駆ける想い
夜は昼の件もあって、庁舎にはおびただしい数の兵が配置された。
「…どうにも落ち着かないな」
シウォンは寝台に転がりながら言った。
「仕方ないだろ。昼にあんなことがあったんだから」
ナフカはいつものように温めた牛乳を運んできた。
「…なんだか、いつも通りのことだが気恥ずかしいな」
牛乳を見ながらシウォンが言う。
「ホットミルクが子どもっぽく見えるって?」
「ああ」
「だめだ、飲んでもらうぞ?少なくとも二十歳になるまではな」
「なんで二十歳なんだ。あと二年も飲むのか!?」
「お前、年寄りになってまで俺に世話をかけさせるつもりか?若いうちに骨を丈夫にしておかないと、視察では馬にも乗れず、あまり好きじゃない馬車の中で手を振る有り様。降りるときも俺やキシュの手を借りて降りなくちゃならない。そうなってしまえばもう帝の威厳はあったものじゃないなぁ」
「ああ、もうわかった!」
シウォンは明らかに不機嫌そうに牛乳を飲む。
「別に嫌いじゃないんだ。これくらい飲んでやるさ」
「急いで飲むと噎せかえるぞ」
「…」
シウォンは飲み終えたカップをナフカに渡した。ナフカはクスクスと笑いながらそれを外の給仕に渡す。
「ナフカ…」
少し陰った顔でシウォンはナフカを呼んだ。
「何でしょう」
「昼間の事…感謝する」
シウォンが顔に出すことはなかったが、どうやら心配させていようだ。ナフカは笑った。
「これくらい大したことはない。それに、これからようやくお前の道が動き始めるんだ。それは今や俺の道でもある。こんなに楽しみなことはないだろう」
「…そうだな。やっとだ」
イスファターナとソウェスフィリナの同盟は、それぞれの建国史上初の事となる。この大きな動きが、この世界の一つの分岐点。
この後、イスファターナとソウェスフィリナ両国は、過去に置き去りにされた試練の清算と向き合い続けていくことになる。
夜も更けて、ナフカはシウォンの寝室を出て、翌日の段取りをキシュやギュンダーと確認し、ようやく休みを取ることができた。
さて眠ろうかとした時、部屋の扉がノックされる。
「何か?」
扉を開けると、一人の役人が立っていた。その役人は何も喋らず立ち尽くしている。明らかな怪しさにナフカは警戒したが、すぐにその警戒を解く。
「……冗談はよしてくれないか。一瞬、肝が冷えた」
「おや、もう気付いたのですか」
ナフカは呆れた顔で言う。
「その匂袋の香の香りを、忘れるはずかない」
ナフカは部屋に招き入れる。部屋に入るや、その役人は顔に施した化粧を落とす。
「さすがにあの方の弟子は、未だに腕が鈍ってないとみえる」
「何をしに来た。ここはかなり警戒が敷かれているんだぞ、セシル。簡単に抜けられてはイスファターナ兵は満身創痍もいいところだ」
化粧を落としたセシルは愉快そうにナフカに言う。
「いいではないですか。このセシルを手こずらせるくらいには頑張っていましたよ。それに…イスファターナの恩人に、そんな言い草は無いんじゃないですか?」
「恩人?」
「昼間、あなた様の腕を怪我させた奴。今、私が預かっています」
ナフカは眉を潜める。
「…どうして」
「まあうちの劇団には意外とあなたのファンが多いようで。王女がやってくる今日は何かあってもおかしくないと、勝手に警備をしていたらしい」
セシルは何かを思い出したようにクスクスと笑った。そして椅子に腰かけるや、真剣な表情で語り始めた。
「ナフカ様、我々がここにいることでこの町は普段より人も多く、ならず者がいても見分けがつかないほどです。お手を煩わせたこと申し訳ありません。しかしすでに同盟の話を聞いたときには私らはタンベルクにいて、今さら止めるわけにもいかない状況でした。とはいえ、ご迷惑をかけたことは間違いありません」
ナフカは首を振る。
「関係ないさ、セシル。むしろそういう人間がいることを確認できただけ収穫だ。ならず者の大体の検討はついているからな」
セシルは言った。
「ちなみにその弓者、カトレシア家と繋がっているようですよ?」
「…」
カトレシア家―現在の皇妃シシル=カトレシア=イスファターナの実家であり、つまりはリフキアの祖父母の家ということになる。何を目的としているのか、未だにナフカにも掴めない相手だ。
少なくともわかっているのは、当主である皇妃シシルの兄の娘ルージュは、シウォンも認めるこの国思いの人物であるということである。
「殿下の弟君には辛い話かもしれませんが、これもまた事実。ナフカ様、その弓者、いつでもお引き渡しできますが」
「少しだけ待ってくれ。明日の朝、殿下に話す。皇妃の実家である以上、殿下と言えどそう簡単に踏み込めるものではない。判断を仰ぐべきだ。だが、捕らえてくれたこと、感謝する」
「お安いご用ですよ、こんなこと。許せないのは弟に等しいあなた様を傷つけたことですが」
