仮面
お待たせしました!
夜が明けて昼になった頃、昼食をとるイスファターナ帝アドロフ三世はシュワームに言った。
「シュワーム、何か私に言いたいことがあるか」
「…」
帝はからかうような口調でシュワームに言った。
シュワームは明け方にナフカと話していたことを帝に話す機会をずっと探していたのだが、こういう時に限ってこなさなくてはならない政務が多く、話せずにいた。どうやらそれを気づかれていたようで、シュワームは自分を反省するのであった。
「申し訳ありません。お気を遣わせてしまいました」
「謝ることはない。私が楽しいだけだからな」
帝はナイフとフォークを置く。
「それで?お前がそんなに気に病むことならよほど深刻か手が出しづらい案件だろう。もったいぶられても困るから話してくれないか」
「はい。では…」
シュワームは少しだけ帝の様子をうかがいながら話し始めた。
「昨日皇太子殿下の宮殿にて刺客が現れた件について…これは杞憂に過ぎることを願うのですが、お伝えすべきか迷っておりました」
「ふむ」
「その折にてナフカは刺客と接触しておりました。どうやら皇太子殿下との取引のために言うことを聞けと脅されたようです。そこでナフカは色々と刺客から聞き出したところ…、恐らく連中がしようとしていた取引の内容は皇太子殿下にその位をリフキア殿下に譲るように、とのものであろうとのことです」
シュワームが言い終えると帝はさすがにしばらく黙っていた。そしてしばらく後に帝は尋ね返す。
「つまりこの件には皇妃、そしてカトレシア家が関わっているとお前は言いたいのだな、シュワーム」
「…左様でございます」
帝はただ笑った。それはシュワームには予想していなかったことであった。やがて帝はシュワームを試すような目で見ながら言った。
「シュワーム」
「…はい」
「私はお前の仕事に何か手違いがあった、ということをこれまでに一度も経験していない。それだけお前は信用に足る」
「もったいないお言葉です」
「ふむ」
いつもその空気に緊張を纏っている帝はその瞬間、まだ帝となる前のアドロフ三世の面影を見せた。
「信用して間違いのないお前と、長く連れ添ってきた皇妃と、私は選ばなくてはならないというわけか」
人であることを優先できない立場が帝であるなら、人としての幸せから最も遠いのが帝であることになる。絶対的地位と引き換えに得るものは一体何なのか、その答えを出せた人間は未だ存在しない。
帝の表情には寂しさが描かれていた。
「…帝」
「悪いな、シュワーム。お前もこの件を私に伝えるのに相当気を遣わせた。私は気付きたくなくて目を反らしていたのだろうな。血の繋がりはないとはいえ、仮にも同じ皇族に生きるのであれば手を取り合ってほしかった。そんな甘い夢を見続けていたからこそ、取り返しのつかない事態を招かせた。だが、考えてみれば歴史の中で帝位を争わなかったことなど実はほとんどないのだ。兄上でさえそうだった」
帝は再び帝の顔に戻る。
「シュワーム。あえて、証拠の無いうちは誰が黒幕とはまだ言わない。国内に触を出す。今回シウォンを狙った犯人はイスファターナで最も重い刑に処す。近衛に捜査をさせるように」
イスファターナで最も重い刑とは、即ち死を意味する。
「帝、それは…」
シュワームは動揺した。帝の言葉にはその相手が誰であろうと変えぬ意志が含まれているように聞こえたからだ。そして、実際にそれは間違いではなかった。
「甘い夢に酔った代償は払う。相手が誰であれ、私は考えを変えることはない」
氷のように冷たい視線はシュワームの心に焼き付いた。
夕刻にはその触は各地にもたらされ、シウォン達も知ることになった。
「…シウォン、これは」
「…」
ナフカが見せた触れ書を見つめながら、シウォンは執務席でじっと考え込んでいる。
「それにしても帝はどうして急に動かれたんだ?」
キシュが言う。
「…さあ、牽制の意味もあるのかもしれないが」
ナフカの答えも曖昧である。シュワームが伝えたことにより帝が行動を起こしたのには間違いないが、その速さがこれまでの比ではないのである。
