第91話 魔王(1)
金色の光が消えたとき、戦場から音が消えた。
その静けさを破ったのは、震える声だった。
「……えっ、なんで」
ノクトだった。自分の胸元を、信じられないものでも見るように見つめている。さっきまで魔物の爪に裂かれ、真っ赤に濡れていたはずの胸に、傷一つ残っていなかった。
「傷が……治ってる」
言われて、俺も気づいた。岩に潰された右足から、痛みが消えている。恐る恐る体重をかけてみる。立つ。歩ける。
「裂けていた肩が、塞がってる」
ガランが呆然と呟いた。岩のような巨躯に刻まれていた裂傷が、一つ残らず消えていた。
消える間際の、あの光。
あの子が最後に世界へ撒いた浄化の光は、敵を祓っただけじゃない。俺たち全員の傷を、一人残らず、そっと撫でて治していったのだ。
最期の最期まで。あの子は、誰かを助けることをやめなかった。
「……みんな、無事か」
レオンの声がした。いつも先頭に立つ男の声が、こんなに掠れているのを初めて聞いた。彼は仲間の顔を一つずつ確かめ、そして、足りないことに気づいた。
「……イリアは?」
その三文字に、空気が凍った。
俺は、すぐには答えられなかった。答えれば、それが本当になってしまう気がして。
「軍師殿」
レオンが、もう一度、俺を呼んだ。今度はほとんど祈るような声で。
俺は、ゆっくりと首を横に振った。
「……イリアは、もういない」
「……っ」
「あの子は、シスターと同じ道を選んだ」
昇華。
己の魂のすべてを、世界を浄める光に変えて捧げる、二度と戻れない道。
ガランが膝から崩れ落ちた。エレーヌが、口元を両手で覆った。
みんなは、家族同然の仲間を失った。
けれど俺だけは、もう一つの真実を独りで抱えていた。
『やっと、会えましたね』
光に溶けていく間際、あの子がこぼした言葉。それは、俺に二度目の生をくれた『女神』が、白い空間で最初にかけた一言と、寸分も違わなかった。
言えるはずがなかった。
言ったところで、誰が信じる。なにより、言葉にしてしまえば、俺はきっと、もう立っていられなくなる。
最初に泣いたのは、エレーヌだった。
声を殺して、けれど止められずに、ぼろぼろと。
「……うそ、でしょ。だって、さっきまで、隣で戦ってたじゃない……っ」
ガランは何も言わなかった。ただ、握りしめた拳から、ぎり、と音が鳴った。岩のような大男の肩が、小刻みに震えていた。
三年だった。
パーティに加わったばかりの頃、馬の乗り方も野営の仕方も知らなかった少女に、勇者たちは一つずつ教えた。いつしか本当の妹みたいになっていた。誰より優しくて、誰より先に困っている奴のために動く子だった。
「……守れなかった」
レオンが低く呟いた。
「俺たちが、すぐ隣にいたのに。あいつ一人に、全部背負わせちまった」
顔を上げたレオンの目に、もう涙はなかった。代わりに、行き場のない怒りが青く燃えていた。悲しみが煮詰まって変質した、純度の高い憤りだった。
エレーヌが杖を握る指先が白くなった。自分の魔法で二つの村を焼いた記憶が、怒りの下でまだ燻っていた。それでも、熱は同じ方角へ雪崩のように傾いていく。
「……魔王だ」
レオンが絞り出すように言った。
「あいつさえ、いなけりゃ……イリアは、消えずに済んだんだ」
バーサーカーを作っているのは、魔王だ。
「待て」
俺は思わず立ち上がった。
「今は、だめだ。こんな状態で踏み込めば」
「じゃあ、どうしろって言うんだ!」
レオンの怒号が、静まり返った戦場に響いた。
「あの子が消えちまったってのに、のうのうと引き返せってのか!? なあ、軍師殿!!」
悔しい。悔しいに決まっている。誰よりも、俺が。
けれど、ここで感情のまま飛び込めば、また誰かを失う。それくらいは分かる。分かるのに——
「みんなの気持ちは、痛いほど分かる。だが」
