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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第6章 魔王

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第99話 約束手形

 城のほど近く、難を逃れた離れの応接室に、四人は腰を落ち着けた。

 石の壁に、簡素な長椅子。けれど地の底や戦場に比べれば、ここは確かに「人の暮らす場所」だった。

 イルミナはもう仮面をつけていなかった。素顔のまま、窓辺の椅子に腰かけている。陽の光がその横顔を照らしていた。

 彼女は、ぽつりと言った。

「ねえ、ゼンさん」

「ん?」

 窓枠に置かれた手が、膝の上の薄布をきゅっと握ったのが、視界の端に映った。

 けれど、続いた声は、わざと作ったように淡々としていた。

「このまま、魔族領で暮らさない?」


 俺は、顔を上げた。

 イルミナは、まっすぐにこちらを見ていた。

「あなたはもう、王国にはいられない。勇者一行を抜けて魔王につき、勇者には裏切り者と呼ばれた。戻る場所なんて、どこにもないでしょう」

 淡々と、けれど確かめるように。

「行く当てがないなら、ここにいればいい。魔族領なら、あなたを追う者はいない。誰にも咎められず、静かに暮らせる」


 行き場のない男への、救いの手だった。

 ……いや。

 救いの手に見せかけた、それだけじゃない何かが、握りしめた指のなかに隠れていた。けれど彼女はそれを表に出すまいと、声だけは平らに保っている。

 もともと追放された身。帰る家もない。確かに、ここに留まるのが一番、楽だ。

 だけど。

 俺の心を縛っているのは、行き場のなさじゃなかった。


 土煙の向こうに残してきたレオンとエレーヌ。

 まだ救えていない、二百年の戦争。

 そして——消えてしまったイリア。

 そのどれも、ここで静かに暮らせば忘れられる、というものじゃなかった。


 前世の俺なら、逃げただろう。

 いや、逃げたんだ。あの頃の俺は、いつだって。面倒なことから、向き合うべきことから、傷つくことから。背を向けて、口だけで誤魔化して、逃げつづけた。それで何もかも失った。

 だけど、今度は違う。

 逃げてきた前世とは、違う。

 今度は、留まって言葉を尽くす。逃げない。向き合う。

 それが、やり直すと決めた俺の、たった一つの覚悟だった。


「……ありがとう」

 俺は、静かに頷いた。

「その言葉は、本当に嬉しい。だけど、まだ俺にはやることが残ってる。逃げるわけにはいかないんだ」

 イルミナは、しばらく俺を見つめていた。

 それから、ふっと肩の力を抜いて、強がるように微笑んだ。握っていた薄布から、そっと指がほどける。

「……そう。あなたなら、そう言うと思った」

 窓の外の、乾いた青に目をやる。少しだけ眩しそうに。

「ちょっとだけ、引き止めてみたくなっただけ。……忘れて」


 頷いた俺は、ふと、懐に手を入れた。

 固い紙の感触。

 取り出したのは、一枚の——約束手形だった。


 皺の寄った、けれど大事に折り畳まれていた一枚。

 エルバラの町で、物資と馬を借りた時のものだった。あの時、隊には金がなかった。先に進むには、どうしても馬と食料がいる。だから、後払いの約束を交わした。ヴェルゲンの商会で清算する、信用取引の手形。

 そこには、六名の署名が連なっていた。


 俺は、その署名をひとつずつ、指でなぞった。


 いちばん上は、レオン。紙の枠を突き破りそうなほど大きく、力強い。一画ごとに迷いのない、自信に満ちた筆跡だった。あいつらしい。

 その隣に、エレーヌ。定規で引いたように真っ直ぐで、几帳面に過ぎる細い文字。一字も崩さない、生真面目さがそのまま線になったような署名だ。

 その下に、二つ。

 堂々とした崩し字と、大きさも形も不揃いな字。名前を読まずとも、誰の文字かわかった。

 それから、俺自身の署名。コンサルくずれの、妙に端正なだけの字。

 そして、いちばん端。

 少し掠れた、ためらいがちな線。最後の一画だけが、ふっと柔らかく跳ねている。

 イリアの、サインだった。

 そこで、指が止まった。


 六人。かつて、勇者一行だった頃の。

 今はもう、散り散りになった。そして、還らぬ者も。

 この一枚は、あの日、六人が確かにひとつだった証だ。


「ゼン。それは?」

 イルミナが覗き込む。

「借金だよ」

 俺は、苦笑した。

「エルバラで馬と物資を借りた。後払いでな。当ては——暴竜の討伐報酬だった」


 暴竜。

 あの巨大な竜は、ほかでもない、魔族領の関門を脅かしていた魔物だった。農村の人々を、三度の討伐隊を、そして俺の右目を奪った。

 その首を獲れば、魔王から報酬が出るはずだった。だから、後払いでも構わなかった。竜さえ倒せば、金は入る。そういう算段だった。

 つまり、その報酬は、もとよりイルミナが支払うべきものだったんだ。竜は彼女の領地の脅威であり、討伐は彼女のための仕事でもあったのだから。


「……これだけは、片づけさせてくれ」

 俺は、手形を差し出した。

「俺はもう、勇者一行じゃない。剣も振れない。魔法も使えない。だけど、コンサルタントとして交わした約束は、踏み倒したくないんだ。エルバラの連中も、ヴェルゲンの商会も、俺たちを信じて品を貸してくれた。その信義に応えたい」


 剣も、魔法も、何ひとつ持たない男だった。

 戦場では、ただ守られるだけの。

 だけど、最後まで手放さなかったものが、ひとつだけあった。

 コンサルタントとしての、信義。

 交わした約束を違えない。信じてくれた相手を裏切らない。それだけは、口だけ勇者と嗤われた男が、ずっと胸に抱えてきた矜持だった。


 イルミナは、しばらくその手形を見つめていた。

 六つの署名を。

 そして、ふっと、苦笑した。

「……あなたって、本当に。こんな時にまで、コンサルタントなのね」

「悪いか」

「ううん」

 彼女は、首を振った。

「いいわ。ヴェルゲンへの支払いは、わたしが引き受ける。竜はわたしの領地の脅威だった。報酬を出すのは、当然のこと」


 差し出された手形へ、彼女の手が伸びる。

 紙を引き取るその指先が、ほんの一瞬、俺の手の甲に触れた。

 戦場で剣を握ってきたとは思えないほど、温かい指だった。その温もりは、まるで——おまえのその矜持は間違っていない、と。そう肯定してくれるようだった。

「これで、あなたの約束は果たされる」

 手形を、両手でそっと包む。

「ゼンさんの信義は守られる。……わたしが、預かるわ」


 決済される、一枚の手形。

 六人がひとつの隊だった日の、最後の証。

 それが、こうして閉じられていく。

 俺は、なぜか、泣きたいような気持ちになった。

 還らぬ者の署名が、確かにそこに在った。あの少し掠れた、最後だけ柔らかく跳ねる字。あの日、みんな、生きていた。笑っていた。同じ釜の飯を食って、同じ道を歩いていた。

 その記憶ごと、この一枚は、清算される。

 終わりじゃない。けじめだ。

 前へ進むための。

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