グリュネール家の温かさ
三日後。
シウォン達は宮殿を出て都、イスファルに出ていた。向かう先はグリュネール邸である。
一同にとっては実に一年半ぶりの休暇になった。いい加減休めとアドロフ三世帝からは言われていたが、そう言いつつ仕事を回してくるのは帝自身であって、結局、公務の視察以外には外に出られなかったのだ。
「なあ、シウォン。何か声をかけるべきではなかったのか?」
馬車の中でキシュが複雑な感情をシウォンに向けて言う。
「言っただろう」
「…そうじゃなくてだなぁ」
素っ気ないシウォンにキシュは難しい顔をした。
宮殿を出る直前のこと。
馬車の待機場所でナフカが荷物を乗せている間、外で待っていたシウォンに、第二皇子リフキア=イスファターナが話しかけてきたのである。
「あっ…ぁあの、兄上!おはようございます」
少したどたどしい口調でリフキアは言う。内向的なリフキアは、どこかいつも緊張しがちで怯えているように見える。
「おはよう、リフキア」
シウォンはそんなリフキアに軽く言葉を返した。そのあまりの淡白さにリフキアはかえって怯えたのだろう。
「こ…これからどこかへ向かわれるのですか」
上ずったような声でリフキアは言った。
「視察だ。休暇も兼ねてのな」
「兄上…その、道中お気をつけて。ご無事のお帰りを」
これから戦場に行くわけでもないのに、とシウォンは思ったが、「ああ」と一言だけ述べて、馬車に乗り込んだのである。
「あんな言い方、しなくてもいいのに。母親は違っても唯一の兄弟だろう?」
キシュが言うと、シウォンはそれを無視して外の景色を眺めていた。
「…まあ、でもリフキア様がいらっしゃっただけのことが動いていると仮定して、俺達も動かないとな」
ナフカが言うと、キシュが頷いた。
「リフキア…あいつはもう少し、自分の力が何に使えるのかを考えて動けるいいんだが」
シウォンが呟く。
三つ年下の異母弟であるリフキアは、現皇妃シシルの息子である。シウォンがいなくなれば今のところ次の帝はリフキアになるわけで、そうなると彼の内向的な性格は厄介なものである。
そもそも、リフキアの内向的な性格は後天的なものだった。
二年前、十四歳で側付きの武官を与えられたリフキアは、もともとの明るさと正直な性格で武官と良好な関係を築いていた。
ところがその一年後、公務で外出した際、現皇妃の息子であるという理由でリフキアは命を狙われ、その武官は絶命した。
他人に命を狙われる恐怖と、大切な存在を失ったこともあり、それからほとんど自分の宮殿から出なくなったのである。
「…最悪なことに皇妃のいいなりだ。意思のないものほど面倒なものはないのだから」
「《《そんな言い方》》はしなくてもいいが、リフキア様にお前が何かを託せるぐらいの人となってくれれば、お前も助かるだろうよ」
ナフカもやれやれとそう口にした。
そんなことを話しているうちに、馬車が停車した。どうやらグリュネール邸に到着したらしい。
馬車を降りると、使用人が挨拶に出てきた。
「これは殿下、キシュ様、それに坊っちゃんもようこそいらっしゃいました」
「坊っちゃんはよしてくれ、ヒガタ」
ヒガタはグリュネール家で唯一ナフカの過去を知る使用人である。普段は使用人として邸を守っているが、シュワームの陰の立役者としても働いているのだ。
ヒガタと挨拶をしているところで、ナフカはシウォンとキシュの視線が自分に集まるのを感じた。
「坊っちゃんか…」
「坊っちゃんとな」
「何が言いたい?」
ナフカは二人を睨む。
「いや、新鮮なだけだよ。泣く子も黙る皇太子宮殿の執務官が、坊っちゃんと呼ばれるなんて」
シウォンがからかう。
「泣く子も黙るって、俺はそんな行動に出たことはないぞ!っ…ヒガタが坊っちゃんなんて言うからだなぁ…!」
すると、通りに一人の女性が出てきた。それを見てナフカは駆け寄る。
「ハサキさん、お久しぶりです」
「ほんとよ、全く。全然顔を見せてくれないんだから」
