爺と呼ばれる男
リフキアの皇太子宮での生活が始まって一週間が経った。
朝はナフカより早起きをして、シウォンの朝の紅茶に用いる道具を一式揃えて待っているし、紅茶についての知識も得たようである。
それだけでは意味はないのだが―
(そろそろ次の段階だろうか。)
ナフカはシウォンに提案する。
「…面白いな」
一言だけ、そう告げる。
「そうとなれば予定の調節をしてくれ。機会は多い方がいい」
「承知いたしました」
「えっ…この宮殿の清掃を私が?」
「はい。シウォン様からそうするようにと仰せつかっております」
ナフカは清掃員用の服と、道具を一式手渡す。リフキアは不思議そうにそれを受けとる。
「清掃の手順やらはそこの爺に聞いてください。では、爺。よろしくお願いしますね」
爺と呼ばれた男はリフキアの腰の高さくらいの背の小さな老人で、鷹のような鋭い眼光がリフキアを見つめている。
「わしは手加減はせぬぞ、ナフカ」
「ええ。皇太子殿下は構わないとの仰せです」
ナフカは一礼して去っていく。リフキアはその背を寂しく思いながら見つめる。
「ほれ、ぼーっとせんで早く着替えんかい!」
怒鳴られてリフキアは慌てて自室で着替えを済ます。そして駆け足で戻ってくると、爺はリフキアに箒と雑巾、バケツの三点セットを渡す。
「あんたにはここの廊下を任せる…んぁ?なんだ、その珍妙な顔は」
爺はリフキアが渡された道具を物珍しく見つめていることに気がついた。
「…まさか、見たことがないと言うんか」
まあ、掃き掃除や拭き掃除は人の通りが少ない時間にやるものではあるけれど、見たことがないとはまた厄介なものだ、と爺は呆れてため息をついた。
「かせい、少年」
爺はリフキアの持つ箒を手にした。
「よいか、まずはこの箒で床を掃く。そして集めた塵を棄てて、今度はこの雑巾を濡らして拭きあげる。この時、廊下を水浸しにすると、殿下に万一があった時に近衛兵や執務官が滑ってしまう。彼らの靴は皮でできておるからな。一度拭きあげたら、雑巾を固く絞ってもう一度拭くのだ。…何かわからないことは?」
「…ひとまずは理解した」
「そうか」
すると、シウォンが執務室から出てきた。ナフカとキシュも一緒である。
爺は風のような速さでリフキアを壁に引っ張った。そしてリフキアの頭をぐいっと押し下げる。
「いってらっしゃいませ」
「ああ、今日も頼むぞ」
シウォンが去っていくと、爺はリフキアから手を離した。
「何をする!いきなりで驚いたぞ」
「何をぼさっとしとるのか聞きたいのはわしの方じゃ!なぜすぐに殿下の道を開けなかった!あんたは清掃員じゃろ」
「…ぁ」
リフキアはただ、兄に挨拶をしようとしていただけだった。だが、自分の格好はただの清掃員である。
「置かれた状況が理解できたらさっさと取りかかれ。本来は主であられる殿下がここを通られる前にこの廊下の掃除は終えなくてはならんのだ。殿下のお戻りまでに終わらせるぞ」
リフキアは一線を引かれたのだと自覚した。
兄として接していたこれまでと、ただの清掃員では訳が違う。確実にそこには大きな壁が敷かれていた。
清掃をしようにも一からの基礎がないリフキアは、爺に掃き方で叱られ、雑巾の絞り方を叱られ、拭き方を叱られ、八日目の今日は全くもって満足のいく結果にはならなかった。
翌日も、ただ清掃員として宮殿の掃除を行う。リフキアが道を譲らなくてはならないのは、なにも兄シウォンだけではない。清掃員は宮殿に仕える者のなかでも下位の存在。執務官のナフカ、近衛隊長のキシュ、近衛兵にですら頭を下げる。そして皇太子宮を訪れた大臣達にもである。
リフキアの心の中で、明らかにこの現状を不満に思う感情が芽生えていた。何のために、という疑問に答えを出してくれる者はいないのである。
リフキアが悶々とした数日を過ごして、十日目。爺はシウォンの執務室に呼ばれた。
「どうだ、弟の様子は」
「…迷われておるようです」
「そうか」
シウォンは小さな笑みを浮かべている。
「あいつも元は馬鹿ではない。今していることが何になるのかと思っているのだろう。爺、もうしばらく頼む」
「…仰せのままに」
多くの人間が語るように、シウォンは爺にとっても謎の深い人に違いはなかった。初め、シウォンからリフキアに清掃させると聞いたときも、耳を疑ってしまった。
シウォンの天才性は、謎の部分が解明されてから認められるものではあるが、本当のシウォンの天才性は人を見る目ではないかと爺は思う。
この宮殿に仕えている者は、ナフカにしろキシュにしろ、今でこそ名声を得ているが元は平民の出身である。本来ナフカ達はシウォンの姿すら見ることができないはずの場所にいたのに、そこからその才能を見つけ出したのはシウォンである。
他にもこの宮殿には貴族の次男、三男が出仕しているが、皆、皇立学校の成績優秀な人材である。
まだ十八歳の若者が、政務の一端の担い手で、すでに優秀なブレーンを持ち合わせている。こんな末恐ろしいことがあるのだろうか。
いずれ、必ず大陸に名を馳せる帝になることは間違いないだろうが、それ以上の期待を爺は寄せている。生きているうちにどれだけこの若者の進化を目にできるのか、老いた爺の唯一の楽しみであった。




