第97話 先代魔王の遺産(後編)
図面だった。
手に取った一枚に、細い線で丹念に引かれた一振りの剣が描かれていた。
刃の根本から切っ先まで寸法が書き込まれ、隅に刻印の意匠まで描き添えられている。
知っている。この優美な造形、柄頭の意匠も。
レオンの、聖剣だ。
慌てて次の紙をめくる。
今度は盾だった。岩のように分厚く、縁に獣の意匠を刻んだ巨大な——ガランの、大盾。
二つとも、先代魔王が作ったものだった。
図面の隅に走り書きがあった。前世の文字で。この世界の誰にも読めない、けれど俺には読める文字で。
二百年前、友であった人間の国王と獣王へ。友好の証として贈る、と。
「……ガラン」
声が震えた。
「お前の盾も、レオンの剣も、先代魔王が作ったものだ。人間と魔王と獣王が友だった頃に」
「……何だと」
獣人の喉が低く鳴った。
ガランが、背負った大盾をゆっくりと下ろした。
二十年、何百という刃と魔物を受け止めてきて、なお——傷ひとつない。アダマンタイトの黒い鉄面は、打たれた跡もひび一本もなく、贈られた最初の日と同じ鈍い光を湛えている。
その縁を、岩のような手のひらがなぞった。
鋼すら握りつぶす指が、ひどくゆっくりと動いていた。
「……守るために作られたのか。これは」
低い声が震えていた。
「俺はずっと長老に言われるまま、これを背負ってきた。お前のものだと、それだけで。誰が、何のために打ったものかも知らずに」
指先が、滑らかな縁をもう一度たどる。
「二十年。妹を守れなかったあの夜から、俺はこいつで守ることだけを考えてきた」
ぐ、と喉の奥で何かを噛み殺す音がした。
「だったら……俺は間違っていなかったんだな。こいつの本当の役目をしらずに、果たしていたのか」
俺は何も言わなかった。言える言葉が見つからなかった。
二十年分の重みが二百年前の願いにそっと触れる。その静けさだけが部屋に満ちていた。
長老がこの盾をガランに託した本当の理由。自分が獣王の血筋であることをまだ知らないことも、いつか話さねばならない。だが、今じゃない。
答える代わりに、俺はまた紙束へ視線を落とし、夢中で先をめくった。
技術屋らしい素っ気ない文字がびっしりと並んでいる。
その一文字一文字を追ううちに、俺の手は震えはじめていた。
これは、戦争の根っこを覆す。
聖剣の本当の用途は、魔王を斬ることじゃなかった。
メモにはこう書かれていた。
膨大な魔力を刃に溜める。勇者ひとりの魔力では到底足りないほどの量を。そうして振るうことで、それは人の心に巣食った「悪魔」を祓う。
宿主を殺さずに、ただ汚れだけを断ち切る武器。
『悪魔』——それは、魔族のことじゃなかった。
「……悪魔は、魔族じゃない」
気づけば、俺は紙の上の文字を声に出してなぞっていた。半ば、自分の理解を確かめるみたいに。
「ここに、はっきり書いてある。二つは、まるで別のものなんだ」
ノクトが小さく息を呑んだ。ガランの視線が、ゆっくりとこちらへ向く。
メモは、確かに二つを分けて書いていた。
悪魔には本体がある。そして本体から分かれた分身が、弱った人の心にするりと潜り込む。潜り込んで人を操り、憎しみを煽り、時に理性を焼き尽くして見境のない化け物に変える。
本体を断たない限り、分身は死なない。一つの心が尽きれば、また次の弱った心へと移っていく。
だから、聖剣だけでは足りなかった。膨大な魔力を溜めるあいだ、振るう者は無防備になる。その空白の時間を守り抜くために、大盾は聖剣と対で作られた。
俺は思わず顔を上げて、ガランを見た。下ろされたばかりの、あの大盾を。
ガランも、こちらを見返していた。何も言わない。けれど、足元の盾へ落としたその目だけで、もう伝わっていた。
お前を守ると誓った。
崩落の手前で俺の前に立ったガランの、あの背中がよみがえる。
二百年前からそうだったんだ。剣が力を溜めるあいだ、盾がすべてを受け止める。一人では戦えない。二つでひとつ。
友のために作られた、対の武器。
震える指で最後の一枚をめくった。
そこには念を押すようにこう記されていた。魔族は悪魔じゃない。この大地に古くから生きる種族であって、悪魔とはまるで違うものだ、と。
