最高の味方
「ここ…は…兄上!」
目覚めたそこはいつもの風景と違った。
しかも兄、シウォンは椅子で眠っている。わたわたと慌てて寝台を飛び出すと、寝ぼけ眼を擦りながらシウォンが言った。
「まだ寝ているんだ、リフキア」
「いえこれは…」
「連日、慣れないことをしているのだから無理もない。いいから、今日は休め」
シウォンは深々と椅子に座り直す。すると、ナフカが部屋に入ってきた。
「おはようございます。おや、もう起きられていましたか」
「ナフカ、目も覚めたことだし、医官を呼んできてくれ。リフキア、何か食べられそうか」
「い、いえ…お構い無く」
「こんな時くらいいいから、言ってみろ」
リフキアはしばらく考え込んで…少し赤らめた頬で言った。
「…ツェラテン」
リフキアの口から漏れた単語は、シウォンにはわからなかった。
「…リフキア、そのツェラテンとは何だ?」
「兵士が言っていたのです。何やらさっぱりと甘いデザートが都にあるのだとかで…」
「それは都に行けばあるのか?」
「…そのようですが」
「ナフカ、調達できるか?」
「…」
ナフカはツェラテンという単語に明らかに動揺していた。
「ナフカ?」
シウォンに尋ねられてナフカは我に返る。シウォンもリフキアもナフカを不思議そうに見ていた。
「ナフカ、手に入りそうか?」
「もちろんです。ご用意します」
ナフカは部屋を出て、足早に自室へ向かう。
ナフカは机の上のコップを手にとって水をごくごくと飲み干した。
「…っ」
大きく息を吸い、息を吐く。心臓の拍動が、血の流れ出す音が、身体中に響いている。
『ツェラテン』と聞いた瞬間、全身を巡る血が凍結したのではないかと思うほどに体が動かなかった。
(まさかここでその単語を聞くとは…)
その時、テラスのドアが開いた。ナフカは体をびくりとさせる。
「主、大丈夫ですか」
テラスからハクがやって来た。ナフカはその存在を確認すると、ベットに腰かけてため息をついた。
「…しばらく都を探索するんじゃなかったのか」
「まあ、知ったところを一人で歩いてもたかがしれてるでしょ。せめてかわいらしいお嬢さんを連れてでもいないと」
「ほんと、お前って奴は」
呆れながらナフカは言う。
ハクはこの数年でうんと言葉が巧みになった。何で学んだのかは知らないが、その口説き文句でいろんな人間を落としている…それは女性に限らず、どうやら仕事に活かしているらしい。
「…都に出たのならツェラテンを知ってるか」
「ああ、行列になってましたよ。東通りのカフェでしょう。発音、間違えていますよね。アクセントが違う。イスファターナの人間には帝国語が難しいことは知ってますが、私にとっては不思議です」
ハクはナフカの様子を見るや、ただ事でないと感じた。シウォン達の前はともかく、普段はハクの前でさえも隙の無い完璧人間を貫いているナフカが、こんなに感情を露にすることはまず無い。
「…私がここに来たのはそれが理由ですよ、一応。気になることは報告して判断を仰ぐべきかと」
「それで間違ってない。ハク、帝国の動きは何か報告はないのか」
ハクは難しそうな顔をする。
「そうですねぇ、みんなイスファターナかソウェスフィリナにいますし、帝国の動きは気にしているでしょうが…」
重い何かを飲み込むようにナフカは息をつく。
「何か、あったのですか。あまり聞くつもりはありませんでしたが」
ナフカは重い腰をあげてまた、水に手を伸ばした。
「…リフキア殿下が、ツェラテンを食べたいと仰せになられてな」
ごくごくと水を飲み干し、また水の入ったポットに手を伸ばすナフカの手を、ハクは掴んだ。
「主、水も急に飲んでは毒ですよ。酒でないだけましですが」
「…」
「その、都のツェラテンですが帝国のものと作り方は同じです。味は主の方が勝っていますけど」
「食べたのか…」
「名前だけ一緒の紛い物なら気にすることはないと思ったので。半日並んでやっと食べました」
ナフカは重たい口を開いた。
「ハク、これは帝国側が動いていると…そう考えるべきか?」
「これだけでは何とも言えないでしょう。はっきり言えば、デザート一つで及ぼす影響はたかがしれてます。仮に意味があったところで、これから動向を探ればいい」
ハクは小さく笑った。
「俺が帝国に行って探ってきましょうか?」
「それはお前…!」
ハクはナフカの頬を平手で叩く。
「顔に動揺が書き加えられていますよ。その調子だと殿下にバレるのは時間の問題ですね。帝国とてすぐには動かないでしょうから、まずはソウェスフィリナのことをお考えください。それに青蘭様は今のあなたの姿をきっと望んではおられません」