「…ナフカ、キシュ。この件に関してはもう口にするな。俺達は黙することにする」
シウォンの決断にも迷いが見えた。だが、帝の決断は下され、もはやそれをどうすることもできない。
翌日から近衛では捜査が始まり、皇太子宮殿は一時的に人の出入りが多くなった。警備も増やされ、キシュも忙しくしている。宮殿もどこか騒がしい雰囲気で、やはり触れのことが誰もにとって意外性のあるものであったことを思わせる。
アドロフ三世のこの決断は、イスファターナ史にあらゆる評価を記すことになる。それはこの後に起きる結末の結果を物語るものであった。
▽▽▽▽▽
それから数日後のこと。
イスファターナの都、イスファルは連日豪雨と暴風に見舞われた。都の近くを流れるカディーヌ河は猛烈な勢いで水が流れ、その音は都の人々を恐れさせる。
イスファターナ帝アドロフ三世は、カディーヌ河周辺の住人に避難を呼び掛け、宮殿の一部を解放してそこに集めた。お陰でカディーヌ河が豪雨三日目にして氾濫したとき、死傷者は発生しなかった。
そんな豪雨のなか、都のとある場所では上位から下位に至るまで多数の貴族達が集まっていた。彼らは何やら上座、中座、下座に並ぶように座り、中央の上座に現れる人物を待っている。中座の一番上位に座るのは、ヒジェール=カトレシア。カトレシア家現当主であり、この国の総務を取り仕切る高官である。
そのヒジェールが使用人の連絡に応じて立ち上がり部屋を去った。その瞬間、貴族達には緊張か走る。
やがて、その貴族は一人の人物を上座に案内した。その上座の人間は華美な装飾を施した仮面をつけている。
上座の人物は言った。
「皆、よく集まってくれました」
その声の主は女であった。すると、その声に応じて一斉に一同は立ち上がり頭を下げる。
「皇妃様にご挨拶を申し上げます」
「皆、今日は我々の意思を確認するための日。有意義な時となることを願います」
皇妃シシル=カトレシア=イスファターナ。イスファターナ帝アドロフ三世の現皇妃であり、第二皇子リフキア=イスファターナの母。その人物が、宮殿を離れて貴族達の前に姿を現す。通常、帝の妃となった者が公務以外で外に出ることはない。それゆえなのか、皇妃は仮面をつけている。
「皇妃様、これを」
ヒジェールが紙の束を渡す。
「これは?」
「ここに集ったものの証文でございます。皆が、皇妃様への忠誠を誓い、リフキア殿下を帝にと望むという内容にそれぞれの印を記してあります」
シシルがその束をめくっていると、ヒジェールは言った。
「皇妃様。今日は客人をお招きしております」
「客人?いったい誰です?」
すると、別室に繋がる部屋から一人の男が現れた。その場の人間はその人物が現れたことに驚きの声をあげる。
「ダナフォート卿、まさかあなたがここにいらっしゃるとは」
シシルはその声いっぱいに歓喜を滲ませて迎える。
「まずはご挨拶を、皇妃様。私はここでより良い国にするための話し合いがあるとカトレシア卿に誘われ参ったまでのこと。感謝をされることはございません」
ダナフォート家は国への忠誠心が厚いことで知られている家でもあった。古い軍家の血筋で、常に戦場で先陣をきってイスファターナに勝利をもたらしてきた。名将とかつて称された軍神トーバスは、オルモンドの曾祖父にあたる人物である。
ダナフォート家でよく知られていることのひとつは愛国心の強い家であることだ。軍家であること、何より先祖の功績に恥じぬ生き方というものを重んじる家ということで、皇族も一目置いている。
そんなダナフォート家で現当主オルモンドは、珍しく文官となっている。彼に与えられているのは法務長官。言わずもがなこの国の法を司る機関の長官である。軍人とならなかったのは、彼が三男であったことが由来すると言われている。彼の兄達は皆、軍人となり、オルモンドは自分ができることを探した結果、文官に転じた。しかし、彼の父である前当主と長男である兄が病死、次男の兄は戦死して、オルモンドに当主の座が巡ってきたのである。
