第92話 魔王(2)
長い回廊を抜けた先、玉座の間は墓みたいに静まり返っていた。
空気が重い。蝋燭の一本も灯っていないのに、最奥だけがぼんやりと明るかった。幾段も積み重なった石段の上、漆黒の椅子に魔王は座っている。ひびひとつない黒い仮面。意外にも女だった。
俺は乱れた呼吸を押し殺しながら、必死に頭を回していた。
おかしい。何かが、決定的におかしい。
魔王が動かない。
扉を蹴破られ、抜き身の剣を提げた人間が四人も踏み込んできたのに、腰を上げようともしない。殺気を放つわけでもなく、玉座に身を預けたまま、ただ静かにこちらを見下ろしている。まるで、客でも迎えるみたいに。
ここまでの道のりが、勝手に脳裏を巻き戻していく。
城門ではヴォルドがバーサーカーになり、立ち塞がった。イリアの犠牲により、俺たちはようやくこの最奥まで辿り着いた。普通なら、いや、普通でなくたって、主の懐に刺客が迫れば身構えるはずだ。剣を抜く。罠を張る。何かしら、手を打つ。なのに、こいつは何もしていない。
聞いてきた噂を、ひとつずつ思い返す。
村を焼いた、という話は一度もなかった。先に攻め込んだ、という記録もない。魔物の軍勢が湧くのは決まって、人間の側が王命で討伐隊を差し向けた——その後だった。
『センシュボウエイの掟』
魔族の長老に聞いた魔王が掲げた掟。攻められない限り、剣を抜かない、まずは話し合う。誰かがこの城に、そんな馬鹿正直な掟を刻みつけて、こいつはそれを、いまだに頑なに守り続けている。そういうことなんじゃないか。
「……レオン、待ってくれ」
俺はあえて落ち着いた声を絞り出した。
「こいつは、自分から手を出してこない。攻めてくる相手にも、構えるより先に様子を見てる。なら、まだ間に合う。話せるはずなんだ」
馬鹿げてる。言いながら、自分がいちばん分かっていた。
妹みたいな家族を失ったばかりの三人に向かって、その仇と言葉を交わせと言っているのだ。順番がめちゃくちゃだった。神経を疑われて当然だ。
それでも、言わずにいられなかった。
ここで争えば、また誰かが消える。イリアの次は、誰だ。レオンか。エレーヌか。ガランか、ノクトか。それとも、俺か。もう一人も、欠けさせたくなかった。
右目を失ってから、俺のスキルは失った。視界に感情のアイコンは映らず、人の心は簡単には読めない。
それでも、伝わってくるものがあった。
仮面の奥。見えるはずもない視線が、俺の言葉のどこかで、ほんの一瞬だけ揺れた、気がした。
魔王は、聞いていた。立ちもせず遮りもせず、ただ静かに俺の言葉を聞いている。
いける。届く。
そう思った、まさにその時だった。
「……ふざけるな」
低い声でエレーヌ呟く。
杖を握る指が、強張っている。その先端で、目を灼くほど眩しい炎が、ぐるりと渦を巻いて膨らんでいく。
「話せばわかる、ですって……? あの子が消えたのよ。ついさっきまで隣いた、あの子が。それを話し合い……?」
「エレーヌ、よせッ!」
「あんたに、何が分かるのよッ!!」
「火炎弾」
炎が、放たれた。
「ブレードスラッシュ!」
ほとんど同時に、レオンが床を蹴っている。聖剣が白い尾を曳いて、石段を一息に駆け上がった。
紅蓮と、白光。二つの極光が、玉座へ殺到する。
止める間なんて、どこにもなかった。
ぱきん、と。
澄んだ音を立てて、魔王の前に見えない壁がせり上がった。イリアが張ったものと、同じ『結界』だ。エレーヌの炎も、レオンの渾身の一撃も、その透き通った障壁に弾かれ、火花だけを散らして虚しく散る。
傷ひとつ、つかなかった。
そして、俺は見てしまった。
