カトレシアの令嬢
「では殿下、我々はこれにて失礼致します」
皇太子宮殿の中庭に用意された席にシウォンが着くと、ナフカとキシュはその場から去った。無論、万一のため二人は近くに待機するのだが、これから来る人物を待つ時間がやたらと長く思われる。
カトレシア家に文を出して七日後、用意された顔合わせの場で、シウォンは慣れないことに戸惑っていた。そのせいで何度もティーカップに注がれている紅茶を口にしてしまう。その度に近くの女官が紅茶を注ぎに来た。
「殿下、カトレシア家、ルージュ=カトレシア嬢が到着されました」
女官の声に、「通せ」と一言応えたシウォンは、心臓がバクバク音を立てるのをなんとか抑えようと深呼吸をした。そして冷静を装って席を立ち上がると、女官に率いられてやって来る人物が一人。
控えめの紫のドレスを纏ってやって来た彼女はやはり名門貴族の娘であるだけあって、一つ一つの行動に気品を感じた。
「カトレシア家当主ヒジェールが娘、ルージュ=カトレシアでございます。殿下にご挨拶を申し上げます」
深々と礼を施すルージュに、シウォンも挨拶を返す。
「皇太子シウォン=イスファターナだ。私もあなたに会えてうれしいよ」
シウォンはルージュを席に誘導して座らせると、用意した茶菓子をまずは勧める。
「口に合うかわからないが、私はこれを気に入っている。よかったら食べてくれ」
「ありがとうございます」
シウォンは自らも茶菓子に手を出しながら尋ねた。
「あなたは一応、私の義従妹ということになるわけだな」
「…左様でございますね」
「私は馬であちこちを回るのが好きなんだが、あなたも何か嗜まれたりするのか?」
「…貴族の嗜みごとくらいのものは少々」
ルージュはそう言うと、シウォンに小さく笑いかけた。
「なぜこれまで社交の場に出なかったのか、とはお尋ねにならないのですね。いただいた手紙もそうでしたが」
「…気になりはしたが、人には自由があって然るべきだろう。民達の結婚はだいたい二十歳を過ぎてからだし、貴族だってそのくらいで結婚しても悪いことは何もない。最近は幼い間から婚約者などと決めているようだが、私はこの国に相応しい人ではあれば、誰でも妃に選びたいと思っている」
「貴族でなくても…とおっしゃるのですね」
「そうだな」
即答したシウォンに、ルージュは何かを確信した様子で話し始めた。
「やはり、殿下は新しい風をもたらすお方のようですね」
ルージュはシウォンの目を見つめていた。
「イスファターナは現帝陛下までの治世で、その国家体制を磐石に保って参りました。でも、時代は変わっていきます。かつての体制を意識しすぎては時代から取り残されます」
「…」
「…私がこう申し上げますのは、殿下。私はこの国の政治を司る役人になりたかったのです」
そう言ったルージュの言葉にシウォンは驚く。
「役人か」
「えぇ。でも、この国は男性しか役人にはなれません。家の当主だってそうです。未亡人となった貴族の夫人が代理で当主になることはあっても、それは代理でしかありません。実のところ、私が社交界に出なかったのは、女だからといって役人となることを諦めきれなかったからです」
一歩間違えればそれは、この国を否定する意見ととられてもおかしくない。しかし、シウォンはルージュの意見を他人事のようには思えなかった。
「…なぜ、役人に?」
「私、亡き母が生前にしていた慈善事業を引き継いでやっているのですが、戦争で親を亡くしたり、家庭が貧しくてこどもも働いていたりという姿を目にしました。私はイスファターナが好きです。ですが、このイスファターナはもっと良くなれると信じています。だから役人を目指しました」
ルージュは自らの手帳から一枚の写真を取り出した。そこには子ども達と遊ぶルージュの姿があった。
「可愛いでしょう?私はカトレシア家の人間ですが、男でもなければ父の先妻の一人娘。私しか、母が残してきたものを継げる人間はいないと思うのです。そのためには結婚をする必要もないと考えていました。でも、私が死んでしまったらそれも継げなくなる」
ルージュはシウォンに言った。
「殿下、無礼は承知の上で進言させてください。この国の未来を作るのは子ども達です。親を亡くしたりや家庭の事情というのはすべて大人の責任です。子どもが背負うものじゃありません。殿下にはそれを忘れないでほしいのです」
シウォンはしばらくルージュを見つめた。
国をこれだけ考えている人に出逢えたのはきっと、幸運にちがいない。
でも―それを縛ってはいけない気がする。
「…ルージュ殿。あなたのお志は私の胸に刻ませてもらう。あなたは今日という日を顔合わせの場ではなく、私に意見を述べるために来たのだな」
「それに関しては大変申し訳なく思っております、殿下」
「謝ることはない。同い年の令嬢にこんな風に国を思ってくれる人がいるなんて、とてもうれしい」