「奥様、出てこられずとも…」
ヒガタが言うと、この夫人は頬を膨らせて言った。
「出迎えくらいしたいわ。玄関で待ってるなんて、待ちくたびれちゃうもの」
ナフカの養母で、シュワーム=グリュネール夫人ことハサキは、変わらない笑顔と明るさで出迎えてくれた。
「すみません、ナフカを長いことお借りして」
シウォンが言った。
「いいえ、殿下。それがお仕事ですものね。やっとのお休みと聞きましたわ。頼まれたものも用意してありますから、まずは中に入られてください」
一年半ぶりの邸は変わらずの様子で、何やら少し懐かしさを感じるものがあった。
「ナフカ、久々なんだから今日くらいは俺に構わず、夫人と過ごせ」
シウォンは部屋に荷物を置くと言った。
「いや…しかし」
「キシュがいる。大丈夫だ」
そう言われてリビングに向かうと、ハサキ夫人は続きのテラスで編み物をしていた。
「ハサキさん」
「あら…」
ハサキは作りかけの編み物を籠に置くと、にこやかに手招きした。
「さ、ここに座りなさいな」
「はい…」
女中が持ってきてくれたお茶と菓子をつまみながら、二人は色々なことを話した。
「あの人は元気?」
あの人というのはシュワームのことである。
「ええ。お忙しくされていますが、お元気です」
「そう。半年前にあの人が帰ってきたときは、とってもぐったりしていてね。もう歳だと言っていたのよ?」
「確か、今年で…」
「五十三歳。執務官って、代わりのきかない仕事ですもの。長時間立ってるのですら、もうきついのかもしれないわね」
ハサキはくすくすと笑った。
「私たちがイスファルに出てきてもう三十年くらい経つわ…。昔の生活がよかったとは言えないけれど、少し懐かしい気もするの」
シュワームとハサキはもともとイスファターナの奥地の村の出身だった。農民として毎日畑仕事を勤しむ。そんな毎日を送っていた。
ハサキいわく、シュワームは村の秀才だったそうだ。学びたい―その一心で、シュワームは畑仕事を放り出して、村を出てイスファルに出掛けたのだそうだ。
「当然、村の家族も村長達も怒っていたわ。働き手が一人いなくなるだけでも、大変なことなんですもの。生きることが、まず優先されるの」
夫人はシュワームと同い年の幼馴染みで、密かにシュワームを応援していたらしい。
「だって、あの人が本で得た知識を披露するとき、目がキラキラしてるのだもの。それを見るのが好きだったのよ」
そして村を発つ時も、シュワームはハサキに一言だけ残して行ったのだと言う。
「『迎えに来る』と、そう言ってたわ。そして三年後、本当に迎えに来たの」
イスファルでシュワームは、まず今までの知識でどれだけの力があるのか試すために、この国で一番難しい『執務官任用試験』を受けたらしい。イスファターナの国家任用試験は、門戸は誰にでも開かれているため、貴族でなかったシュワームも受けることはできたのだ。
当然、試験には落ちたが、試験官をしていたルーフェルベクト家の当主、ハディスに興味をもたれたのだそうだ。
ルーフェルベクト家といえば文官を多く輩出していて、学問に熱心な家。シュワームはその推薦で皇立学校の入学を許されたのだった。特にハディスは傑出した才の持ち主で、生涯、勉学に勤しんだのだそうだ。ナフカも彼の著書を全て読んでいた。
「昨年、ハディス様が亡くなられたでしょう。シュワームにとっては今の仕事に出会わせてくれた恩人だった。そしてグリュネールの名をいただいたときも、貴族としての生き方を私達に教えてくれた」
ナフカもハディスに何度か会ったことがあった。そして、イスファターナに来たばかりの頃は少し彼に師事していたこともある。
「君のように熱心な子は歓迎だよ」
当時、政局から離れていたハディスの周りには、いろんな身分の子達が学びに来ていた。
「学ぶことが制限されるような国があったとしたら、それは未来を損なう行為をしているのと同じだ。私はそれを何度と言い続けてきたが、一筋縄ではいかないものなんだ、これが。なぜだかわかるかい?」
