近づく魔の手
「バルトレイン、今日も美味しい食事をありがとう」
リヨルが皇太子妃宮殿内を歩いていると、料理長のバルトレインに出会った。
「これはこれはリヨル様。おはようございます。お褒めに預かり恐縮です」
すっかり皇太子妃宮殿に仕える者達はリヨルの名を呼ぶことに何ら抵抗なくなっている。一つはシウォンがそうするように言っているからなのだが、どちらかと言えばリヨルの人徳によるところが大きかった。
リヨルはこの宮殿に来た翌日には、宮殿に仕える人間の名前をほぼ覚えてしまった。名を呼ばれた者は初めは驚いていたが、反対に嬉しくもあった。未来の皇妃となるべく嫁いできた隣国の王女。いわば人質のような状態である王女が、下々の人間にまで興味をもつとは誰も思っていなかったのである。
「ところでリヨル様、味付けは薄くありませんか。一度伺っておきたいと思いましたので」
バルトレインは、かつてイスファターナ中を歩き回って食材の研究を進め、自らの舌を鍛え上げてきた。
ソウェスフィリナの国境近い村でソウェスフィリナの料理を学び放浪していたところ、今回皇太子宮殿の料理長を任された。
しかし、ソウェスフィリナの料理を学んだとはいえ、実際に本場の味を知っているわけではない。彼としては今回の同盟で、ソウェスフィリナに行く機会さえあれば、料理を学べると考えている。だが、それはまだできてはいない。ソウェスフィリナの料理を知っている、という名目でここに仕えている以上、リヨルには聞いておきたかった。
「味ですか」
「ええ。イスファターナの料理は食材から抽出する旨味を生かした料理が多く、対してソウェスフィリナは香辛料で食材の臭みを消したりなどという料理が多いと認識しております。リヨル様がお望みであれば、ソウェスフィリナの料理に近しいものには心得がありますのでお作りいたしますが…」
リヨルは首を振った。
「私はイスファターナの料理も美味しくいただいているわ。ただ、あなたさえよければリドケッシュがもう一度食べたい」
「ほう…リドケッシュとはあの、具材を詰めて蒸した饅頭のようなものでしたか。お好きでしたら今日の昼にでもお作りしましょう」
「まあ、すぐにできるの?」
「私に不可能の文字はありません。この腕と舌、そして何より宮殿であれば大抵のものは作ることができます」
バルトレインは高らかに笑った。
「なら、バルトレイン。できるだけたくさん作ってほしいです。シウォン様達にも食べていただきたい」
「それはよきお考え。腕によりをかけてお作りしましょう」
そうしてその日の昼、リヨルは珍しく皇太子宮殿へと向かった。普段、シウォンから出向くことはあってもリヨルから、というのはなかなか無かった。そう思うと少し惑う。同盟の相手と思ってきたシウォンは、今やそれ以上の相手として見ている。
ほんのりと頬を赤らめてシウォンの執務室に向かうや、部屋からは何やら言い争う声が聞こえる。
「だーかーら!気を付けるに越したことは無いだろ?」
「だからと言って、警戒に警戒をし過ぎてはこの同盟は誰にとっても有益じゃなくなる。今は皆に受け入れてもらうことが大事なんだ」
「とはいえ危険にさらされるのはお前だけじゃないんだぞ、シウォン!」
おそらくキシュとシウォンのいい争いのようだが、リヨルは手にリドケッシュを持ったまま、どうしてよいかわからずルシアを見る。
すると、静かに執務室の扉が開いた。ナフカである。ナフカは一つ咳払いをすると、
「シウォン殿下、キシュ隊長。リヨル様がお見えです」
そう言って意味深い笑みをシウォンとキシュに向けた。
「こ、これはリヨル様。お恥ずかしいところをお見せしました」
キシュは深々と頭を下げる。