セシルはナフカの腕にそっと触れる。なんだかそれはとても懐かしい記憶を呼び覚ました。
「…セシル。少しだけかつての姉として、聞いてくれるか?」
ナフカはベッドに腰かける。セシルはその隣にに寄り添う。
「ここに来る前のことだ。リフキア殿下が風邪を召されて、都で人気のデザートを所望された。それはツェラテンだった」
「…ツェラテン」
セシルはその単語の意味するところを理解した。かつて…慕ったあの方がよく口にしていたデザート。忘れるはずがない。
「思わず身がすくんだんだ。まさか今さら出会うこともないと思っていた。過去のことに触れるのはやはり心が耐えられそうにない。だけど、命を受けた以上、私はそれを作る以外の選択肢はなかった。いや…以外と作りたかったのかもしれない」
セシルはナフカの手を握る。なぜか、そうしたかった。
「作りながらなぜ都でそれが人気なのか考えるうちに、つい考えすぎてしまって。何か帝国に動きがあるのかと、そう思ったら急に現実味が増してきて…私はふと恐ろしいことを考えていた」
ナフカの肩が震えている。
「…私の心はイスファターナにある。殿下のもとでその力になることが私の望みだ。それは今回の同盟でいよいよ大きく動き始めたし、私は楽しみですらある。だけど私は…もし、本当に帝国がイスファターナとソウェスフィリナによって滅びるとき、心からそれを受け入れられる気がしない…。そんな私がここにいる」
ナフカは胸に手を当てた。辛くなればいつも手を胸に当てていた。少しでも、今は亡きあの人の近くにいられる気がして。
「そりゃあ、後味が悪くて当たり前さ。あんたの居場所は今のイスファターナだけじゃない。帝国にだってあったんだから」
セシルはかつで通りの口調でそう言った。
「みんな、同じだよ。あの方は帝国を守るために力を尽くして亡くなった。近くで暮らしたあんたは特にそれを感じてるだろうけど、忘れちゃいけないことをあんたは忘れてる」
「忘れちゃいけないこと…」
セシルは頷く。
「いいかい?国に仕えるあんたに言うのは何だけど、国ってものはいつかは寿命を終える。勉強好きなあんたならその例をいくつも知っているだろう。もし本当に帝国が滅びるなら、寿命を終えたということだ。あの方が守りたかったのは国じゃない。そこに生きる人間を守りたかった…違うかい?」
気づけたはずなのに、いつの間にか見失っていた。何か心にストンと落ち着いた、そんな心地だ。
「…セシルには助けられてばかりだ。昔から」
「ナフカ。あんたが守らなきゃいけないとしたら、あの方の志だよ。誰よりも近くにいたあんたがそれを胸に置くことに意味がある。そして、あの殿下はそれを誰よりもわかってくれる人みたいだ。過去を怯える必要はない。私らが流した血の量に対して、私らにできることは未来をつくることなんだから」
はたはたと涙がこぼれていく。それはナフカもセシルも同様だった。恐れも怯えも必要なかった。大切なのは今なのだと、身に染みて感じる。
「…懐かしいな。昔、セシルによく慰められてた」
「あの方は厳しかったからね。よく耐えたよ、あんたは」
「…お陰で生きてる」
「…そうだね」
セシルはナフカの背をまるで赤子をあやすようにポンポンと叩く。
「…会いたいな」
「ほんと、今にもひょっこり現れそうなのにね」
しばらくしてセシルはナフカと別れた。
(まさか、匂袋で気づかれるとはねぇ)
不覚だった。でも、もうずっとこれを身に付けている。あの方が気まぐれにくれた、唯一のもの。だから、どうしても手離せなかった。
(そういえば、あの方にもこの匂いで気づかれたことがあったっけ…。)
タンベルクの建物を屋根づたいに飛びながらセシルはクスクスと笑った。
セシルが去った後、珍しくナフカは夜空を見上げていた。空には月が上っている。その静かな光が、ナフカの銀色の髪をきらきらといたずらに光らせる。
「どうして月を眺めているのですか?」
「どうしてって…。ただ純粋に綺麗だから、偽れないような気にさせられるんだよ」
ついでに懐かしい記憶も思い出す。
もう少しだけ思い出に浸りたい。忙しない日々を過ごすうちに、少しずつ過去は消えていく。昔はもうちょっと覚えていたはずなのに。
(それは、お前が大切なものを見つけたからだよ)
夜風に乗ってそんな声が聴こえてきた気がした。
「…そうですね。数えきれないほどたくさんの出会いを手にしました。こんな、幸せなことはない」
一瞬だけど、会えた気がした。それだけでこの上なく幸せだ。
ナフカは窓を閉めて寝台に潜り込んだ。すうっと引き込まれるように眠りにつく。
夜はあともう少しある。月はその銀光に未来を託し、寝静まる世界を照らし出した。温かなその光を求めるかのように、近くの山では何度も狼の吠える声がが聴こえたという。




