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イスファターナ戦記  作者: 結月詩音
六章 渦中
66/125

すべてを手にする覚悟

前話(五十六話)が少し改稿されております。


 リヨルの部屋ではナチによる診察が行われていた。シウォンは部屋の外で診察が終わるのを待っていたが、そのシウォンにはいつもの落ち着きは見られない。それはナフカとキシュも同じであった。

 刻々と時間が過ぎていく。シウォンは立ち上がったり、用意された椅子に座ったりを繰り返す。

 ナチが部屋から出てきたのは一時間ほど後のことだった。ナチは弟子にしたアイジェス宛のメモを兵に渡す。

 

 「ナチ、リヨルの容態は!」

 

 シウォンはナチに迫る。

 

 「落ち着かれませ、殿下。妃殿下は今、お休みになっておられます」

 「…それで、容態は?」

 「ある意味で重く、ある意味で喜ばしいことですな」

 

 ナチの言葉を理解するのには時間がかかった。ナチは普段、仮面のように変わらない表情に笑みを浮かべた。

 

 「おめでとうございます、殿下。妃殿下は身籠られたようです。今回気分を害されたのは、まさにその兆候かと思われます」

 

 それを聞いたシウォンは膝から崩れ落ちた。慌ててナフカとキシュが支える。

 

 「…リヨルが…身籠っただと?」

 

 僅かにシウォンの肩が震えた。

 

 「殿下?」

 

 ナフカが声をかけると、床にはたはたと水滴がこぼれた。シウォンは涙を流していたのである。

 

 「殿下、おめでとうございます」

 

 キシュが言った。

 

 「おめでとうございます」

 

 ナフカも続けて言う。

 

 「ああ…ありがとう。本当に…本当なんだよな。信じられないほどに…こんなにも…!」

 

 シウォンの涙は止まる様子を見せなかった。シウォンはナチから今後の説明を軽く受けると、リヨルの眠る部屋へ入っていった。

 寝台にはリヨルが眠っている。それを見つめていると、側に仕えるシハルとルシアがシウォンにお祝いを述べた。

 

 「ありがとう。二人とも、今後はリヨルの支えになってくれ」

 「はい。誠心誠意お仕えさせていただきます」

 

 シウォンはリヨルの側でリヨルの顔を見つめていた。

 家族というものがどういうものであるのか。幼いときに母を亡くし、父との関係は帝と皇太子にほかならない。家族とはどういったものなのか、本当の意味でわかっていないのかもしれない。

 シウォンはふとそう思った。だけど、一つだけはっきりしていることがある。それはリヨルとお腹の子はシウォンが守るべき大切な存在であるということである。

 これから皇妃シシル達との関係は激化していく。子どもができたとなれば、リフキアを帝位にと望むシシル達の目がリヨルとお腹の子に向くことはあり得ない話ではない。守れるのは自分一人だけ。

 守るべき存在ができた―というのは、それだけでシウォンを奮い立たせた。

 

 (…すまない、リフキア)

 

 ふと、そういう感情が生まれた。守るためには戦うしかない。守るためにリフキアの家族を壊すことになる。

 覚悟が必要であった。大切なもののために大切なものを失わなくてはならない。

 そう考えていると、部屋の戸がノックされた。

 

 「入るぞ、シウォン」

 

 シウォンは部屋に入ってきた相手を見て立ち上がった。

 

 「何だ?私が入ってきたことにそんなに驚くこともないだろう」

 

 アドロフ三世、現イスファターナ帝はやって来るとシウォンに座るように促した。おそらくナフカが帝に知らせたのだろう。いずれ報告に行くつもりであったが、帝の方が動いてくるとは思わなかった。

 

 「まずはおめでとうと言おうか、シウォン」

 「ありがとうございます」

 「私にも孫ができるのか。お祖父様と呼ばれるのだなぁ」

 「…感傷に浸っていないで本題に入ってください。何か御用がおありなのでしょう」

 

 帝は少しシウォンをからかうように言った。

 

 「別に用があるわけではないが、息子が父親になった顔を見に来ようと思ってな」

 「…特に面白いものでは無かったでしょう」

 「お前の困り顔を見るのもたまには愉快なものだなと思っているさ」

 

 シウォンは首をかしげた。

 

 「いつになく困ってる様子に見えるぞ?切り捨てるものと手にするものの区別は学ばせてきたつもりだったが」

 「…何をおっしゃっておられるのです?」

 