「いいえ、突然参ったのですもの。シウォン様、お昼を一緒に過ごされませんか。バルトレインが私の故郷の食事を作ってくれたのです」
「その、茶色い容器のなかに入っているのか?」
「ええ。この蒸し器の中に入っております。キシュ殿やナフカ殿の分もありますから、食べてください」
リヨルが蒸し器を開けると、もくもくと蒸気が上がる。中から現れたのは白く何やら柔らかそうな丸いものであった。
「これは?」
シウォンは初めて見るその料理に興味をもった。
「リドケッシュという生地に肉や野菜のあんを練り込んで蒸した、ソウェスフィリナの料理です」
「ほう…ではいただこうか」
シウォンは一つ手にとる。ナフカやキシュも同じく手にした。
「柔らかいな」
「とても美味しそうです」
キシュはその白く丸いものを半分に割る。中からは肉汁がキラキラと溢れ出してくる。リヨルは嬉しそうに二人を見ていた。
「そういえば、明日の式典の準備は終えられましたか」
ナフカはリヨルに言う。
「ええ。明日は初めて国民の前に姿を出すことになるので、準備は前もって万全にしてあります」
するとナフカはクスクスと笑ってシウォンに言う。
「失礼ながら殿下、リヨル様に明日のお召し物を決めていただいたらどうですか?」
ナフカの言葉にシウォンは食べていたリドケッシュを詰まらせて咳き込んだ。
「何を…ゴホッ」
「いつまでも決めてくださらないからですよ。我々が徹夜しないといけなくなるので、早く決めていただきたいのですが、一向に見向きもされなかったのは殿下ではありませんか」
シウォンはリドケッシュを飲み込むなり、リヨルに言った。
「リヨル、ナフカはこう見えて腹のなかは真っ黒なのだ。決してこいつの手にかかってはダメだぞ?かつて皇太子宮には泣く子も黙る執務官がいると噂になったもので…」
「まあ!」
リヨルはけらけらと笑う。
ナフカの整った顔の端に何やら引きつりが見えたが、あまりにリヨルが笑うので気づけばみんなが笑っていた。
「それにしてもこれ美味しいな、キシュ」
「ええ、この肉汁が何とも言えない旨味を出しています」
そう、二人が絶賛するのでナフカはパクリとリドケッシュを口にした。ナフカがシウォン達より食べるのが遅かったのは、あまり熱いものを食べるのが苦手だからである。もちろん、そんな事誰にも言ったことがない。言ったらからかわれるのがわかっているからだ。
そんなナフカはしばらく咀嚼して、動作を止めた。
「…どうした、ナフカ?」
キシュが不思議がって尋ねる。ナフカは手に持っていたリドケッシュの匂いを嗅ぐ。芳醇な香りに何か覚えのある香りがする。
その時だった。
「…正解だ、ナフカ」
「シウォン!」
ナフカは崩れ落ちるシウォンを支えた。すると、キシュもほどなくして床に崩れ落ちる。
「キシュ殿!」
リヨルが駆け寄った。
「ルシア!外にいる近衛兵に宮殿の封鎖と医官の手配を命じてこい!これは…毒だ!」
ナフカがそう叫ぶ横でシウォンがゴホゴホと咳き込みながら吐き出す。
「シウォン!」
ナフカはすぐに卓上の水をシウォンに飲ませた。リヨルも同じく吐き出すキシュに水を飲ませる。
「できるだけ吐き出せ!」
ナフカはシウォンを支えながら背をさする。
「…ナフカ、この事は情報を封じろ。騒ぎたてるな」
「…わかった」
まもなく医官がやって来て、シウォンとキシュは医師の手当てを受けた。
リヨルはシウォンの部屋の前で、用意された椅子にも座らず、中から誰か出てくるのを待っている。その姿は妃らしい堂々としたものだったが、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
すると、ナフカが部屋から出てきた。
「ナフカ殿!」
リヨルは駆け寄る。
