中ではハクが戻らないかもしれない未来よりも、ハクと共に作る未来がより鮮明に描かれていた。
ハクへの絶対的な信頼をナフカに感じたルオンは、その関係に少し嫉妬した。幼いルオンが明確に感情として理解したわけではないが、憧れのようなものを抱いたのである。
秘境での視察は、ルオンを皇族として成長させた。幼くはあるが、ルオンはその身が抱えるものに触れ始めたのである。そしてそれはとてつもなく巨大であった。しかし、そこへ向かう不安はそれほど大きくはない。今の彼はその内の中で、皇族として歩みだす勇気が一つ、また一つと火をつけ始めていた。
次回もお楽しみに!