文官と一口に言うが、オルモンドの武術の実力はかなりのものと噂される。今でもたまに鍛えていると聞くし、何より彼の纏う雰囲気はまるで武人そのもの。彼に宮殿ですれ違うと縮み上がる者もいるらしい。
彼の端的な発言はその場の人間に静けさを与えた。すると、そこでシシルが口を開く。
「皆、帝が出された触れ書の話は聞いているでしょう。我々は我々の信念の元に一つであることを忘れぬように。イスファターナは我々無くしてはあり得ぬのです。臆することは何もありません」
その後もしばらく話は続き、下位の貴族達が帰り、その場にはヒジェールとオルモンド、そしてシシルが残った。
「オルモンド殿、例の話は進めてもよろしいですか」
ヒジェールは言った。
「まさか私の娘を殿下の婚約者にとは…」
オルモンドの元には前々から文が届けられていた。内容は第二皇子リフキアとの婚約、ひいては結婚である。
「貴殿のご子息、ご令嬢は皆、皇立学校でも優秀な成績を残されている。今後も貴家は安泰でしょう。お互いにこの国のため共に力を合わせようではありませんか」
「…ええ」
二人は互いに手を取り合った。しかしオルモンドは表情とは別にこの会合への疑心が募っていた。
「ではダナフォート卿、皇子との対面はいずれご連絡をいたします」
シシルは言った。
シシルやヒジェールと別れて帰り道、馬車のなかでオルモンドはため息をついた。
「…お疲れのご様子ですね、旦那様」
執事のニースが言った。
「心労が絶えんよ。カトレシア家相手にどこまで信頼を示していいものか。こちらが有利となれる何かがあれば、娘を人質のように差し出すことも無いだろうて。まして今日のあれは下手をすれば反逆罪に取られかねん言動もあった。帝の触が出ている今、告発さえすればわしは反乱を防いだ立役者となるかもしれんな」
苦笑いをするオルモンドにニースもその苦労を理解して小さく頷く。
告発をしないのは、今それをすればイスファターナの経済が傾くことがわかっているからである。カトレシア家が持つ力は大きく、都の大手の商家はカトレシア家の庇護を受けている。カトレシア家が傾いて苦しむのは貴族や商人ではなく、地方の農民達である。買い手がいなくなってしまえば当然金は入ってこない。善悪の前にやるべきことが成されるまでは、告発もできないのである。
同時にオルモンドは娘のことでも悩まされていた。
オルモンドはもともと自分の娘をシウォンの妃にするべく、娘に厳しく教育を行い、カトレシア家の娘、ルージュと対抗してきた。しかし、シウォンはソウェスフィリナの王女だったリヨルを妃に迎えた。自分の娘を側室などという不憫な思いをさせてやりたくない。
そう思っていた頃、カトレシア家からリフキアの正妃に是非と願われた。カトレシア家の思惑が第二皇子リフキアの擁立であることはわかっていたが、オルモンドの娘は来年には十八になる。早く結婚させなければ貰い手がなくなる。だからといって、どこでもいいわけではない。政治的関係、長年の付き合い、現在の家の経済事情。考えれば候補者達は数えるほどとなった。
そんな中でのリフキアとの縁談。皇族と関係を持てるのなら時期帝であるシウォンが望ましいが、すでにそれは叶わない。リフキアは最近の噂では、帝に皇子としての働きを認められてきているようだが、つい先頃までは姿を現すこともない、無能な皇子と囁かれていた人間だ。あまり好印象ではない。
(…大きな賭けだな)
オルモンドは深いため息をついた。
▽▽▽▽▽
豪雨はそれから、三日目にして終息した。
都の被害は想像以上に甚大で、その修復作業の一連をリフキアが任された。先日の水道橋の一件が認められたゆえの任務といえる。
そんなわけでリフキアの執務室には各地の被害状況と災害対策の資料が山のように積み重なっていた。
「失礼します」
リフキアの側近のアイゼン=ヴェルバイナとヨルナ=シュラインがやって来た。
「…ああ、二人ともおはよう」
「殿下…まさか徹夜されたのですか」
