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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第6章 魔王

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第90話 女神

『やっと、会えましたね』

 彼女が紡いだその言葉が、俺の脳裏で、冷たく封印されていたはずの記憶の扉を乱暴にこじ開けた。



     ◇



 俺は人の気持ちが理解できない男だった。

 一流の大学を出て、首席でコンサルティング会社に入った。経済モデルも、数字の読み方も、上から渡されたフレームワークの当てはめ方も、誰よりも早く覚えた。

 ただ、人の気持ちを汲むのが絶望的に下手だった。


 会議室で、依頼主が無茶な要求を口にする。俺はそれを丁寧に分解して、論理的に「それは無理です」と説明する。資料もグラフも根拠も、過不足なく揃えて。

 部屋の空気が凍る。依頼主の頬が、一瞬で真っ赤に染まる。

 俺は、自分が何を間違えたのかすらその場では分からなかった。

 数字は正しかった。論理も正しかった。なのに誰の機嫌も取れなかった。


「お前は、正しすぎるんだよ」

 上司のため息を何度浴びたか分からない。


 半年も経たないうちに、俺は閑職に追いやられていた。同期が次々と大きな案件を任されていく中で、俺だけが、誰の目にも入らない席で誰のためでもないリサーチをやっていた。

 昼休みは一人で食べた。

 夜はまっすぐ家に帰った。

 ワンルーム。蛍光灯。コンビニ弁当。

 動画の中の楽しそうな声が大きくなるほど、自分の部屋の静けさだけが際立った。


 俺は人が怖かった。

 誰かに何かを言うたびに、その人の顔が暗くなる。それを見るのが何より怖かった。

 だから、口を閉じることばかりが上手くなっていった。


 そんな男にも、たった一つだけ息ができる場所があった。


 『オンラインゲーム』


 顔が見えない。

 声が要らない。

 返さに詰まっても誰にもばれない。

 モニターの中の世界では、俺は少しだけまともな人間でいられた。


『困ってる人、ほっとけないんだよね』


 初めてイルさんのチャットがそう流れてきた時、俺は本当に死にかけていた。レベル不相応のフィールドに迷い込んで、HPが残り一割。

 通りすがりだったはずの彼女はわざわざ戻ってきて、敵を全部蹴散らしてくれた。


『……すみません、助かりました』

『どういたしまして』

『何か、お礼を』

『気にしないで。ゼンさんは初心者でしょ? じゃあ、ちょっとだけ装備の集め方、教えてあげるよ』


 ゼンさん。

 画面の中で、その文字がやけに優しく光って見えた。

 『さん』という文字がこれほど人の心を救うものだなんて、俺はそれまで知らなかった。


 それから、毎晩。

 仕事から帰ってログインすると、フレンドリストの一番上に『イル オンライン』の小さな緑のランプが灯っている。

 その緑が灯っている、ただそれだけのことで——俺は、生きていける気がした。


