イスファターナの朝
「ああ…うまい」
自分で淹れたコーヒーが一日の始まり。夜明けと共に目を覚まして、主が目覚める七時までに身の回りを整える。
イスファターナ皇国の都イスファルの宮殿にて、ナフカ=グリュネールは今日も仕事をはじめる。
皇太子の執務官として働くナフカは、宮殿で誰よりも早起きだ。まだ眠りきっている宮殿は、昼間と違いとても静か。そんな中、少し明るくなり始めた空に光る星を見ながらコーヒーを飲むのがナフカの至福の時間なのである。
この国で一番難しいと言われる執務官任用試験を、十八歳という異例の若さで一発合格し、皇太子付きの執務官となって二年。
任用当時から銀髪に整いすぎた容姿は絶賛されていたが、それはまだまだ劣る気配を見せない。
イスファターナ帝アドロフ三世の執務官、帝の右腕として諸国に名を覇せるシュワーム=グリュネールは、六年前からこのナフカの養父で、彼の教育のお陰でここまで来ることができたと言っても過言ではない。
しかし養父のシュワームは、ナフカがそう言うと、「嫌味はよせ」と、言うのである。
ナフカは生まれつき、ものの察しがよかった。
昔の経験もあって、人の観察はもはや習性だし、状況判断は得意とした。その過去を語ることは決してないが、ナフカの幸せの一つは仕える主がそれを許していることでもあった。
「話したくなったら話せばいい。そう焦ることもない」
初めて仕える日の朝、皇太子は言った。
今では皇太子にとってナフカは無くてはならない存在であり、それはナフカにとっても同じである。
皇太子シウォン=イスファターナ。頭脳明晰、数々の武術大会では優勝の実績を残す期待の皇太子である。
そしてナフカと並び賞されるその容姿である。イスファターナの皇族の血統を引いた黒髪と深い青色の瞳。今は亡きシウォンの母親が帝国の流れを汲む人だったらしく、とにかくこの目で見つめられた人間は、その瞳の前に何も言えなくなってしまうという。
「おはようございます、殿下。起床の時刻でございます」
「…」
そんな期待の皇太子、シウォンの唯一の弱点といえるものが朝だった。とにかく朝は目覚めない。起こすのに苦労するのもいつものことで、ナフカは最終手段に出る。
シウォンの上布団を奪い、カーテンを開け、窓を開け放つ。冬も終わりを告げるこの頃でも、まだ朝は寒い。冷たい冷気がシウォンに襲いかかった。
「おわっ!…っナフカ、お前…俺を殺す気か?凍死するだろうが!」
眠気もすっかり覚めて寝台を降りた皇太子シウォンは言う。
「このくらいの事では人は死にません。だいたい、素直に起きてくだされば何の問題もないんです」
そう言いつつ、ナフカは目覚めの茶を淹れる。
「今朝はディンブラか」
香りで気付いたシウォンは言った。
「お好みでミルクを入れられますか?」
「いや、ストレートでいい」
シウォンはいつも朝一に、ナフカの趣味で各地から集められた紅茶を飲んでいる。元は連日連夜の上奏の片付けに、少しでも安らぎをとナフカが配慮したものが習慣となったのである。お陰でシウォンもある程度香りで紅茶を判断できるようになった。
「今日の予定は?」
出された紅茶を飲みながらシウォンが尋ねる。
「上奏はあらかた昨日までに仕上げてくださいましたので、今日は別の件で頭を悩ませることになるかと」
「なんだ?だいたいの検討はつくから、もったいぶらずに話せ」
「では。殿下のもとにまたお見合い話のリストが届いております」
シウォンはたびたびやって来るその手の話を、あれやこれやの理由をつけてすべて断っていた。二週間前に断ったのにまた来たのかと、シウォンはナフカを睨む。
「こればかりは私も捌けませんので睨まれましても。それに、今回は少しただ事として見ているわけにはいかないかと思われます」
皇族の婚姻は『宮の殿』という部署が統括する。その他にも皇族の行事などもすべてここが取り決めている。帝も簡単には蔑ろにできないこの場所からの依頼は、ナフカにはどうすることもできないのであった。
「今回のリストにはカトレシア家のご令嬢の名前がございます」
「は?」
シウォンは思わず思い切り素の声をあげた。世に出回るシウォンの評価と素の姿は少し違う。時には反発することもあるし、それを見る限りはまだ十代の青年なのである。その場に他の人間がいなかったのが幸いだった。