「…学ぶことを知らないからでしょうか」
そう言ったナフカにハディスは少し目を丸くして、そしてにこりと笑った。
「学ぶと言う行為は、何も書を読むことだけじゃない。生きる上で必要なことも学んでいるから、知らないということはないさ」
「では…」
「書を読んで学べるということは、平和だということなんだ」
ハディスは言った。
「戦争が絶えないこの時代、人が生きるために手にするのは職だ。君もそうするとは思わないかい?働き手が戦争でどんどん減っていく。未来を作る子どもは、働くことでしか生きていけない。家族を守るためにね」
加えてハディスは言った。
「そしてそれを邪魔するのは身分だ。貴族と平民に何の差があるのか。貴族が学べることは平民も学べていいはずだ。貴族の中には平民を見下す奴もいるが、生きる術を知る平民達に本来は敬意を表すべきだろう。貴族の口にする食は、彼らによって作られているものなのだから。
とはいえ、単純に学びたいとは言っても、それに絡みつく問題があまりに大きすぎるから、少しでも私はこの国を良くしたいと思う人が増えてくれるといいと思っている」
ハディスはグリュネール家の人間に、いくつもの手を伸ばしてくれた。昨年の彼の死は、とても悲しいものだった。
「そして三年後、皇太子付き執務官という今のあなたの称号と同じものを手にして、シュワームは私を迎えに来たの。村の人たちからは罵声を浴びせられて、絶交されてるけど、シュワームは今でも村に仕送りをしてる」
ハサキは言った。
「ナフカ、あなたは苦しくないかしら?」
「苦しい、ですか?」
「そう。あなたの生きる道は、何もシュワームを追いかける道でなくてもいいのよ?」
「…俺は、今のこの場所に連れてきてくれたシュワーム様に感謝しています。そして、殿下もキシュも、出会えてよかったと思える仲間です」
ハサキはにこりと笑った。
「大切なものができたのならよかったわ。いいこと?ナフカ。この先、もし迷ったらまずは心の中で自分の過去を探すの」
「過去ですか」
「その中で一番楽しかった時間を思い出すの。その時間にいた場所は、あなたがきっとそこにいたいと思う場所なのよ。そして、そこにいた人達といられる選択をするの。あなたが少しでも後悔しないために、ね?」
「…はい、心がけてみます」
ハサキはちいさく頷いた。
「部屋にもう行ったかしら?」
「いえ、まだですが…」
「また、いつものが置いてあるわ」
ナフカは二階の南側に与えられた部屋に向かった。もともと書庫だったその場所を、ナフカが来たときにシュワームが部屋として使わせてくれたのである。
机の上に、包装された本が一冊。
いつもナフカが家に帰ってくると、本が置かれている。ナフカが本好きということもあってシュワームがくれるものだった。そして、ナフカはその返しとして毎度、各地の名産のワインを送る。ハサキと二人で楽しんでもらえるように。
包装を解いてその本の題名を見る。
『エドウィンと隠された部屋―J=イェーガー』
その作者を見てナフカは「あっ!」と声をあげた。イスファルで話題の小説家、ジェイルス=イェーガーの最新作。発表と同時に即日売り切れて、その日仕事が遅くまであったナフカは手にすることができなかったのだ。
そしてその本の裏にはカードが挟まっていた。なぜか大陸古代文字という、もうほとんどの人間が読めない文字で書いたのはシュワームの照れ隠しなのか。
『酒豪から本の魔物へ
互いに休暇が重なるなんてまずないから、普段、お前を宮殿でしか見ることはないが、元気にやっているだろうか。
出来心で珍しく手紙を書いてしまったから、あまりまともな文章ではないが、たまにはこういう楽しめる本も読めばいいと思って、この本を選んだ。
せっかくの休暇だ。のんびり体を休めること』
―ああもう、本当にこの家は温かい。
ナフカは、もらった本を一ページ、一ページ楽しそうに読み始めたのだった。




