第98話 素顔
白い明かりの下。
イルミナの指先が、仮面の縁にかかっていた。
ガランもノクトも、動きを止めて見守っている。
彼女の瞳が、まっすぐに俺を見ていた。
もう、何も隠さない。そう言うように。
その手が、ゆっくりと動いた。
今度は迷わなかった。
仮面の縁に指がかかる。
かちり、と留め具の外れる音。
そして、彼女はそれを顔から離した。
息を、呑んだ。
美しかった。
それは、ただ美しいという言葉では足りなかった。
二百年前の誰かが遺した白い明かりの下に晒されたその顔は、見る者の呼吸を奪うほどに整っていた。透き通るような肌。長い睫毛。形のよい唇。すべてが、まるで作り物みたいに完璧だった。
ガランが息を詰める気配がした。ノクトが言葉を失っているのが分かった。
俺も、しばらく何も言えなかった。
けれど。
その顔は、伏せられていた。
息を呑むほどの美貌が、目を伏せ、まるで恥じ入るように俯いていた。
「……驚いた?」
イルミナは、自嘲するように言った。
「これはね、ゼンさん。転生のときに、願っただけの顔なの」
地の底の、誰もいない静けさのなかで。
「前世のわたしは、こんな顔じゃなかった。ずっと、ずっと、平凡で。鏡を見るたび、ため息をついていた。だからやり直せるなら、今度こそ綺麗に生まれたいって、そう願った。それだけ」
長い睫毛が伏せられたまま、震えた。
「だから、これは本当のわたしじゃない。願いが叶っただけの、借り物の顔。中身は何も変わってないのに、外側だけ作り替えただけの……」
「何を言ってる」
気づけば、俺は口を開いていた。
イルミナが、はっと顔を上げた。
俺はかつて、人の心が見えた。
右目に宿ったスキル。相手の感情が、アイコンになって視える力。喜びも、怒りも、嘘も、隠した想いも、ぜんぶ。
その目は、もうない。失った。今の俺に残された左目は、ただの目だ。
だけど。
今、目の前の彼女が何を感じているのか、俺には分かった。
スキルなんてなくても。アイコンなんて視えなくても。
ずっと顔を隠してきた人が、ようやくそれを晒して、それでもなお『これは本当の自分じゃない』と言っている。その心が、はっきりと読めた。
「それが、間違いなく今の君の顔だ」
俺は、まっすぐに言った。
「願って手に入れた顔だろうと、生まれ持った顔だろうと、関係ない。今、ここに立って俺の前にいる、それが、君だ。借り物でも作り物でもない。今の君の顔だ」
イルミナの瞳が、揺れた。
そして、その頬が、みるみる赤く染まっていく。
「……っ、もう」
彼女は、ふいと顔を背けた。
外したばかりの仮面を、まるで隠れ場所を求めるように胸へ抱え込んで、口元だけでなく耳まで赤くしている。
「……そういうことを、まっすぐ言うのは、ずるい」
拗ねたような、けれど嬉しさを隠しきれない声だった。
一生を、隔てていた。
前世で、伝えられなかった。今度こそと願って、また長い時を要した。
ようやく、届いた。
たった一言。けれど、彼女がずっと聞きたかった言葉が。
俺は、それ以上は何も言わなかった。
と、背後でわざとらしい咳払いが響いた。
振り向けば、ガランが大盾の陰に半分身を隠すようにして、あらぬ方向を見上げている。
「ゴホン。……いや、何でもねえ。続けてくれ、続けて」
誰も続けてなどいないし、続ける気もない。
ノクトはノクトで、やれやれと言わんばかりに首を振っていた。その横顔には、はっきりと『ごちそうさまでした』と書いてある。
「……何だよ」
「いえ。お熱いのは結構なことだと」
しれっと言うノクトの隣で、ガランがまた一つ咳き込んだ。
イルミナが仮面の陰でますます小さくなる。
地の底の静けさ——とは、もう呼べない空気が、四人のあいだを満たしていた。
地下の奥には、もう一本、細い通路が伸びていた。
四人は無言でそこを辿った。
ガランが先頭で大盾を背に、ノクトが殿を務める。俺と、イルミナが真ん中。誰も多くを語らなかった。
石壁を伝う指先の冷たさ。遠くで滴る水の音。足音だけが続いた。
長い坂を登りきると、錆びた鉄の扉があった。
ガランが肩で押し開ける。
光が、なだれ込んできた。
外だった。
城の裏門。ふだんは衛兵が立つはずのそこに、人影はひとつもなかった。あらかじめ手を回し、人払いをさせておいた。あの最後の攻防のあいだに。
俺は目を細めた。
空が、やけに広かった。
雲ひとつない。乾いた青がどこまでも続いている。
たった今まで、地の底の白い明かりの下にいた。その前は、崩落の土煙と、怒号のただ中にいた。
それが嘘みたいに、空は静かだった。
その時だった。
その静けさを破ったのは、城の方角から駆けてくる足音だった。
一人の魔族、イルミナの部下だった。勇者一行が攻め込んでくる前に、彼女が避難させていた者の一人だ。戦える者、ギデオンとヴォルドだけを残し、他は逃がしておいた。その逃れた先から戻ってきたのだ。
息を切らせたその魔族は、イルミナの素顔に一瞬たじろぎ、それでもすぐに膝をついた。
「申し上げ——」
「ギデオンは!? ヴォルドは!?」
報せを最後まで聞くより早く、イルミナの声が飛んだ。素顔を晒したことなど、もう頭から飛んでいるようだった。食い気味のほとんど悲鳴のような問いに、魔族は慌てて顔を上げる。
「は——両名とも、ご無事にございます! ギデオン様は深手を負われましたが、何とか一命は取り留められるかと。ヴォルド様は気を失っておられるのみで、お怪我らしいお怪我は……!」
イルミナの肩から、目に見えて力が抜けた。
「……そう。生きてるのね」
短く呟いて、彼女はようやく一つ、長い息を吐いた。
それから、思い出したように居住まいを正した魔族が、改めて報せをもたらす。
「申し上げます。人間の軍は——勇者レオンと、エレーヌは、城より撤退いたしました」
イルミナの眉が、わずかに動いた。
「増援は?」
「ございません。新手の様子はなく、王都へと退く模様にございます」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
レオン。
土煙の向こうで、俺を裏切り者と呼んだ男。あいつは生きて、戻っていった。
胸の奥で、苦いものがちりりと疼いた。
かつては、背中を預けあった仲だった。同じ飯を食い、同じ夜を越え、何度も互いの命を拾いあった。それが今は、剣を向けあう間柄だ。
あいつの目に、俺はどう映っているのだろう。裏切り者。たった一言で斬り捨てられた関係が、今さら惜しいわけじゃない。惜しいわけじゃ、ないはずだ。
それでも、土煙越しに交わした最後の視線を思い出すと、口の中に砂を噛んだような、ざらついた後味だけが残った。
無意識に奥歯を噛みしめていた自分に気づいて、ふっと力を抜く。
次に会うときは、きっちり決着をつける。
憎しみではない。怒りとも、少し違う。ただ静かに、それは胸の底に沈んで燃えていた。
ひとまずは、それでいい。
今はまだ何も終わっていないが、終わらせるための時間は、わずかでも残された。
王都。レオンの、待つその場所で。