カトレシア家は現皇妃シシルの実家であり、イスファターナでは古くからの上位貴族として名を連ねている。確か、ヒジェールというシシルの兄が当主で、その子どもの中に娘が一人いた気がする。気がするというのは、シウォンの記憶の中にその娘の記憶が無いからである。
現皇妃の実家の令嬢なら、社交の場ではとりあえず挨拶するだろう。だが、シウォンはこれまで会ったこともないし、よくよく考えればこれまでリストに名前がなかったのも不思議なことである。シウォンが薄くでも認識していたのが奇跡とも言えた。
「…なんで急に?」
「それはわかりませんが、そのご令嬢もそろそろ結婚してもおかしくない年頃。社交の場を嫌われて表に出てこられなかったのかもしれません。しかしこう名前が載っていると知っていて、無視するのもまた失礼ではないでしょうか」
シウォンは紅茶を飲み終えると、苦々しい顔で言った。
「…実に面倒だ」
「はい、本当に」
シウォンはリストが『宮の殿』から送られてくるようになった頃、言っていた。
『妃のことは私が決める。家柄ではなく、この国に相応しい妃を選びたい。いずれ帝となる私の側ではきっと苦労をかけるが、その代わり私は生涯一人の妃を愛し抜くつもりだ』
彼のこの決意表明は、単に夢や理想に溢れた若気の至りと片付けられるものではない。
シウォンは現在十八歳。今では帝の公務の一端を担うこともある。
生まれながら将来の帝として生きてきたシウォンに課せられた重圧は、簡単に想像できるものではないが、それに応える努力を忘れたことは一度もない。
それゆえに、いかにカトレシア家の令嬢であろうとも、シウォンはこの件を素直に呑み込むわけにはいかなかった。
「…ナフカ、カトレシア家の令嬢に文を当てる。用意をしろ」
熟考の末にシウォンは重たい口を開いた。
「お会いになりますか」
「一つでも見合いをすればしばらくは夜会を開かずに済む。そうなれば国の金を他に回せるし、私もしばらくは結婚の話から身を引けるだろう」
ここでの話を宮の殿にそのまま伝えたらきっと官吏達は怒り心頭だろう。
だが、ナフカもシウォンの妃に対する考え方には賛同している。歴史を振り替えれば妃によって国の政が傾いた話は珍しくない。シウォンと同様、数に頼るよりもより慎重に吟味することが必要だとナフカは思っている。
「かしこまりました。ご用意いたします。それと殿下、今日がいかなる日かご存じですか?」
しばらく頭上に疑問符を浮かべていたシウォンだったが、時期に「あっ」と一声口にした。
「今日だったな、あいつが帰ってくるのは」
そう言うシウォンの表情は先程と一転して綻んでいる。
「ええ、おそらくもう執務室に着く頃かと」
「一ヶ月も鍛えられればさぞげっそりしているだろうな」
「では、支度を急ぎましょうか」
一ヶ月ぶりに帰ってくる人物の名はキシュ=コンワート。二十五歳。
先月までこの皇太子宮殿でシウォンの護衛官兼皇太子宮近衛隊長として勤めていた人物である。
諸国には『雷帝キシュ』の名でその名を知られていて、元将軍の経歴を持ち、五年前軍部から近衛隊に移り、シウォンの側で働いている。
キシュが一ヶ月も皇太子宮殿を不在にしたのは、近衛隊の隊士としての昇級試験を受けに行っていたからであった。
近衛隊と呼ぶが正式には近衛庁という大きな部署があり、その中に帝を護る親衛隊と、帝以外の皇族や宮殿を警護する近衛隊がある。
親衛隊に加入するには、三等隊士以上の位が必要であった。また、親衛隊の隊長として勤めるならば一等隊士の位が必須で、その地位は大抵、皇太子時代に近衛隊長を勤めていた者がそのまま勤めるのが常である。
キシュは二等隊士の資格を軍から移籍した際に受けていたが、次期帝となる皇太子の側近として今後も働くとなると一等隊士である必要が出てきた。よって今回、一等隊士の資格を受けに一ヶ月、近衛庁舎に行っていたのだ。
「そもそも、机に座るのが苦手な奴だぞ?本当に一等隊士の資格を受けられるんだろうな」
キシュを待ちながらシウォンは言った。確かに常に動いているイメージの強いキシュだし、近衛庁の一等隊士の資格はそう簡単に取れるものではないと聞いていたから、ナフカもいささか心配していたが―
