第96話 先代魔王の遺産(前編)
扉の向こうは暗くなかった。
それが最初の違和感だった。
地の底の、誰も知らない通路のその奥。火を持たなければ一歩も進めなかった闇の果てに、ほのかな白い光が満ちていた。
天井に等間隔で埋め込まれた丸い窪み。あれが淡く灯っている。火じゃない。煙も熱もない。ただ白い。
明かりだ。誰も油を注がず、芯も替えず、二百年以上ただ点りつづけてきた明かり。
「……止まれ」
先頭のガランが片手を上げ、低く制した。大盾を半身に構え、暗がりに慣れた目で部屋の隅々を探っている。
だが、いくら見回しても敵の気配はない。罠の糸も、魔物の唸りも、刃の煌めきも。あるのはただ、白い光と、壁に沿って整然と並んだ棚だけだった。
張り詰めていたガランの肩から、ゆっくりと力が抜けていく。
「……何もいない、か」
ノクトが拍子抜けしたように呟いた。
俺はその光に照らされた部屋を見渡して、しばらく言葉を失っていた。
棚が並んでいた。
整然と壁という壁に沿って。そこにものがぎっしりと収まっている。
四角い白い箱。上に小さな扉、下に大きな扉がついていて、把手を引けば開きそうな。
脚のついた平たい台座から伸びる支柱の先に、丸みのある羽根の意匠を戴いた箱。
角に丸みのある横長の白い箱で、上部には二つの四角い蓋が並び、手前にはいくつかのダイヤルがついている。
丸みを帯びた箱で、上部には大きく開く厚手の蓋があり、手前には小さなボタンが並んでいる。
どれも煤けて埃をかぶって、それでも形だけははっきりと残っていた。
知っている。
俺はその形をぜんぶ知っていた。
冷蔵庫。扇風機。洗濯機。に炊飯器。前世の、それも俺が生まれるよりもっと昔の——祖父母の家の台所や居間に、当たり前みたいに置かれていた古い家電。
夏になると、あの形の扇風機が、ぎ、ぎ、と音を立てて首を振っていた。畳の匂い。縁側の網戸の向こうで鳴く蝉。炊飯器が湯気を上げ、祖母が冷蔵庫から麦茶を出してくる。
もう二度と戻れない、なんでもない景色。その景色の中にいた道具たちが、なぜか地の底に勢ぞろいしている。
なんで。
なんでこれがここに。
恐る恐る、大きな白い箱の把手を引く。
ひやり、とする。
扉の向こうから冷たい空気が流れてきた。
動いている。電気もないこの地の底で、二百年ただ冷えつづけている。
俺はその内側に手をかざしたまま、背筋をゆっくりと冷たいものが這い上がってくるのを感じていた。
「……魔力だね」
すぐ後ろで、イルミナがぽつりと言った。
仮面の横顔が白い箱を見つめている。
「これ、ぜんぶ……魔力で動いてる。冷やすのも回るのも。私の知らない組み方で」
ぞくり、とし、点と点が線になった。
冷蔵庫が魔力で冷える。火も電気もないのに。
だったら、なめらかな石組みの通路も、ひとりでに開いた扉も、あの鋼鉄の巨人も——みんな同じだ。
ぜんぶ、誰かが作り出した。
この世界のものじゃない知識で、この世界の魔力を使って形にした。
二百年前に。たった一人の誰かが。
悟ってしまえば、答えはもう目の前にあった。
先代の魔王。
二百五十年前に現れたという伝説の魔王。
そのスキルは、きっと『ものを生み出す力』ではないか。
この古い家電を懐かしいと思える人間は、昭和の台所を知っている人間は、この世界にはいない。
いるとしたら、それは——。
「……転生者だ」
俺は掠れた声で言った。
「先代の魔王も、俺たちと同じ。前世の記憶を持ってここへ来た人間だ。たぶん、ものを作る技術屋の」
言いながら、頭の隅の冷たい部分が勝手に計算を始めていた。
時の流れが向こうとこっちで違う。前にイルから聞いた話だ。この世界の一年は、前世のおよそ五分の一の速さで過ぎていく。五対一。
先代魔王がもし五十年前——前世の暦で五十年前にここへ来たのなら。こちらの暦では二百五十年前。
二百五十年前に現れた魔王。魔王が残した「予言」の出どころが、ここでようやく腑に落ちた。最初の転生者が遺した足跡を、人間たちは伝説に仕立て、二百年語り継いできたんだ。
そして——イル。
あんたが消えたのが一年前。魔王が現れたのが五年前。あんなにも気にかかっていた、あの空白。あれも時間の流れの差で説明がついてしまう。
俺はひとつ息を吐いた。
驚きよりも先に来たのは、奇妙な寂しさだった。
二百年前、この地の底でたった一人。同じ世界から来て誰にも理解されず、こんなものを作りつづけた誰かがいた。会うことは永遠にない。けれど、確かにいた。
考えてみれば、おかしな話だ。城を築くでも、軍勢を生み出すでもなく、よりにもよって冷蔵庫や扇風機を、一つずつ。
きっと、寂しかったんだろう。帰れない世界の、なんてことのない台所の景色が。それをこの暗がりに並べ直していかなければ、正気を保てないくらいには。
俺は、顔も知らないその誰かの孤独が、少しだけ分かる気がした。
ガランとノクトは、棚の前で所在なげに立っていた。
「ゼン。お前、これが何なのか分かるのか」
ガランが低く問う。
「ああ。なんとなく、な」
俺は曖昧に頷いた。説明しても伝わらない。冷蔵庫も洗濯機も、この二人にはただの不気味な箱だ。
その無理もない顔を見て、俺は改めて思い知った。
この部屋の意味が読めるのは、この世界でたった二人。
俺とイルだけだ。
棚の隅に、雑多なものが籠に放り込まれていた。
その中に見覚えのある形が二つ。
手に取る。
ひとつは、円錐を切り落としたような口の広い筒。柄を握って細い口に向かって声を出せば、それが大きく遠くまで届く拡声器。メガホン。
もうひとつは、片手に収まる二個の四角い箱。横腹に押し込めそうな出っ張り。ざらりとした網目の声を拾う部分。
トランシーバーだ。離れた相手に声を届ける。
「ゼン、それは……武器か?」
覗き込んできたノクトに、俺は首を振った。
「声を運ぶ道具だ。ただの、な」
ノクトはますます分からないという顔をした。それでいい。
俺はそれを握ったまま、ふっと笑ってしまった。
武器じゃない。鎧でもない。剣も盾も魔法も、何ひとつ俺には扱えない。
俺にあるのは口だけだ。ずっとそう自嘲してきた。『口だけ勇者』。喋ることしかできない男。
だが、それなら——声を遠くまで届ける道具ほど、俺に似合った得物があるか。
「……もらっていくぞ」
誰にともなくそう呟いて、二つを懐に納めた。
その軽さが、なぜか心強かった。
ひととおり見て回った。ここで得られるものは得た。そろそろ戻ろう——そう思って踵を返しかけた、その時だった。
視界の端に、まだ確かめていないものが残っているのに気づいた。
部屋のいちばん奥。
一段高くなった台の上に、紙の束が積まれていた。
簡素な説明書きの山。色褪せ、端の崩れた古い紙。
俺はそれを一枚、手に取った。
そして、息が止まった。