見えないはずの仮面の奥で、その素顔が、深く落胆するのを。
「……そう」
初めて、魔王が口を開いた。
澄んだ声だった。予想と全く違う、ずっと若い女の声だった。
「先に手を出したのは、そちら。今、確かに、そう見えたよ」
その一言で、何もかもが繋がってしまった。
こいつは、待っていたんだ。
攻めてこない理由を。話す余地を。先に刃を抜くのが、こちらの側であってくれることを。「先に剣を抜くな」「攻める者にも、まず言葉を」己に課した掟がそう命じている限り、こいつは動けなかった。動かなかったんだ。
けれど、その掟はもう半分の顔を持っている。
攻めてきた者には、応じてよい。
ぎりぎりのところで魔王を踏み留まらせていた何かが、たった今、音もなく砕けた。
「ずっと、探してたんだ」
暗く沈んだ声だった。
「反重力」
短い詠唱。漆黒の影が、椅子からゆっくりと離れていく。
立ち上がったんじゃない。浮いたのだ。爪先が石段を離れ、宙へ。長い衣が、見えない流れに逆らうみたいに、天を指してたなびいた。
仮面が、エレーヌを向く。
その声に、初めて感情が滲んだ。三年間、胸の底でくすぶり続けてきた、混じり気のない憎しみが。
「あの夢を灰にした奴を。ずっと、ずっと探してた」
「……っ」
「二千だよ。二千の命が、あんたの落とした太陽に焼かれて、炭になった。村が、二つ。子供も、年寄りも、ぜんぶ」
エレーヌの顔から、すうっと血の気が引いていく。
二つの村。彼女が、自分の魔法で焼き払ったあの記憶。怒りの底に沈めて、見ないふりをしてきた罪の名を。今、敵の口から真正面に突きつけられて、その膝が、がくりと折れかけた。
「詫びもしない。償いもしない。それどころか、また私に刃を向ける」
魔王の手が、すうっと持ち上がる。
「なら、もう話すことなんて、何もないよね」
その手が、ゆっくりと天を指した。
次の瞬間、鋭く振り下ろされる。
「魔矢!」
緑の光の矢が、雨みたいに繰り出された。
手加減なんて、欠片もない。三年ぶんの恨み。ただ純粋な、怒りそのものだった。
「散れェッ!!」
レオンが咆えた。
ガランが床を踏みしめ、大盾を頭上へ掲げる。降り注ぐ矢のすべてを、その身ひとつで受け止めた。鋼が悲鳴を上げ、岩みたいな巨躯が、ずるりと後ろへ滑る。
ノクトが横っ飛びに地を転がり、煌めく一矢を髪一筋の差で避ける。
俺は——動けなかった。
力の差が、あまりにも違いすぎた。足が竦んで、根が生えたみたいに動かない。
軍師。策を編む男。口だけは達者な、勇者。なのに今、編むべき策が、頭の中にひとつも浮かばない。話し合いという、たった一枚しか残っていなかった手札を、もう失ってしまったから。
完全な、防戦一方だった。
反撃の糸口なんて、どこにも生まれない。一行は石段の下へじりじりと追い詰められ、降りしきる矢を、ただ身を縮めてやり過ごすことしか、できなかった。
そして。
宙に浮いた魔王の視線が、もう一度、まっすぐエレーヌを捉えた。
崩れた瓦礫に足を取られ、エレーヌは石畳に膝をついていた。立ち上がろうとして、間に合わない。杖を支えにもがくその姿を、闇が静かに見下ろしている。
魔王が、両手を高く掲げた。
その手の先で、圧し潰された空気が巨大な槍のかたちに。大気そのものが、びりびりと震えた。
あれを食らえば、結界も、盾も、意味をなさない。
考えるより先に確信していた。あれは殺すための一撃だ。三年ぶんの憎悪を残らず乗せた、避けようのない、終わりの一打。
「エレーヌッ!!」
喉が裂けるほど、叫んでいた。
届くはずがない。間に合うはずもない。
空気の槍が、彼女の頭上めがけて振り下ろされる。




