第95話 鋼鉄の門番
下り坂は、いつまで経っても終わらなかった。
両側からせり迫る石壁は湿っていて、肩が擦れるたび、指先がぬめった。イルミナの手のひらに浮かんだ小さな火が、四人ぶんの影を、壁に長く長く引き伸ばしている。背後の崩落の音は、もう聞こえない。レオンの叫びも、エレーヌの呪詛も、土煙の壁の向こうに置き去りにしてきた。
「イルさん、どこまで続くんだ?」
「緊急用の避難路があるのは知っていたけど、入るのは初めてだから分からないの。このまま城の外に出られるはずなんだけど」
踏み込んだ床が、ごとっ、と音を立てて沈んだ。
嫌な予感が、背筋を這った。
「足元が……」
言いかけた、その時だった。
ギギギ、と。重たい歯車が、ずっと奥で噛み合い何かが動き出す音。
「全員、止ま……」
遅かった。
足の下から、ごっそりと支えが消えた。
床が、抜けたのだ。
浮遊感。胃の腑が、ふわりと持ち上がる。イルミナの火が、ぐるりと回って闇に吸い込まれた。
暗い縦穴を、四人まとめて滑り落ちていく。岩肌に背中をこすられ、肘を打ち、それでも落下は止まらない。
死ぬ、と思った瞬間――
「反重力」
イルミナの呪文が聞こえた。
ふわり、と。
落下の速度が、嘘みたいに緩んだ。
四人ぶんの重さが消え、俺たちは、ゆっくりと底へ到着した。
肺の中の空気を、ぜんぶ吐き出して、それからのろのろと吸い直す。岩に打ちつけた背中が、じんじん痛んだ。だが、骨は折れていない。
「全員、無事か」
ガランの低い声。盾を地につき、それを支えに立ち上がる影。
「俺は平気だ。ノクトは」
「……いてて。生きてる、よ」
暗がりの中で、ノクトが身を起こす気配。
「イルさんは」
「私はぜんぜん平気」
短く、そう返ってきた。けれど、声に滲んだ疲労は、隠しきれていなかった。あの落下の中で四人を受け止めたのだ。底のない魔力を持つ魔王でも、ただでは済まない芸当だったろう。
イルミナが、もう一度、手のひらに火を灯す。
その小さな光が照らし出したものを見て、俺は、息を呑んだ。
また、通路だった。
縦穴の底から、横へ。まっすぐに、闇の奥へと続いている。けれど、ただの通路じゃない。
壁は削り出した岩じゃなかった。隙間なく組まれた、なめらかな石。床には規則正しい目地。
誰かが、意図して隠した道だ。
「こんな場所があるなんて、聞いたこないよ」
イルミナが、呟いた。仮面の下の声が、わずかに揺れている。城の主であるはずの彼女すら知らない通路。
俺はごくりと喉を鳴らした。
退路はない。上は塞がっている。だったら、前に進むしかなかった。
火を頼りに、四人で闇の奥へと歩を進める。
通路は思いのほか長く続いた。やがて前方の闇が、ふっと開けた。
大広間だった。
火が届ききらないほどに、天井が高い。柱もない。がらんとした、巨大な空洞。
その、ちょうど中央に。
それは、立っていた。
最初、石像かと思った。
違う。鋼だ。鈍く光る鋼鉄の塊。
見上げるほどに、でかい。三メートルはあるだろうか。白と黒のカラーリング。丸太のような腕と足。頭には、左右に突き出した、角のような意匠と、車のグリルのような口。胸もとには二枚の赤い板。
俺は、その姿に見覚えがあった。
二度目の生で、じゃない。前世だ。
子供の頃、懐かしのアニメ特集で見た。神にも悪にもなるという鋼鉄の巨人。胸から熱線を放ち、腕をロケットのように飛ばした。
なんで、こんな世界の地の底に。
近づいた、その瞬間だった。
ボウッ、と。
黄色い目に、光が宿る。
ギギギ、と、錆びついた関節が、軋みを上げて動き出す。
「下がれッ!!」
ガランが叫ぶより、わずかに早く。
鋼の巨腕が、唸りを上げて振り下ろされた。
石畳が、爆ぜた。直撃を受けた床が、蜘蛛の巣みたいにひび割れ、砕け散る。とっさに横へ転がっていなければ、俺は今ごろ、あの腕の下で、ぐしゃりと潰れていた。
「イルさん!」
「まかせて! 魔矢」
彼女の手から、無数の魔力の矢が、巨人へ撃ち込まれた。さっき俺たちを攻撃した、あの魔法だ。
だが――弾けた。
鋼の装甲が、魔力の弾を、ぜんぶ跳ね返した。火花だけを散らして、巨人は、傷ひとつ負っていない。
「ガラン、関節だ! 膝を狙えっ!」
「応!」
獣人が、地を蹴る。盾の陰から踏み込み、腰の剣を、巨人の肘の継ぎ目へ叩き込む。
甲高い、金属の悲鳴。
刃が、弾かれた。ガランの剣が――あの怪力の一撃が、巨人の表面に、傷一つ残っていない。
