ウィジュグラードの戦いⅤ
「キシュ!」
左軍の乱戦の中をグレンが寄ってきた。
「どうした!」
「兵がもたないぞ!」
ユンハンスの指揮はまるで華麗な音楽のように、全くの無駄がないものだった。
初めに仕掛けたのはソウェスフィリナ軍だった。ユンハンスの指揮を受けた精鋭の騎馬兵が隊と隊の連携がもろい部分に襲いかかる。それに対策を講じている隙に、今度は主力部隊が左軍の両端から斬り込んでくる。
元々、兵達は負傷している。すでに昨日、敵右軍の罠を経験した兵達には恐怖すら感じられたであろう。
「…っ!」
すでに両軍がぶつかってから長い。そして続々と現れる敵軍に対応するのもやっとで、目の前にいる敵を倒すのに必死となっている。しかしすぐさま別の敵が現れる。
「グレン!国旗だ!」
「お…おう!」
キシュに応じてグレンは数人の兵に国旗を掲げさせた。それは元々左軍本陣に置いてあったもので、キシュが万一の賭けで持ってきたものだった。
大空にそれと同じくらい真っ青な旗が靡く。その旗はイスファターナのすべてを表すものと人々の心には植えついている。帝を表す月と、その遣いの龍と星々。それはイスファターナの建国神話に由来し、イスファターナに住まう者の信仰の対象はこの神話に基づいている。
「いいか!ここを防ぐことができるのは俺達だけだ!」
キシュは声をあげた。
「建国の時代より、イスファターナの我々の祖先は流血の歴史を刻みこの国を守ってきた!我々はそれに続く生きる証人なのだ!我々がここで折れればこの国は滅び、ひいては歴史も途絶え、それは何より先祖が守ってきた誇りを失うことになる!そして、愛する家族や仲間は決して平穏な暮らしを望むことはできなくなる!」
兵達の武器を取る手に、奥底から沸き上がる怒りと、負けてはならぬという気持ちが力となってよみがえった。そして目は、生気にみなぎっている。
「もう一度言う!ここを伏せぐことができるのは俺達だけだ!力を貸せ!左軍兵!」
瞬間、どっと大きな音と共に左軍内の動きが止まった。兵達がそれぞれの部隊の先頭を、各地で止めたのである。そして歓声をあげながら敵に向かっていく。
「…やりおるわ」
左軍の左側で兵を率いていたジョアンが呟いた。その表情に、普段は全く見せない笑みが映る。側近達は驚いていた。
「若い者がやって見せたのだ。死に物狂いで俺についてこい、お前達!」
ジョアンはそう言って大鉈を奮った。兵はそれに応えて剣を奮った。
「左、ジョアン将軍の部隊の兵が持ち直しました!」
「右、ネベロ将軍のところもです!」
伝令の報告にキシュはホッと息をついた。
「それともう一つお伝えすることが。ジョアン将軍より、『任せよ、行け』と伝えよと仰せつかって参りました」
するとまた伝令が飛ぶ。
「中央に新手が!その数一万!それからケッヘリンガー将軍の本陣からの兵が五千、到着いたしました!」
「ナキア将軍!」
キシュが後方で戦うナキアを呼んだ。
「ここをお任せする!」
ナキアは「おう」と応えた。
それを確認すると、キシュは自分の軍の旗を掲げた。
左軍、キシュ隊およそ一万五千。
やるべきことはただ一つ。敵兵を滅すること。そのためにどれだけ犠牲が払われるとわかっていても、やらなくてはいけない。
キシュは心の奥にある躊躇いを振り切るように、自身の剣を空高く抜き放った。
「キシュ隊!ここが最後の戦いだ!何としても食い止める!行くぞ!」
土煙と共に兵達が駆け出す。先頭でマントを翻しながら馬首を操るキシュは瞬間、目の前の光景に輝きのようなものを感じた。
互いを削るようなこの戦闘を、ソウェスフィリナ軍の後方にいたユンハンスは黙しながら見ていた。
「…執念の戦いですね」
ユンハンスの側近、レイティスが馬首を並べて言った。女ながら将軍の彼女は、戦場では風のように剣を奮う。確実に相手の急所を狙うその早さと技は、並大抵の努力では得られなかったはずであった。そのレイティスの努力をよく知るユンハンスは、レイティスの言葉に静かに頷いた。
「長い間イスファターナとは戦ってきた。互いに守るものを持っている。我々も負けられない」
「もちろんですわ」
「…キシュという左軍の副官。昨日のワーベル負傷を受けて今日は全軍を率いると予測していたが、昨日の様子ではこんな兵力の使い方ができる人間とは思わなかった」
レイティスがユンハンスを見る。
「…本当に何度聞いても驚きですわ。ユン様が敵将に会うために危険をおかしてまで向かわれるなんて」
「私だって必要なときには動くのさ。鷹のようにゆっくりと空を舞って待ちながら、獲物を見つければ狩り取る。この切り替えが大事なんだ」
するとユンハンスは昨日のキシュの言葉を思い出して笑った。
「しかし…彼は昨日の作戦を練って運用したポワンを軽蔑すると言っていたからね。あれは本気だったなぁ」
ユンハンスは愉快そうに言った。
「…あの者の下衆な作戦は私も嫌っております。その点に関しては、キシュというその将軍と気が合いそうですわ」
「ま…私は無駄なことと面倒はしたくないから、ポワンのような奴は別の意味で尊敬するよ。ほんとに」
「それで、ユン様。どのようになさるのですか。あの勢いですと中央に向かった一万は…」
ユンハンスは頭をかいた。