ヒリヒリと頬が痛む。その痛みを手で触れながらナフカは答えた。
「…ああ、そうだな。すまなかった。ありがとう」
ナフカはベッドに突っ伏した。顔を埋めて自分の行動を反省する。
(とはいえ、きっと…もう気付かれているよな)
シウォンは感がいい。ちょっとした感情の変化を見逃さない。
先程の違和感について聞かなかったのは、多分、いつか俺が話し出すのを待っている。
でも、まだ話すことはできない。こんな素性の知れない奴をそばに置いてくれる、シウォンの信頼に答えることだけが俺の返せるものだ。
「殿下方、ツェラテンをお持ちいたしました」
ナフカは机の上にプルンとしたその白い甘味を置く。
シウォンの目線が自分に向けられているのが少し心苦しい。頬も少し赤くなっているし、隠せることでは無いのだが。
「…作ったのか?」
シウォンが言う。やっぱり何も言わない。
「ええ。私の好物ですから」
「そうなのか?初耳だが」
「殿下の分もご用意しておりますから、どうぞ」
シウォンとリフキアはスプーンを手に取り、一口、口に運んだ。そしてそれは間違いなく絶品だった。
「このプルプルもっちりしたこの食感!噂通りだ!」
リフキアは二度目のスプーンを動かした。
「この甘さなら俺も食べられる。甘いのにしつこすぎなくて…癖になるな」
甘いものが苦手なシウォンもすぐにまたスプーンを動かした。久々に作ったが、まだ腕は落ちていないようだ。昔はそれこそ、毎日のように作っていた。
(あの人の好物…もう二度と作ることはないと思っていたのに)
「お好きでしたら、また作りますよ。リフキア殿下はそれを召し上がられたら少しお休みくださいね」
ナフカはそう言って、部屋を去ろうとした。
「ナフカ」
シウォンに呼び止められてナフカは立ち止まる。
「手当てはちゃんとしろ。お前は俺の執務官だ。身なりは整えておけ」
「…っ」
その言葉に涙が溢れそうになった。それをグッと堪えて、ナフカはシウォンに向けて深々と頭を下げる。
「…失礼をいたしました。以後気をつけます」
ナフカは部屋を出て、給湯室に向かった。ツェラテンを作る際の道具を洗い始める。
じんわりと水の冷たさが伝わってくる。次第に胸の奥が苦しくなって、気づけば崩れ落ちていた。
涙が止まらない。
シウォンの優しさが苦しい。じんわりと体に楔を打ち込まれているようだ。
「兄上…ナフカは大丈夫でしょうか」
リフキアに尋ねられてシウォンは一瞬、思考が止まった。しかしすぐに答える。
「ん?あぁ…大丈夫だ。あいつはすぐに復活する」
そう。それだけは自信をもって言える。シウォンは心の中で反復する。
「兄上、お聞きしてもいいですか?」
「…なんだ?」
「兄上はどのようにしてナフカやキシュのような優秀な側近を得られたのですか?」
リフキアはまっすぐにシウォンを見つめている。リフキアは過去の事件から側近を置いていない。ここに来てから何かしら思うことがあったのだろうか。
「…キシュは確固たる信念を、ナフカは世界を知りたいという欲求を持っていた。それがたまたま俺の道に必要だった」
「兄上の…道、ですか」
「俺はこの世界を争いの無い世界にしたい。つまりは平和な世界だ」
「…平和」
平和なんて、戦争がないだなんて、もはや昔話の世界だと考えられている。生き延びるためには血を流すことはもはや避けられない風潮とも言えた。
それを無くし、平和を実現するには想像を絶するものが待ち受けているだろう。
リフキアは兄の存在を遠くに感じた。自らの道を語る兄の姿は、どこか儚く散ってしまいそうなそんな雰囲気を纏っている。
「…リフキア、俺は帝になるために努力しているんじゃない。俺は、見ず知らずの人間を殺し合う戦争を無くしたい。そのための手段として帝になる」
その先は、シウォンの言葉には語られなかった。
リフキアは込み上げてきた気持ちを言葉にした。
「兄上、私は兄上の力になりたい。憧れるのはもう止めます。憧れている間は、きっと追いつけない。私はこの国の皇子です。もう、自分からは逃げません」
リフキアの宣言に、シウォンは「そうか」と頷いた。
「…ならば私をお前の味方につけてみろ、リフキア。お前の決めた道に私以上の味方はいないと、誰もに認めさせろ。それができるか?」
「必ずや。やってみせます、兄上…いえ、皇太子殿下」
シウォンはリフキアのまぶたに手を置く。
「ほら、まずはゆっくり養生して体を治せ」
「…はい、兄上」
リフキアはすうっと引き込まれるように眠りについた。シウォンはその寝顔をしばらく見つめて、それからふと宮殿を散策することにした。