 帝は言った。

 

 「そろそろ皇妃とカトレシア家は動き始めるかな。本格的にお前を潰しに来るだろう」

 「…でしょうね」

 「お前には二つのものがのし掛かっているな。自分の道と大切にしたいものと。上に立つものが迷っていてどうする。その迷いはお前に従う者達に伝わり、混乱を招く」

 「では、どちらかを切り捨てろと?」

 

 シウォンは立ち上がった。

 

 「犠牲はつきものだとおっしゃるのですか」

 「そうは言っていない。お前はそれをうまく扱えていないと言っているのだ。リフキアのことに関しても」

 「リフキア…妃選びのことですか」

 「確かにあいつ自身のことだ。だが、果たしてそれだけか?」

 「…」

 

 帝はシウォンの心の内をすべて知っているというかのように核心をついた言葉を放った。

 

 「リフキアはお前にとって兄弟以前に手にした駒のひとつ。そうじゃなかったのか」

 

 手にした駒というその響きがよりシウォンの心を抉っていく。

 

 「皇妃と戦うにあたってリフキアはお前に必要な手駒であったはず。だが、お前はそれを使うことに躊躇いがある。実の母と争わせるのは気が引けるか」

 「何を!」

 「実際そうだろう。お前は妃選びのことに関してリフキアに何の指示も出さなかった。リフキアに選択の自由を与えたわけだな。お前は見て見ぬふりをすることでそこに関する責任を逃れようとしている。だが、ダナフォート以外の家を選べばあいつが使い物にならなくなるとは思わないのか。リフキアを闇に屠るつもりか」

 

 帝の目は厳しくシウォンに向けられた。シウォンは言葉を失う。今の帝の表情は、シヴァが亡くなったときにシウォンが一度だけ目にした表情。何かに対する沸点を超えた怒りと悲しみとが、音もなくシウォンに浴びせられていた。

 

 「もし、ダナフォートにリフキアを守れと命じても妃を選ぶのはリフキアだ。お前が判断をしないことで起きる一時のすれ違いが、大きな誤りになることを知らないわけではないだろう」

 「…父上、リフキアに関して迷いがあったのは認めます。あいつに母を切り捨てさせる、その判断を私がしたことでリフキアは苦しむと思いました。」

 「それが甘いと言うのだ、シウォン。所詮、お前が皇太子であるということをそのまま表している」

 「!」

 

 シウォンは帝の視線から逃げたくなった。おそらくこの父にはシウォンの考えていることすべてが理解できているのだろうと完全に悟ったからである。

 

 「…そのままでは他のものも失うぞ、シウォン。私がシヴァを失ったときのように」

 「…母上?それはどういうことです」

 「お前が生まれたのは先帝が亡くなられる一ヶ月前のことだ。思えばシヴァは、お前を身籠る前からイスファターナ貴族でないため皇妃に相応しくないという者達と戦ってきた。身籠ってそれは一層厳しいものになっただろう。私は亡き兄の意思を継ぐというその道のためにシヴァを守りきれなかった。なぜなら皇太子であった私は側室を迎えるという流れに逆らえずシシルを迎え、結果としてシヴァをより苦しめたのだから」

 「…」

 

 ふと、シウォンは亡き母の姿を頭に浮かべていた。シヴァが亡くなるときは、今思えば不思議なほどに衰弱しきっていた。とても元気な人だったのに突然の病にかかった。

 シウォンは全身が寒気だつようなそんな思考に辿り着く。

 

 「…帝、母上は本当に病で亡くなったのですか」

 

 それに答えた帝の声は異常に冷たかった。

 

 「それを知ってお前はどうする?」

 

 シウォンの体の先に至るまで凍てつくような冷たさが部屋を覆った。

 

 「もはや過ぎたこと…蒸し返して復讐でもするつもりか?それこそ愚者の道。帝になろうとする人間がそのようでどうする」

 「…いえ、復讐は考えません。お忘れください。ただ、そう思っただけでございます」

 

 帝はその答えに嫌みな笑みを浮かべた。

 

 「フッ…それで?お前は妃と子どもをどうするのだ。リフキアをどうするのだ」

 「…それは」

 「そのままではやがてナフカとキシュも失うか。彼らは二人とも平民の出だ。いずれとやかく物申すものも出てきておかしくない。その時お前は二人を解雇するか?」

 「致しません!」

 

 シウォンは思わず叫んでいた。外に控えるナフカやキシュも聴こえるほどの声で。

 

 「…どうやらお前にはまだ足りないものがある。大切なものを守るための術、いつかその答えを聞かせてもらうことにしよう」

 

 帝はそう言って部屋を出ていった。残されたシウォンは力を失ったかのように椅子に腰を下ろした。

 足りないものとは何か。帝となるための努力はし続けてきた。それでもまだ何が足りない?