「残念なことだが、私は右軍を率いる将の一人にすぎない。どうするといってもねぇ」
すると伝令が走ってきた。
「ユンハンス将軍!」
「何事だ?」
ユンハンスは何か面白いことが起きたのを察して、少し笑いながら伝令を受ける。
「はっ、そ…それが右軍総大将、ロスキアス様が先程兵と共に中央へ向かわれました」
ユンハンスの隣にいたレイティスはあまりの驚きに目をカッと見開いてユンハンスを見る。熱い視線に、せっかく沸いた興味を失せられてユンハンスはため息をついた。
「将軍もやってくれますねぇ。まぁ、キシュが前に出てきたのを見て誘き出されたんでしょうが。レイティス、そんなに目を見開いては、美しい顔が台無しになりますよ」
レイティスは顔を赤めて目をそらす。
「将軍はキシュを討ち取るつもりなのでしょう」
ユンハンスが言った。
「…だが、そう簡単にキシュは倒れない」
「将軍が負けると思われますか」
自軍の総大将のことを無遠慮にそう言うレイティスに苦笑いしながらユンハンスは言った。
「そうとも言わないし、そうなれば面倒だからやめてほしいんだが…何せ彼らは国防がかかっている。後世の歴史には我々が侵略者だと、悪く描かれても仕方ない。イスファターナは我々を止めることでしか生きられない。国防のために熱くなっている彼らを前に、やすやすと戦えると思うのは大きな間違いだ」
ユンハンスはくるりと自軍の方を向いて、少し考え始めた。
「レイティス、あなたの隊から半分、精鋭を集めてくれませんか」
「精鋭を?」
「私の隊からも精鋭を集めます。私の精鋭三千とあなたのところの兵で一軍を作ります」
ユンハンスは遠く戦場を見つめる。
「私は確かにキシュ将軍なら後方ではなくむしろ前線で戦うと確信はしていた。だからこそ彼以外の将軍から兵を奪い、消耗させて、彼を孤立させてから叩くつもりだったのに…。私の作戦を曲げられたのでは本来、責任はとれませんよ」
「しかし責任は擦られてしまうでしょうね、この軍では。ユン様、私の兵は精鋭二千しかおりませんが」
「構いません。あなたの腕には千の兵に勝るものがある」
ユンハンスがちらりとレイティスの馬に掛けられた白弓を見た。
「そういうことでしたら、喜んでお力添えを。ですが、よろしいのですか?私がキシュ将軍を討ち取ってしまっても」
「きっと混戦の中。いくらあなたでも両脇に敵がいたら弓は危険です」
「では、ユン様は舞台を整えてくださると?」
「ご期待には添えるように努力する」
「頼もしい限りですわ」
そうして、ひそかに精鋭五千の部隊が作られた。そして、この部隊がキシュ達をこの後苦しめることになる。
「…敵の総大将が出てきたのか?」
ナフカの驚きにキシュは笑って頷いた。
「どうしたもんだか俺も考えたよ。総大将を倒せば、名目的にソウェスフィリナ右軍は負けたことになる。でも後方にはユンハンスがいる。そんな大駒がまだ後方に控えていることを考えると、頭が痛くなるだろ?」
洞穴の壁にもたれながらキシュは前髪をかきあげた。
「そして倒したのか。そう聞いているが」
「……望まれたからな。そうせざるを得なかった。前方に逃げ場はないし、引き返すこともできない。誰か将と一騎討ちになることはわかっていたのに、初っぱなから総大将とは思わなかったよ」
キシュは水を飲み干すと、服の左肩半分を脱いで言った。
「その時、受けた傷だ。結構な深手だったな」
「かなり酷いな。激戦だったのがわかる」
「逃げるわけにはいかないんだ、焚き付けた本人としては。もはや性分なんだよ」
じっとうつ向いて考え込むナフカの頬をキシュはつねった。
「こら、お前がそんなに考え込むな。お前に背負わせるのは苦だ。もうやめないか、こんな話」
ナフカはキシュの腕をぎゅっと掴んだ。その顔には普段の冷静さが消えている。
「そうやって一人になろうとするな、キシュ。俺はお前より五つも年下だし、頼りないかもしれない。だが、一人になると人間は生きられない」
「…今まで生きてきて一人だと思ったことはないよ。不思議とね。お前たちのお陰だ。」
キシュもナフカの過去は知らない。帝国に住んでいたことがあるとだけ聞いているが、その他は全く何も知らない。シウォンもその点は黙っているようだし、相手はイスファターナ帝執務官、シュワーム=グリュネールの養子に抜擢された人物。疑う必要は無いように思われた。
しかし先程の表情からして、美しい容姿の裏に壮絶な過去を秘めている気がしてならない。それにキシュは会った当初、ナフカを警戒していた。
―血を知っている
武器を手にさせたら巧みに操るだろうと確信していた。もちろん、執務官という仕事は主を守るためのある程度の護衛術を身に付けるものだが、その度を越えた何かをキシュは感じた。ものの見方、気付き方、隙の無さ。ピンと張り詰められた空気感は、過酷な過去に生み出されたのだろう。
でも、だからこその脆さをキシュは感じる。支えてやらねばと思う。完璧であるゆえになおのこと自分のことになるとその土台が危うくなりそうな陰を持っている。
そうしてみているうちに、いつしか弟のようなそんな認識をしていた。妹はいても弟はいなかったキシュは、少し嬉しく感じている。
そしてキシュはまた水をごくりと飲み干した。最後の結末を話すために。