アイゼンがリフキアの目の下にできたくまを見ながら言った。
「え?あ…うん。気づいたら朝だった」
「お体を大切になさってくださいと何度申し上げたらよろしいですか」
ヨルナが呆れたと言わんばかりにため息をつく。最近、ヨルナの表情や行動は目に見てわかるようになった。それだけ、心を許してくれているのかもしれない。
「うん…。でも、今が楽しいんだよ」
「ダメなものはダメです!」
アイゼンはリフキアを執務席から引き剥がして隣の寝室へと運ぶ。
「こら、アイゼン!離せ!ヨルナも止めてくれ!」
ヨルナはアイゼンの強引さにため息をつきながら、それでもリフキアに対して首を振る。
「私は強引ながらも眠っていただくのが大事と思いますので…。殿下はこれからまだまだ背も伸びられるお歳です。眠られねば一生その背の高さで暮らすことに。せめて今少し背を伸ばされた方が殿方としてはよろしいと思います」
「なんだ、お前達は結託していたのか…」
リフキアは苦い顔をする。
「そこの筋肉男とは一緒にしないでください、殿下」
「おい、それって俺のことか?」
「他に誰がいるの」
ヨルナはそう言いつつもクスクスと笑った。それにつられてリフキアも笑った。
「…殿下まで笑わなくても」
アイゼンが苦笑いをする。
「アイゼン、降ろせ」
リフキアはアイゼンに降ろされるとやれやれと言わんばかりにため息をついて、それからヨルナとアイゼンを見つめた。
「お前達二人に言われたんだったら聞くしかないよな。仮眠するから、昼になったら起こしてくれ。それとアイゼン。近衛に外出の許可を取ってくれ。都の被害状況はやはり目で見ないとわかりそうにない。許可が取れ次第、修復関係者にもその旨を伝えてくれ。大がかりな治水工事が必要になるかもしれないからな」
「承知しました。関連の資料も集めておきます」
「ありがとう」
リフキアは寝室へと入っていった。
執務室で書類の整理をし始めたヨルナにアイゼンは言った。
「本当に、あの方の歳を考えるとゾッとするな」
十五歳の少年がこの国の政務の一端を担っていると、どれだけの人間が理解しているのだろう。それも、つい先日まで無能というレッテルを貼られていた皇子。机に並んだ大量の図面とその脇に並ぶ何十冊もの資料。そしてそれを楽しいと言ってみせたリフキアは、一種の超人にアイゼンには思えたのだった。
「研ぎ澄ませれば鋭利な刃物に。しかし、研ぎすぎれば脆く危うい鉄の塊…」
ヨルナがポツリと口にする。
「何だよ、それは」
「昔の故事にね、鉄の強度を高めようと努力し続けた結果、大きな成功をおさめた鍛冶師の武人がいたの。その人間にはそれを支えてくれる二人の友人がいた。成功した武人はその後、より一層鍛冶にのめり込んでいった。彼の作った剣は初めの成功のおかげで注文が殺到。この中に細くて軽くて性能のいい剣と注文があった。武人は必死に剣づくりに没頭し、友人達はそんな彼に休めと言った。だけど、彼はそれを聞き入れず、口論の結果、友人は離れていった。やがて男は剣を細くしようと鉄を打ち続け、完成した。しかし、戦場でその剣は幾度か他の剣と交われば折れてしまった。彼の名声は失墜。おまけに友人まで失って孤独になったという話」
「…」
「大きすぎる才はそれを体で支えることが不可能なときがある。だから、私達は殿下が望むところに向かえるだけの力をつけなくちゃいけない」
ヨルナの言葉にアイゼンは皇太子シウォンのことを思い出した。聞けば幼い頃から優秀。それを支えるのは雷帝と呼ばれたキシュ=コンワートと、帝の執務官シュワームに認められたナフカ=グリュネールである。
あの域にたどり着けるだろうか―
そう考えてアイゼンはヨルナを見た。
「…ヨルナ」
「何?」
「少しでいい。俺が近衛から帰ったら剣の相手をしてくれ」
「…わかった。手加減は無しだよ」
「当たり前だ」
アイゼンは部屋を出ていく。
やれることは限られている。時間はない。だけど、不思議だ。やれるような気しかない。
翌日、リフキアはアイゼンとヨルナを連れて視察に出た。