「シウォン様のご様子は!」
「…熱がひどく、意識が混濁されています。また、腹痛を訴えておいでです。医師の話によるとイスファターナに認知された毒ではない可能性があるとのこと」
「…それでは、解毒できないのですか!」
「…左様です、リヨル様」
リヨルは床に崩れ落ちた。
「…なんということ…っなんと!」
その時だった。
金属の擦れあう音共に近衛兵が現れた。
「これは…」
ナフカが問うと先頭にいた近衛の武官は言った。
「皇太子殿下に毒を図った疑いでリヨル王女殿下に捜査のご協力をお願い申し上げます」
ナフカはリヨルの前に立って武官に言う。
「そなたごときが王女殿下に捜査の協力などを頼めると思ったか。殿下はソウェスフィリナ王国の客人だ。客人への礼を欠くような真似はこの国の品位を損なう。注意されたい」
「私は上官の命に従ったまでのこと」
「では、その上官の名を教えていただきたい」
「ナフカ!」
近衛兵を押し分けるようにギュンターがやって来た。
「ギュンター様、これは…」
ギュンターはナフカを一瞥して、近衛武官に言った。
「オルド武官、ミュンツェル司令長官の命により近衛庁に帰庁することを命じる」
「な…」
オルドと呼ばれた武官は苦い果実を噛み潰したような顔をした。
「聞こえなかったか!司令長官命令だ。即、帰庁せよ」
ギュンターはオルドと兵に睨みをきかす。普段比較的温厚で社交的なギュンターに睨まれ、オルド達は肝を冷やして去っていった。
近衛兵達が去ると、ギュンターはリヨルに頭を下げた。
「王女殿下へのご無礼、お詫びいたします」
「いいえ。説明さえしていただければ結構です」
リヨルが言うと、ギュンターは頷く。
「王女殿下。殿下に皇太子殿下を毒殺しようとした容疑がかけられております。先程、近衛にそうもたらされたのです」
「私が…殿下を毒殺しようとしたと?」
リヨルは信じられないという感情を全面に出していた。
「皇太子殿下はおそらく情報を封鎖なさったはずですが、帝の耳に届くのも時間の問題です」
「…」
「…王女殿下。失礼を承知で申し上げます。殿下は現在ソウェスフィリナからの客人という扱いとなっております。ゆえに、我々が殿下の捜査の命を下された際には殿下のご厚意、が必要です」
「ギュンター様!」
ナフカが叫んだ。ギュンターはその瞬間リヨルに再び頭を下げた。
「王女殿下には必ずそれを拒否していただきたい!王女殿下の身の安全を図るにはそれ以外の方法はございません」
ギュンターは、それをミュンツェルの言葉として伝えた。
近衛の調査では、イスファターナにおいて同盟に反対する者が集まり始めている。今回のことが反同盟派の動きであるなら、何としてでも王女リヨルを裁き、両国に決定的亀裂を生みたがるはずだ。なぜなら、客人である王女を裁くためにはソウェスフィリナ国王の承認が必要であるからで、愛娘である王女を裁くとなって最後、この同盟が保たれるはずはないのである。下手をすれば戦争になりかねない問題である。
「私が拒否し続ければよいのですか?ですが、それでもソウェスフィリナ国王の耳に入り次第、同盟は瓦解するでしょう」
「ですが、前者よりは時が稼げます。その間に皇太子殿下に回復していただきたいというのが我々の思いです」
「殿下のご容態は良くありません。良くなられてもしばらくは安静が必要でしょう」
「…ゆえに、一刻も早く解決策を立てるつもりです」
リヨルは厳しい表情をしつつも冷静に頷く。
「わかりました。それから、バルトレインを守ってください。彼は私の命でリドケッシュを作ったに過ぎないのです」
「承知いたしました。では、失礼致します」
ギュンターが去って、リヨルは肩に重い荷物を背負ったままナフカに言った。