なのに、いつからか人間は二つを取り違えた。
魔族イコール悪魔。魔王イコール滅ぼすべき敵。
そのたった一つの取り違えが、聖剣の刃を本当の敵から逸らしつづけた。
悪魔を祓うはずの剣を、魔族を斬る剣にすり替えた。
そうして人間と魔族は憎しみ合い、巻き込まれた獣人をも呑み込んで、果てしない対立が生まれた。
二百年ものあいだ、誰も本当の敵を斬っていない。
メモのいちばん隅に、技術書には似合わない一行が添えられていた。
——友のために。
その文字を読み終えた瞬間、俺の背を冷たいものがすうっと伝った。
考えたくない答えがもう見えていた。
悪魔の手口が、力ある者の心に潜み、人を操り、対立を煽ることなら。
今この世界で、人間と魔族と獣人を三つ巴に縛りつけて、二百年戦わせつづけているその対立の、ちょうど真ん中にいるのは誰だ。
頭の隅の冷たい部分が、勝手に手がかりを並べはじめた。
共生村。人間も魔族も獣人も肩を並べて暮らしはじめた、あの小さな村。あそこへ工作員の獣人を送り込み、獣人と魔族の仲を内側から裂いた者がいた。あんな真似ができるのは、誰だ。
エレーヌ。あの女に村を二つ焼けと命じ、消えない罪を負わせたのは、誰の命令だった。
そして勇者たち。レオンを、イリアを、何人もの若者を次から次へと魔王のもとへ送り出しつづけてきたのは、誰の采配だった。
共生を裂く。罪を負わせる。命を送り込む。
ばらばらに見えていたその全部に、たった一つだけ共通点があった。
どれも王命がなければ動かせない。
国を挙げて人を動かし、村を焼かせ、勇者を編成できる者。
あの玉座に座る者。
——国王。
たどり着いた答えに、俺はひとり立ち尽くした。
けれど、確かめる術がない。
かつて俺の右目には、人の心をほんの少しだけ見透かす力があった。だがそれはとうに失った。残った左目は何の真実も映さない。
国王の心に悪魔の本体が潜んでいる。そんな確証はどこにもなかった。
あるのは推測だけ。
紙きれと、口だけの男に残されたのは、ただの当て推量だ。
ふと、隣の気配に気づいた。
イルミナがいつの間にかすぐそばで、同じ紙束を覗き込んでいた。
仮面の奥の瞳が、わずかに揺れていた。
三年。
夢を焼かれ、二千の命を奪われ、ずっと、ずっと憎みつづけてきた相手。
人間。
魔王を殺しに来る、勇者たち。
その相手が、もしかしたら、はじめから敵ですらなかったのかもしれない。
操られていただけの、同じ被害者だったのかもしれない。
その揺らぎを、俺は横顔から読み取っていた。
何も言えなかった。慰めも確証も、何ひとつ差し出せなかった。
白い明かりの下、四人はしばらく黙って立っていた。
戦争を終わらせる鍵がここにあった。
二百年誰も解けなかった謎を、よりにもよって、いちばん力のない、口だけ勇者がたった一人で読み解いてしまった。
けれど。
聖剣を握るレオンは、今ごろ土煙の向こうで俺を裏切り者と呼んでいる。
エレーヌへの、イルの殺意はまだ消えていない。
国王に悪魔が潜んでいるという推測を裏づけるものは、何ひとつない。
証も力もないままだ。
あるのは言葉だけ。
俺は懐の中のメガホンにそっと触れた。
届かせるしかない。
この、何の証もない言葉を。誰も信じてくれないかもしれない真実を。レオンに。エレーヌに。魔族に。人間に。獣人に。
声が届く限り、遠くまで。
それが、口だけ勇者のたった一つの戦い方だ。
長い、長い戦いになる。
刃を交える戦じゃない。誰も殺さず、誰も死なせず、ただ二百年の取り違えを解いていく戦い。
その途方もない道のりを思って、俺がひとつ息を吐いた。その時だった。
衣擦れの音がすぐ隣でした。
見れば、イルミナが紙束から顔を上げていた。
手の中の紙を台へそっと戻す。
そうして、その小さな手がゆっくりと持ち上がっていった。
仮面の縁へ。
俺は息を止めた。
ガランもノクトも気づいて動きを止めている。
白い明かりの下、彼女の指先が、ずっとあの顔を隠してきた冷たい仮面の端にかかる。
瞳がまっすぐに俺を見ていた。
もう、何も隠さない。そう言うように。
二度の生を跨いで。
ようやく、『あの方』が、イルが、その素顔を俺に見せようとしていた。