その時である。部屋の扉がノックされ、ついにやって来た。
「失礼します!シウォン殿下、キシュ=コンワート、一等隊士近衛隊長として帰って参りました!」
少し赤みのある茶髪の髪に、はつらつとした表情のキシュはシウォンやナフカの想像を越えて元気よく現れた。
「お帰り、キシュ。一ヶ月の勉強生活はどうだった?」
シウォンが言う。
「いやぁ、慣れないことはするもんじゃないですね。あんなに勉強したのは軍に入るとき以来ですよ」
つまりはほぼ十三年ぶりだと言うことらしい。勉強することがもはや趣味ともいえるシウォンとナフカが少し了承しづらい様子でいると、キシュが懐から手紙を出した。
「これを。近衛庁司令長官から預かってきました。中身は私も知らないのですが」
「…ナフカ、先に見ていいぞ。俺は面白おかしい内容だと想像する」
シウォンが面白がりながら予想をする。
仕方なく、主人より先に中身を開いてみたナフカは、内容と送り主のこれをしたためているときの表情を想像して笑った。シウォンは「ほらな?」といった満足げな様子だ。
ちなみに中身はこうである。
『 皇太子殿下
この度キシュ=コンワートの一等隊士の資格は無事に合格いたしました。
殿下や皇太子宮の皆さまにおかれては近衛庁の合格判定に疑問を抱かれることもあるかもしれませんが、そこは私どもの方で厳正に審査しておりますのでどうかご安心ください。
近衛庁司令長官 ミュンツェル=ハシュフォード
近衛庁司令副長官 ギュンター=タンベルク 』
ナフカから受け取って読んだシウォンも次第に肩を震わせる。そして最後に手紙を受け取ったキシュは呆れ呆れに言った。
「あの方たち、そんな内容をわざわざ文にして渡したんですか。もう、この一ヶ月は大変だったんですから」
キシュいわく、一等隊士の試験にはまず四十八時間不眠試験というのがあるらしい。具体的には、屋外で二日間決められた警護の姿勢で立つ試験だ。許されるのは水を飲むことだけなのだとか。
元々軍人のキシュは飲まず食わず、不眠不休のような場面を戦場で何度か体験していため、それを一発で合格したらしいが、実はこれで大半の人間が脱落していくようだ。
そのあと待ち受けていたのは近衛長官ミュンツェルと、副長官ギュンターからの執拗な嫌がらせであった。
近衛庁の仕事をいくつかこなさなくてはならないのだが、それが理不尽な仕事ばかりなのだという。理不尽な命令も主人のために全うする―という近衛の訓を身を持って学ぶためなのだとか。
ちなみに、ミュンツェルとギュンターはキシュと同じく軍からやって来たため、お互いの存在はよく知っていた。そんなわけで、キシュの嫌がらせは他の試験者よりタチが悪かったようだ。
そんな一ヶ月を経て、ようやく合格したらしい。
ミュンツェルやギュンターの嫌がらせは単にキシュをからかいたいだけ、とも言えるが、わざわざ文をシウォンに渡すあたり、キシュはたいそう二人に気に入られているとも思われる。
「まあ、とにかくよくやった。ありがとう、キシュ」
「いえ、私のためでもありますから」
「そうか。さて、今日も忙しくなる。頼むぞ」
「頼むぞ」というシウォンのその言葉が一日の始まり。
「シウォン、これ。紙とペン。昼までには出したいからカトレシア家への手紙、今すぐ書いてくれ」
そう言うのはナフカ。
「話題に上がっていたぞ。カトレシア家の令嬢がリストに上がったって表宮殿は騒いでいた」
今度はキシュ。
およそ、二人とも一国の皇太子に向ける話し方ではない。しかし、これがここの流儀。シウォンがそうするように命じているのだった。
いずれは帝になる身として、大事な臣下は自らの目で判断する。シウォンはこれまでそうしてきた。自分には無いものをくれる存在。だからこそ、皇太子としてではなく一人の人間として二人とは向き合いたい。
「…まったく面倒だ。つまりはあれだろう?カトレシアの令嬢に恋文に近いものを送るのだろう」
「ま、そういうことだな」
ナフカはうなずく。
「今までその手の話は断ってきたんだ。ちゃんと書けるのか?」
キシュがシウォンをからかうように言う。
「うるさい!それくらい書ける!」
カリカリと羽ペンを動かすシウォンを見ながらナフカとキシュは笑いあった。
三人のもとに今日も平和な一日がはじまる。