「あなたもギュンター殿も、私を犯人とは疑わなかったわね」
「シウォン殿下があなた様を必要とされています。あの方の目にかなった方が、愚かな行為をなさるはずがないとギュンター様は思われたのではないでしょうか。それに、キシュをはじめとしたミュンツェル様、ギュンター様はソウェスフィリナに特別な思いを抱かれている方々。この同盟を願う人間です」
「あなたは?」
「…リヨル様の妃としての覚悟を見ている人間としては、失礼ながらリヨル様が仮にシウォン様を殺そうとしても、毒などという生死が不確かなものや、毒の混入物が真っ先に容疑が向けられそうなソウェスフィリナの料理はお使いにならないと、私は思っただけです」
リヨルはキョトンとしてナフカを見る。ナフカはクスッと笑った。
「要は勘、です」
ナフカは言った。
「リヨル様、シウォン様をお頼みしてもよろしいですか」
「…どこへ行くつもりです?」
「知り合いのところへ。力を貸してくれると思いますので」
ナフカはそう言って走り去っていく。リヨルはぎゅっと手を結んでルシアに言った。
「…ルシア、紙とペンを用意して、ひそかにソウェスフィリナに文を送ってほしい」
「父王陛下にですか?」
「父上じゃないわ…もっと恐ろしい人よ」
「シハル!シハルはいるか!」
ナフカは皇太子妃宮殿へ向かっていた。
「ナフカ!」
シハルは息を切らしてやって来る。
「ちょうどいいところに!ナフカ!あいつら何なの?」
「あいつら?」
「さっき近衛の奴等がこの宮殿を調べようとやって来たのよ!」
ナフカは驚いてシハルに掴みかかる。
「まさか中に入れたのか!」
シハルはナフカを引き剥がして言った。
「この私が突然押し寄せてきた失礼な輩を中に入れると思って?返り討ちにしてやったわ!」
何をしたのかは聞かないでおこう。ナフカはそう思いつつ、内心はホッとしていた。
「シハル、シウォン様が毒に倒れられた。キシュもだ」
「ええっ!」
「疑いがリヨル様に向いている。俺は少しここを離れるから、リヨル様とこの宮殿を頼んだぞ」
「…あんたが殿下のもとを離れるなんて、よほど酷いの?」
ナフカは頷いた。
「この国の毒じゃない可能性がある。知り合いをあたってくる。夜までに戻れればいいが、下手をすれば明日の早朝だ」
「わかった。皇太子宮殿に仕える者として、必ずここを守るわ」
「すまない、頼む」
ナフカはそうリヨルに言うと、すぐに宮殿を出て、グリュネール邸へ向かった。
グリュネール邸の門をくぐると、ナフカの過去を使用人の中で唯一知るヒガタが庭掃除をしていた。
「ヒガタ!」
「これは坊っちゃん…いかがなさいましたか」
「最後に裏口のポストを見たのはいつだ?」
「…は、昨日です…もしや、赤い封をお探しですか」
「…そうだ」
ヒガタは納得して、ナフカを自分の執務室に案内した。
「これがすべてですが、一番新しいのは、その手前の封です」
ナフカはそれを開けて日付を確認する。
「…一昨日か」
ナフカはその文面を読み進める。
―我、本日よりおよそ二週間の間、都に滞在。
セシル、ギガロ、アイジェス…―
「セシルがここにいる!」
ナフカは声をあげて言った。
「…ここ最近は都に来る者は少なかったですから、本当にようございましたね」
「ああ…それに、会いたい人物もいる」
「それではそのセシルという者をお呼びすればよろしいですか」
「いや、セシルは呼んでほしいが本命はアイジェスだ」
「承知いたしました。すぐに馬を飛ばします」
アイジェスがここにいる。かつて、ナフカのいた組織のなかで一番薬草に詳しかったアイジェス。彼ならイスファターナでは未知の異国の毒でも知っているかもしれない。
必ず助けてみせる。ナフカはそう誓った。