「……分かったような口を、きくな」
レオンが静かに遮った。怒っているのではない。ただ、もう止まれないのだ。
右目を失ってから、人の感情はアイコンでは見えない。それでも、共に戦った背中は、言葉より雄弁に叫んでいた。
三人は、剣を、杖を、盾を握り直した。そして俺の制止を背中で振り切るように、ゆっくりと歩き出した。城の扉を開き、奥へ向かって。
唇を噛んだ。血の味がした。
止めるべきだったのかもしれない。でも、何を言えばよかったのか、最後まで言葉にならなかった。そもそも俺に、あの三人を止める資格なんてあるのか。考えるより先に、足が動いていた。立ち上がって、遠ざかる背中を追う。
扉の内側は、まるきり別の世界だった。
まず、匂いが違う。外に充満していた湿った土と血の匂いが、敷居をまたいだ途端、ぷつりと途切れた。代わりに鼻をついたのは、乾いた石の匂い。それから、かすかに甘い何か。
窓は一つもないのに、回廊はうっすら明るかった。壁に埋め込まれた青白い鉱石が、ゆっくり明るくなっては、また暗む。明るくなっては、暗む。誰かの心臓の鼓動を、無理やり見せられているみたいだった。
足音が、やけに響いた。
レオンの鋼鉄の沓が石畳を打つたび、その音が壁にぶつかり、何重にも折り返って、奥の暗がりへ吸い込まれていく。一歩、二歩、三歩──やめろ、数えるな。前職の悪い癖だ。こんな時にまで、頭が勝手に勘定を始める。まるで城のほうが、俺たちの足音を一つずつ数えているみたいだった。
「……人の気配が、ねえな」
ガランが低く言った。盾は構えたまま、目だけを左右に走らせている。
たしかに、おかしい。これだけの城に、兵が一人もいない。内側はがらんどうで、空き家みたいに静まり返っている。いや、空き家じゃない。掃除の行き届いた空き家だ。主が客の到着を待っている。
「歓迎されてる、ってわけか」
エレーヌが鼻で笑った。皮肉のつもりだったんだろう。でも、語尾がほんのわずかに、上ずっていた。
歩きながら、俺はずっと壁を見ていた。
回廊の壁には、色褪せた絵が延々と続いている。剣を掲げる勇者。光をまとった聖女。ひれ伏す魔物の群れ。──過去にここへ挑んだ連中だ。けれど、進むにつれて絵の様子が変わっていく。勇者が倒れ、聖女が崩れ落ち、そして最後の一枚には、もう誰も立っていなかった。
誰が、こんなものを描いたんだ。なんで、わざわざ俺たちに見せる。答えは出ない。出るわけもない。
回廊は、ゆるやかに下っていた。
進むほどに、空気が重くなる。肩の上へ、見えない手のひらをそっと乗せられているような圧。息を吸うのに、少し力がいる。先頭を譲らないレオンの背中が、わずかに強張っているのが分かった。あの男の足取りに、初めてためらいみたいな間が挟まる。それでも、止まらない。止まれないんだろう、きっと。
やがて、鉱石の灯りが途切れた。
その先に、闇がわだかまっていた。
長い回廊の果てに、天井まで届く両開きの鉄扉。真っ黒な表面に、見たこともない文字がびっしりと刻まれている。触れなくても分かった。これは封印じゃない。誰かを中に閉じ込めるためのものでもない。外の世界から内側を切り離すための、たった一枚の境界線だ。
レオンが、ためらいもなく扉を蹴った。
重たい音を引きずって、玉座の間が口を開ける。
広間は、体育館並みの広さ。
両側に並ぶ巨大な石柱が、奥へ奥へと整然と続いていく。いくつも積み重なった石段の上に、漆黒の椅子が一つだけ据えられていた。
石段の手前で、空気が変わった。本能が後ろへ下がれと叫んでいた。理屈じゃない。体のほうが先に、逃げたがっている。
そこに、影は座っていた。
顔には、ひびひとつない黒い仮面。ゆらりと立ちのぼる、底の見えない闇みたいな気配。慌てるでもなく、急ぐでもなく、まるで最初からそこにいたかのように。
魔王がいた。