 最初はゲームの話だけだった。

 やがて、今日食べたもの、明日の天気、雨が嫌いだという話、眠れない夜があるという話。

 俺が言葉に詰まると、彼女は決まってこう打ってきた。


『ゆっくりで大丈夫だよ』


 その文字に、俺は何度救われたか分からない。

 誰にも急かされない。誰にも先回りされない。

 画面の向こうのその人は、俺がたどたどしい言葉を打ち終わるのをいつまででも、ただ静かに待っていてくれた。


 ある冬の夜のことだった。


 その日のゲームの中には、季節限定の雪がしんしんと降っていた。

 俺たちは何のイベントもなく、何の目的もなく、ただ二人でフィールドの端っこに並んで座っていた。


『雪、降ってますね』

『うん、きれいだね』

『……何しましょうか』

『うーん』

『……雪だるま、作ります?』

『ふふ、いいね』


 たったそれだけのやり取りで、俺たちは雪玉を転がし始めた。

 小さい玉を作って、それを地面に置いて、上にもう一つ載せる。それで一体。

 また転がして、置いて、載せて。二体目。

 三体目。四体目。


 誰一人見ていない。誰の役にも立たない。経験値もアイテムも何ひとつ手に入らない、本当に意味のない作業だった。

 それなのに——なぜか、ずっと楽しかった。


 夜がしらじらと明けかけていた。

 モニターの中の空が、ゆっくりと青から白に変わっていく。

 気がついた時、フィールドの端から端まで、不格好な雪だるまがずらりと並んでいた。


『……ちょっと、これ』

 俺は思わずチャットを打った。

『馬鹿みたいだよね』


 しばらく、返事が来なかった。

 なんとなく引かれたかな、と思った瞬間。


『めちゃくちゃ馬鹿みたいだね』


 その文字を見て、俺は声を上げて笑った。

 ワンルームの中で、一人で。

 誰もいない部屋に自分の笑い声だけが響いて——なのに、ちっとも寂しくなかった。

 モニターの向こうにいる人と、確かに一緒に笑っていた。


『また、作りましょうね』

 俺が打つと、すぐに返事が来た。

『うん。また作ろうね』


 それが、俺の二十五年の人生の中で、たぶん一番しあわせな夜だった。


 言えるなら、言いたかった。

 会いたい、と。


 その後も何度も、画面の前で迷った。

 『会いたい』『ありがとう』『あなたが好きです』——どれも打ちかけては消した。打ちかけては消した。

 送れば、全部が壊れる気がした。

 画面の向こうの『ゼンさん』と呼んでくれるあの人が、現実の俺を見たらきっとがっかりするから。

 言わなければ壊れない。

 壊れなければ、明日もまたあの緑のランプが灯る。


 だから、俺はずっと何も言わなかった。


 そして、あの夜が来た。

 時刻は深夜の二時を回っていた。

 いつものようにログインした俺の画面に、彼女のチャットがふっと届いた。


『ちょっと最近、しんどいかも』


 たった、それだけ。

 いつもなら絵文字の一つもつける人なのに。

 その文字列だけが、ぽつんと灰色の背景に浮かんでいた。

 俺はキーボードの上で指を止めた。


 大丈夫?

 何があった?

 話、聞きますよ。

 会いませんか?