 

 帝が去ったと同時にナフカとキシュが入ってきた。

 

 「シウォン…」

 

 ナフカが声をかけるとシウォンはゆっくりと顔をあげた。

 

 「ナフカ。お前は見えているのか。すべてを手にするために何を失えばよい?」

 

 その問いにナフカとキシュは驚いた。しかし、ナフカは問われてすぐ冷静に答えた。

 

 「…その問いが間違っている。正しくはすべてを手にするために何を利用し、どう繋げるかだ」

 「…」

 

 シウォンは目でナフカにその意味を尋ねる。

 

 「簡単に例を出すなら、シウォンの命の危機のとき、シウォンを逃がすために俺はキシュにシウォンを逃がさせる。俺は敵を足止めする。これがものの運用だ」

 「…ナフカ、それは」

 

 キシュが怪訝そうに言った。

 

 「今のはあくまで例にすぎないが、単純に考えてシウォンを守るというひとつにおいては、今以上の対策はないだろう。つまり、お前が帝となるその道のためにベスト(best)の道をとるかベター(better)な道をとるか。この二つがある」

 

 ナフカのまるで戦術のような説明は続いた。

 

 「ベストは今の例だとすると、ベターはあらかじめそうなることを想定した打開策を持っておくことだ。今回の場合はベターな道でしか切り抜けられない。リフキア殿下の立場をうまく利用することに道があると俺は考えている。シウォン、お前が帝となるためのベストとベターの道。どちらもお前はわかるか?」

 「…ベストはリフキアを切り捨てること。それが俺が帝となるための直結する解決策だな」

 「ベターなら?」

 「…いずれリフキアが復活する機会を待つ。それまで遠ざける…か」

 

 ナフカは頷いた。

 

 「政策において帝の下す決定事項は必ずベストでなくてはならない。ベターであればその隙を狙うものに世の中を乱される恐れがある。そのために本当に何かを失わなくてはならないこともあるだろう。だが、今はその時じゃない。ベターを選択したときに必要なのはいかに報いることができるか。そこに尽きる」

 

 シウォンは立ち上がってため息をついた。

 

 「…時としての非情な選択か。なるほど、これはだいぶくるものがある」

 

 そう言ったシウォンはかつてシヴァに言われたことを思い出していた。

 それはシヴァが亡くなる数日前の話である。

 

 「シウォン、本当に帝となるというのは変わらないの?」

 「はい。変わりません」

 

 そう言ったとき、シヴァの表情は少しだけ迷いを含んでいた。でも、何かシヴァのなかで決心されたようで、次にシヴァはこう言ったのである。

 

 「シウォン、帝になることはあなたにとって辛い道、孤独で非情にならざるを得ない道を行くことになる。今はその意味がわからなくても、いずれわかります。その時のためにシウォン、側に置く人間はあなたが信頼できる人間を置きなさい。貴族だけに関わらず、どんな人間でも側に置ける器量を持ちなさい。些細なことなら許せる寛容な心を持ちなさい。あなたが帝という重みに耐える助けにきっとなってくれるでしょう」

 

 孤独で非情な道とはシヴァ自身がアドロフ三世を見ていて思ったことなのだろう。

 あのときの言葉の意味を理解したシウォンは、その瞬間目を据えてナフカとキシュに言った。

 

 「…キシュ、帝とリフキアに明日訪れるという連絡を。ナフカ、詳細を話すから急いで資料を作ってくれ。あとハクにラドファタスの現状について報告させてくれ」

 

 すると、どこからか「承知いたしました」という声がする。シウォンは小さく笑って言った。

 

 「では、頼んだぞ」

 「はっ!」

 

 シウォンは眠るリヨルを見て覚悟を胸に刻む。

 帝の座を手にするために集められた歯車は、今ここに組み合わされ、動き始めた。

 イスファターナにおける戦いはここに幕を開けたのである。

次話はもうしばらくお待ち下さい

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