第93話 魔王(3)
魔王の両手の先で、圧し潰された大気が巨大な槍の形になっていた。膝をついたエレーヌの頭上に、それはもう振り下ろされる体勢へ入っている。誰かが間に割って入れる速さではなかった。
それでも、地を蹴る音がひとつ鳴った。
「ぬうんッ!!」
ガランが、崩れた瓦礫を踏み砕いてエレーヌの前へ滑り込む。岩のような巨躯で背に庇い、砕けることを知らぬ大盾を頭上へ叩きつけるように掲げた。
だが、防いだところで何が変わるわけでもない。相手は宙を舞い、無尽蔵の魔力を好きなだけ撒き散らす魔王だ。一枚の盾が守れるのはたった一つの身体の、たった一方向きり。次がどこから降ってくるのかも分からないまま、盾の陰に入りきれなかった者から順に食い殺されていく——イリアの次が、今ここで来る。ガランも、エレーヌも、ノクトも、遠からず一人残らず。
その理屈だけは、嫌になるほどよく見えていた。なのに俺の足は地面に縫いつけられたまま動かない。策を編むのが取り柄のはずの軍師が、頭を真っ白にして、喉の奥で意味のない呻きを漏らすことしかできずにいた。
魔王が楔を振り下ろそうと、ありったけの力を腕に込めた、その瞬間だった。仮面の奥から、本人も気づかないままに、ひどく場違いな声が転がり出た。
「——メッタメタに、してやるぅっ! 食らえぇーっ!」
戦場には、どうしようもなく似合わない声だった。憎しみのこもった詠唱でも、玉座の主の威厳でもない。子供みたいに語尾を伸ばした、間の抜けた掛け声。
俺の足が止まったのは、恐怖のせいではなかった。
その声を、その言い回しを、間延びした語尾を、俺は知っていた。
深夜のワンルームで、モニターの青白い光に照らされながら、フレンドリストの一番上にいつも小さな緑のランプを灯していた相手。勝ち目の薄い強敵へ二人で飛び込むたび、彼女が決まって打ち込んできた、あのふざけた掛け声だ。『メッタメタにしてやるー!』『食らえーっ!』——何十回も、何百回も。この世界の誰も知らない、俺だけが知っている、たった一人の。
そんなはずがない、と思うより先に、別の記憶が割り込んできた。仮面の奥の、想像していたよりずっと若い女の声。剣を抜かず、攻めてくる相手にもまず話を聞けと己に課した馬鹿正直な掟。困っている人間を放っておけない性分。溶けていく意識の端で女神が囁いた言葉まで、続けざまに蘇ってくる。
『どうか、あの方を探してあげてくださいね』
長い旅の果てに——いや、ひとつの生をまるごと越え、俺が探し続けてきたその人が、目の前にいた。五年も前からここに居たという矛盾を呑み込むより先に、喉が勝手に動いていた。策でも交渉でもない、二度の生を通じて一度も最後まで言えなかった種類の言葉が、堰を切ってあふれた。
「——イルさん!」
空気が、びくりと震えた。振り下ろされかけた黒い楔が、ほんのわずかに淀む。届いてしまった。なら、続ける言葉はもう決まっていた。ひとつの生の向こう側、あの夜からずっと喉につかえていた、その続きを。
「雪だるま、作ろうよ」
時が止まった、としか言いようがなかった。まだ宙を裂いていた緑の魔矢の残光が縫い止められ、放たれる寸前だった空気の槍が、魔王の手の先で凍りつく。レオンの荒い息も、ノクトの足音も、エレーヌのすすり泣きも、ふっと聞こえなくなった。
仮面の奥で、見えるはずのない瞳が大きく見開かれていくのが、なぜかはっきりと分かった。
「……あ」
女王の声でも、憎しみの声でもなかった。誰もいないワンルームで俺が一人、声を上げて笑った夜の、あの画面の向こうの人の声だった。
「……あははは」
仮面の下から、震える笑いがこぼれた。泣いているのか笑っているのか、本人にももう分からなくなった声で。
「ゼンさん、なの……」
あの夜と寸分たがわなかった。不格好な雪だるまをずらりと並べて、俺が『馬鹿みたいだよね』と打って。しばらく返事がなくて、引かれたかと思った頃に——
「本当に、ばかみたい」
間違いようがなかった。逃げ出したあの夜の続きを今度こそやり直すために、喉につかえて二度と届けられなくなった言葉を今度こそ声にするために、俺はこの世界へ生まれ直してきたのだ。たった一人を、もう一度だけ笑わせるためだけに。
天高く掲げられていたイルミナの手が力なく下り、宙に浮いていた足も地についた。放たれる寸前の槍は淡い光にほどけ、霧になって散った。
エレーヌは助かった。
だが、そのときの俺は何ひとつ気づいていなかった。イルミナの手を下ろさせたのは、許しでも慈悲でもない。たまたま俺がこの場に居合わせ、たまたまあの雪の夜の言葉を覚えていた。ただそれだけの偶然が、彼女の刃を止めた。そしてその刃の真下では——彼女がひとつの生をかけて憎み続けてきた女が、よりにもよって膝をついていた。俺とイルさんを結ぶたった一つの絆が、イルさんが世界でいちばん殺したかった相手を、巡り合わせの悪い冗談のように生かしてしまった。その救いようのない皮肉を、俺はまだ知らなかった。
再会の高揚で、頭の芯まで痺れていた。もう戦わなくていい。話せば分かる。今度こそ言葉が届く。なにしろ相手はイルさんなのだから。俺は仮面の魔王へ駆け出した。救われたのだと信じきって、笑いかけてしまった。
「大丈夫だ。戦う必要なんて、もうない」
自分でも驚くほど、声が明るかった。
「この人とは、話せばわかる。だから——」
言いながら振り返った先に、血に濡れた聖剣を握るレオンと、地に膝をついたままのエレーヌがいた。そのレオンの目を、俺は見てしまった。




