第94話 魔王(4)
振り返った先に、レオンがいた。
血に濡れた聖剣を、だらりと提げて。
その目を見た瞬間、明るかったはずの俺の声が、喉の途中で凍りついた。
怒りじゃなかった。憎しみとも、少し違う。
もっと静かで、もっと深い、底の抜けた穴みたいな目だった。妹みたいな家族を失って、その仇に、たった今、仲間が笑いかけた——その光景を、この男はどう見たんだ。
ぞわりと、背筋が冷えた。
間違えた。
俺はいま、取り返しのつかない読み違いを、した。
「ゼン……」
レオンの唇が、震えながら動いた。
「お前、敵と通じていたのか」
違う。そうじゃない。説明すれば……
いや。説明? 何を、どう。『実は前世のゲームでフレンドでした』とでも?
妹を失ったばかりの男に、どの言葉が届くっていうんだ。
口を開いたが、何も出てこなかった。
言葉だけは達者なはずの俺の喉が、生まれて初めて、空っぽだった。
「お前ごと撃つ」
迷いの、ない声だった。
聖剣が白く灯る。
「ブレードスラッシュ!」
白い光の刃が、石床を裂いて俺へ走った。
避けられない。そう分かった瞬間、力が抜けてしまった。
その時だった。
俺と光のあいだに。
巨大な影が、割り込んだ。
轟音。
鋼と聖光がぶつかり、火花が雨みたいに散る。
大盾だった。
岩みたいな背中が、俺を丸ごと覆い隠している。受け止めた衝撃に、その巨躯が後ろへ押し込まれ、それでも倒れなかった。
「……ガラン」
獣人は、振り向きもしなかった。
盾を構えたまま、低く、絞り出すように言った。
「二十年前。俺は、妹を守れなかった」
「目の前で魔物に襲われたとき、妹を救えなかった。だからあの日、決めた。次に守ると決めた奴の前では二度とこの盾を下ろさないと」
ぎり、と鋼が軋む。
「お前を守ると、誓った。お前が間違ってるなら、間違ったまま守る。それだけだ」
胸の奥が、熱く詰まった。
礼も謝罪も全部が、喉でつかえて形にならない。
気づけば、立ち位置がすっかり変わっていた。
俺の隣に、宙から降りたイルミナ。前には、ガランの大盾。物陰には、いつでも動けるよう身を低くしたノクト。
向かいに、レオンと、エレーヌ。たった、二人。
おかしな話だった。
戦力だけ並べれば、もう勝負はついている。宙を舞い、底のない魔力を操る魔王。二十年、崩れたことのない盾。こちら側が圧倒的に上だ。本気で潰しにかかれば、二人とも長くはもたない。
だからこそ、俺は戦えなかった。
ここで勝つというのは、二人を殺すということだ。イリアを失ったばかりのレオンを。罪の重さに押しつぶされ、立っているだけのエレーヌを。
もう誰も死なせない。さっき俺がそう叫んだばかりじゃないか。
残された道は、ひとつしかなかった。
逃げる。
勝てるからじゃない。殺さずに済ませる手が、もう、それしか残っていなかった。
その均衡を、最初に壊したのは、エレーヌだった。
ずっと、レオンの後ろで立ち尽くしていた。
膝が震えている。杖を握る手も。その視線が、ガランの背中に縫い止められていた。
ずっと、彼女のそばにあった盾。エレーヌが熱を上げすぎれば前に出て、無茶をすれば真っ先に庇った、あの大きな背中。
それが今、自分に背を向けて、こともあろうか魔王を、イリアを殺した側を守っている。
「……なんで」
かすれた声だった。
「なんで、あんたまで……。ガラン、あんたイリアのこと、あんなに可愛がってたじゃない……!」
ガランは、答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。盾を構えたまま、ただ黙って。
その沈黙が、エレーヌの中の最後の一本を焼き切った。
彼女の瞳から、すうっと色が抜けていく。
怒りでも悲しみでもない。もっと空っぽな底の見えない光。
俺は、その目を知っていた。国王の命礼に従い、村を二つ焼いた女。怒りの底で、ずっと自分の罪を背負い続けてきた女が、今、自分ごと何もかも終わらせようとしている目だ。
「……もう、いい」
杖の先に、炎が生まれた。
火炎弾の比じゃない。杖の先で小さな小さな太陽が育っていく。離れているのに、頬がひりついた。熱が肌を刺す。
あれは知っている。最大級の炎。こんな場所で撃てば、術者すら呑み込む類いのやつだ。
「エレーヌ、よせっ!!」
レオンが叫んだ。すぐ隣に立つ、その男ですら、炎の射程の内側だった。
彼女は聞いていない。レオンすらもう見えていない。
味方も、敵も、自分も。ぜんぶ、まとめて灰にするつもりだった。
「灰燼に帰せ、エクスプ──」
考えるより先に、口が動いていた。
軍師の策なんかじゃない。ただの、とっさの悪あがきだ。
「ノクト! 天井だッ!!」
応えは、速かった。
地を蹴ったノクトの手から、爆発石が宙を舞う。狙いは俺たちとレオンたちの、ちょうど真ん中の天井。
炸裂。
石が砕け、古い石組みが、ばらばらと、それから一気に──崩れ落ちる。
降りそそぐ岩と土煙が、広間を、真っ二つに断ち切った。
行き場を失ったエレーヌの炎が、崩落の風に煽られて揺らぐ。視界を奪われ、渦がほどけ完成しきれなかった呪文は、瓦礫のあいだで、潰れて消えた。
土煙の壁の、向こう側。
レオンの叫びが、くもって聞こえた。エレーヌの、泣くような呪詛も。
生きている。崩落は埋めたんじゃない。隔てただけだ。
なのに、振り返った俺の足は、その場に縫いつけられていた。
置いていく。仲間を。たった今まで、命を預け合っていた連中を瓦礫の向こうに。
その腕を、誰かが、そっと掴んだ。
女の手だった。
仮面の女が、イルミナが、俺の腕を引いている。
まっすぐに俺を見ていた。何も言わない。ただ、こっちだ、と。
二度の生を跨いで、初めて。
俺とこの人は、同じ方を向いて、並んで立っていた。
また喉の奥が詰まりかけて。いや、今は、それどころじゃない。
「……逃げるぞ」
声が、掠れた。
俺の後ろにノクトが続き、ガランが最後尾。四人で崩落の脇に魔法で隠されていた、細い避難通路へ飛び込んだ。
人が一人通れるだけの、急な下り坂だった。
灯りはない。イルミナの手のひらに浮かんだ、小さな魔法の火だけが、足元を頼りなく照らしている。背後で、崩落の最後の岩が落ちきる音。それから、嘘みたいな静寂。
走りながら、頭の隅が、まだ冷たく回っていた。
助けたんじゃない。引き裂いただけだ。レオンとの溝も、エレーヌの罪も、何ひとつ片付いていない。ぜんぶ、瓦礫の向こうへ、先送りにしただけだ。