 言葉はいくらでも浮かんだ。

 浮かんでは消えた。

 打ちかけてはバックスペース。打ちかけてはバックスペース。


 踏み込みすぎじゃないか。

 重いと思われないか。

 気持ち悪がられないか。

 そもそも、俺なんかに何が言えるのか。


 時計の針が二時半を回った。

 三時を回った。


 ようやく俺の指が動いた。

 送れたのは、ひどく無難な一文だった。


『そっか……あんまり、無理しないでね』


 送信ボタンを押した瞬間、自分で最低だと思った。

 そんなの、誰にだって言える。

 俺じゃなくたって言える。

 本当にあの人が欲しかった言葉が、そんなもののはずがない。


 返事は少し置いて、来た。


『ありがと、やさしいね』


 俺はその文字を、何度も、何度も読み返した。

 目の奥がじんと熱くなった。

 嬉しかったんじゃない。苦しかった。

 俺は優しくなんかない。

 本当に優しいなら、もっとちゃんと聞けただろう。

 もっとちゃんと踏み込めただろう。

 せめて——会いたいと言えただろう。


 翌日、彼女はログインしてこなかった。

 その次の日も。

 その次の日も。


 俺は毎晩、ゲームを起動した。

 フレンドリストの一番上を確かめた。

『イル オフライン』。

 灰色のランプ。

 毎晩、毎晩、灰色のままだった。


 雪だるまを作ったあのフィールドに、一人で行ってみたことがあった。

 俺たちが並べた不格好な雪だるまは、サーバーの仕様でもうとっくの昔に、ひとつ残らず消え去っていた。

 誰もいない雪原に、俺だけが立っていた。

 長い時間、動けなかった。


 俺はその後、何ヶ月か抜け殻のように生きていた。


 仕事はもう、本当にどうでもよかった。

 誰に何を言われても何も感じなかった。

 ただ、夜になるたびにゲームを起動して、灰色のランプを確かめるためだけに生きていた。


 雨の降る、ある夜のこと。

 帰り道で、俺は車に撥ねられた。

 誰かが叫ぶ声が、水底から聞こえるみたいに遠ざかっていく。

 ふと、財布に入れたままの臓器提供カードを思い出した。

 生きてる間は誰の心も救えなかった。

 ならせめて、死んだ後に誰かのパーツとして使われるくらいが、相沢善一あいさわ ぜんいちという空っぽの男にはお似合いだと思った。



     ◇



 真っ白な空間に、陽だまりみたいな金髪。湖より深い碧色の瞳。

 絵本の中から抜け出してきたような『女神』が、静かに佇んでいた。


「やっと、会えましたね」


 透き通っていて、どうしようもなく胸の奥が締め付けられる声。

 初めて会うはずなのに。

 彼女はまるでずっと待ち焦がれていた人を迎えるように微笑み……そのくせ、今にも泣き崩れてしまいそうなほど、ひどく傷ついた瞳をしていた。


「転生にあたり、一つだけ特典を与えます。剣の才、魔法の才、強靭な肉体……。あなたが望むままに」


 虚空に浮かび上がったのは、誰もが憧れるようなチート能力の数々だった。

 だが、俺の目は一つも追わなかった。


 まぶたの裏に、あの夜の画面が見えていた。

 返信を打っては消した。打っては消した。最後に送ったのは、魂の抜けたコピペの言葉。

 イルさんの「やさしいね」という一言が、半年経ってもまだ痛い。


「……能力」


 掠れた声がこぼれる。

 俺は震える手をぎゅっと握り込み、女神の顔を真っ直ぐに見つめ返した。


「人の……心を読み取って、ちゃんと話せる能力がほしいです」


「えっ……?」


 予想外の言葉だったのか、女神が小さく息を呑む。


「空気を読めて、相手の痛みがわかって……自分の本当の気持ちを、まっすぐ相手に届けられる。そんな、普通のやつ……です」


 剣なんて要らない。魔法も要らない。


 ただ。

 逃げ出したあの夜の続きを、今度こそやり直すために。

 喉の奥につかえて二度と届けられなくなってしまった言葉を、次こそはちゃんと声にするために。


 沈黙が落ちる。

 やがて、女神の強張っていた肩の力がふっと抜けた。

 それから、まるで長年の重荷が解けたように、花が咲くような柔らかい笑みがこぼれた。


「ええ、わかりました。では、あなたに『人の心を汲み、言葉を届ける力』を授けましょう」


 温かい光が、足元からゆっくりと包み込んでいく。

 溶けていく意識の端で。

 女神がそっと俺に寄り添い、祈るように囁いた。


『どうか、あの方を探してあげてくださいね』


 誰のことか。


 聞き返す間もなく、体は光の渦へと落ちていく。

 目を閉じる。


 今度こそ。

 今度こそ絶対に、自分の弱さから逃げ出さない。

「会いたい」と、ただその一言を、一番伝えたい相手に届けるために。


 ゼンとしての、二度目の人生が始まった。



     ◇



 女神はイリアだった。

 そして、あの真っ白な空間で、彼女は俺に言ったのだ。

『どうか、あの方を探してあげてくださいね』と。

 あの方。

 イリアが俺に、命を懸けてまで「心を汲む力」を授けて「探せ」と言った相手。

「……イル、さん」

 ただ空を見上げていた。


 戦場の上に、夕陽が最後の残り火を投げかけていた。

 西の空が、燃えるような橙と深い藍に分かたれている。

 そのあわいから、金色の光の粒が、まだぽつぽつと降り続けていた。


 その一粒が頬に触れる。

 あたたかかった。

 涙より、ずっとあたたかかった。


 俺は何も考えられなかった。

 ただ空を見上げて、声を上げずに泣き続けた。

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