「……硬ぇ」
ガランが、後ろへ跳び退りながら、絞り出すように言った。
「魔力も、刃も、通らねえ。こんなもの、初めてだ」
そのとき思った。ガランの盾と同じ素材ででているのではないか。
それならば、破壊不可能だ。
巨人が、ゆっくりと、こちらへ向き直る。
次は俺だ、とでも言うように。
追い詰められていた。物理が効かない。魔力も効かない。だったら、軍師の俺に、いったい何ができる。
頭の中で、手札を、必死に切り直す。逃げる? どこへ。来た道は塞がれた。奥の壁には、ただ一枚、重そうな扉が見えるだけ。あれを開ける時間も、術もない。
ぜんぶ、駄目だ。
言葉だけが取り柄の口だけ勇者に、鋼の塊を黙らせる言葉なんて。
その時。
巨人が、再び腕を振り上げるために、半身を、ぐるりとひねった。
その背中が、火明かりに、さらされた。
肩甲骨のあたり。四角く窪んだ、小さなパネル。
そこに、文字が、刻まれていた。
二度目の生を始めてから、何度も思い知った。この世界の文字は、前世のそれとは、まるで違う。しかし、女神の加護で最初から読めた。
だが、その背中の文字だけは。
加護なしでも読めた。
一目で。脳が考えるより先に、意味を掴んでいた。
『ON / OFF』
前世の俺たちの世界の文字だった。
「イルさん!」
考えるより先に、叫んでいた。
「あいつの背中! あれが、読めるか!」
巨人の腕を魔力で受け流しながら、イルミナの視線が、一瞬、その背へ走った。
仮面の奥で、息を呑む気配。
「……オン、オフ」
彼女の声が、震えた。
「読める。私にも、読める」
そうだ。
読めるのは、この世界に、たった二人。
前世の記憶を持って、ここへ堕ちてきた、俺とイルだけ。
なら、答えはひとつだ。あれは、スイッチだ。誰かが、前世の文字を解する誰かだけが、止められるように、わざと、そこへ仕込んだ。
「ノクト!」
俺は、物陰で身を低くしている影へ、声を投げた。
「背中だ! あいつの背中の、四角いパネル! あそこに、出っ張りがある! それを『下』へ下ろせ!」
「位置は!?」
「肩の下! 俺が引きつける!」
言うが早いか、俺は飛び出していた。
軍師が、自分から囮になる。最悪の悪手だ。しかし、ノクトを背中に取りつかせる隙は、これしかなかった。
「こっちだ、鉄屑がっ!」
声を限りに、喚き散らす。意味なんてどうでもいい。ただ、注意をこちらへ。
巨人の頭が、ギギギ、と俺を向く。腕が振り上がる。
「ゼンさん!」
イルミナの結界が、頭上に滑り込む。同時に、ガランの大盾が、横から俺を突き飛ばすように庇った。轟音。三つの力が、ぶつかり合う。
その、わずかな隙に。
黒い影が、巨人の脚を駆け上がっていた。
ノクトだ。身軽な体が、鋼の背に、するすると取りつく。指が、パネルの出っ張りを探り当て、ぐっ、と。
体重をかけて、下ろした。
カチャン、と硬く、乾いた音が、広間に響いた。
巨人の動きが止まる。
振り上げられた腕が、宙でぴたりと凍りついた。
目の黄色い灯が、抜けていく。
ギギギ、と関節が鳴り、ゆっくりと腕が下がった。鋼の巨人は最初に見たときとまったく同じ、ただの石像に戻っていった。
「……止まった」
ノクトが、背中の上で、ぽつりと言った。
誰も、しばらく、声を出せなかった。
張り詰めていたものが、一気にほどけて、膝が笑った。
その静寂を破ったのは、奥からの、低い音だった。
ゴゴゴ、大広間の奥から音がした。あの、重そうな一枚の扉。
それが、ひとりでに、ゆっくりと口を開け始めていた。
石と石が擦れる、長く眠っていた音。砂埃が、隙間からこぼれ落ちる。
俺はその光景を見つめながら、ようやく悟った。
あの巨人は、ただの守護者じゃない。門番だ。
力で押し通る者は、通さない。魔力でも、刃でも、開かない。
ただ、前世の文字を読める者だけを、選んで、この奥へ通す。
転生者以外、受け入れない仕組み。
誰かが、いつか来るかもしれない、自分と同じ世界から来た誰かのために。そんなものを地の底に遺していた。
隣でイルミナが、開いていく扉をじっと見つめていた。
仮面の横顔から、何を考えているかは読めない。
けれど、その小さな手が、いつの間にか、軽く握りしめられていることに、俺は気づいていた。
「……行くしか、ないな」
俺は掠れた声で言った。
ガランが盾を構え直し、ノクトが巨人の背からひらりと飛び降りる。
四人で、開ききった扉の、その向こうの闇へと足を踏み入れた。