シウォンは笑った。これはルージュに向けてというより自分自身に対してだった。会ったこともない相手を初めから貴族の媚びへつらうような娘と、どこかで決めつけていた自分を恥じたのである。
「出逢ったばかりでこんなことを言うのもなんだか早急すぎるかもしれないが…どうだろう、あなたと友人になりたい。そしてあなたの活動を今後教えてほしい。共に国を作る仲間として」
「友人…ですか」
「私はこう見えて同い年の友人がいない。私は皇太子としてはそれなりに視察に出ている方ではあるが、自由に外を見られる立場じゃない。これからは友人として、あなたの目で、この国の現状を伝えてくれないか?」
ルージュは立ち上がると深く礼を行った。
「私も嬉しく存じます。友人とおっしゃってくださった今日の日を忘れることなく、殿下の治められるこの国の未来にわずかでもお力添えをできるよう精進いたします」
「ありがとう。こちらこそ、よろしく頼む」
シウォンも立ち上がって、そしてルージュに手を差し出した。しかし、ルージュは手を取らなかった。
「…ですが、殿下。父が私を殿下のもとに送ったからには意味があることもお忘れなく。私は心はそうでなくとも、この身に流れる血だけはカトレシアなのです」
つまりはそこに利点があるということである。シウォンもそれについてはわかっていた。
「人というものは心を得る方が難しいもの。だが、私はあなたの心を得られたようだ。カトレシア卿は確かに端から見れば私と対立する勢力の構図に見えるかもしれない。しかし私にとっては国を考える臣下の一人だ。私の意見に反対する者がいてこそ、政治はその精度をより高くするのだから、本来、殺伐とすること自体が誤っていると私は思う」
ルージュは少し驚いたようにシウォンを見ていた。当然だろう。端から見ずともカトレシア家が皇太子であるシウォンを邪魔に思っているのは明らかなのである。それに対してのシウォンの考えは意外というに尽きるものだった。
「お優しいのですね、殿下は。正直驚きました。カトレシアのことをそのようにお思いであられるとは思わなかったものですから」
「考え方の違いでしょう。一つだけ訂正するなら、私はあくまで皇太子だということです」
シウォンはルージュの手を取った。ルージュはシウォンの笑顔を見て背筋が寒々しく感じた。その笑顔はそれまでの笑顔とは別種のもの。皇族だからこその笑顔に見えた。相手を見下ろし、威圧するようにさえ感じられる。
『人』と『皇族』とを明確に区分するようなその笑みに、ルージュは頭を下げた。
「……それは、失礼を申し上げました」
「気にすることはありませんよ」
なおもシウォンは笑っている。
若くして時期帝と期待される皇太子、シウォン=イスファターナ。ルージュはイスファターナの将来の期待と同時にシウォンという人物への興味に沸いていた。
しばらく後にルージュが帰っていき、シウォンは自室で礼服を脱いでくつろいだ。
「ルージュ姫なら、お前は選ぶんじゃないかって思ってた。血はともかく、妃には十分な人だろう」
キシュが言った。
「そうだな…ルージュ殿ほど国を考えてくれる人は今まで出会ったことがない。家のことはともかく、ルージュ殿はとても魅力的な人だとも思ったよ。でも、彼女には決めた道がある。その道はたぶん、皇妃となったらできなくなってしまう…そう思った」
「だから友人にと?」
「彼女にとっても悪い話ではないだろう。皇太子という絶対的友人かつ協力者だ。打算的に友人と言ったわけではないが、俺が直接手を伸ばせないところに伸ばせる存在がいるのは、心強い」
ナフカはそれを聞いて頷くだけだった。
「シウォン、やることが出来たんだろ?」
ナフカの問いにシウォンは「ああ」と答えた。
「視察に出る。キシュ、近衛庁に申請を出してこい」
「わかった」
「…へえ、ルージュとの顔合わせで特に今後発展しそうにはないのね」
イスファターナの宮殿の一画でこの国の皇妃、シシルは言った。
「あの子は変わり者だものね。それで友人ですって?本当に何を考えているのやら。お兄様に連絡を。カトレシアが生き残るためにやることがあると」
扇で顔を隠しながら伝令にそう伝えると、隣に座る息子を見て皇妃シシルは言った。
「あなたもこれからは覚悟を決めなさい。あなたがこの国を作る帝となることを」
「…しかし母上、兄上はその器と器量を兼ね備えた方。周囲も認める兄上を私が超えることなど…」
第二皇子リフキア=イスファターナは言った。黒髪に黒い瞳の、性格の穏やかな彼は少し内向的で、あまり皇家の中でも目立つ存在ではない。
「やらないうちからそのようなことを言ってどうするのです。とにかく、あなたには帝になってもらわなくては困るのです。よいですね?」
「…精進いたします、母上」
イスファターナに黒い雲が近づこうとしていた。もたらすのは災いの雨か、幸福の虹か。まだ、誰にもわからないことである。




