第90話 女神
『やっと、会えましたね』
彼女が紡いだその言葉が、俺の脳裏で、冷たく封印されていたはずの記憶の扉を乱暴にこじ開けた。
◇
俺は人の気持ちが理解できない男だった。
一流の大学を出て、首席でコンサルティング会社に入った。経済モデルも、数字の読み方も、上から渡されたフレームワークの当てはめ方も、誰よりも早く覚えた。
ただ、人の気持ちを汲むのが絶望的に下手だった。
会議室で、依頼主が無茶な要求を口にする。俺はそれを丁寧に分解して、論理的に「それは無理です」と説明する。資料もグラフも根拠も、過不足なく揃えて。
部屋の空気が凍る。依頼主の頬が、一瞬で真っ赤に染まる。
俺は、自分が何を間違えたのかすらその場では分からなかった。
数字は正しかった。論理も正しかった。なのに誰の機嫌も取れなかった。
「お前は、正しすぎるんだよ」
上司のため息を何度浴びたか分からない。
半年も経たないうちに、俺は閑職に追いやられていた。同期が次々と大きな案件を任されていく中で、俺だけが、誰の目にも入らない席で誰のためでもないリサーチをやっていた。
昼休みは一人で食べた。
夜はまっすぐ家に帰った。
ワンルーム。蛍光灯。コンビニ弁当。
動画の中の楽しそうな声が大きくなるほど、自分の部屋の静けさだけが際立った。
俺は人が怖かった。
誰かに何かを言うたびに、その人の顔が暗くなる。それを見るのが何より怖かった。
だから、口を閉じることばかりが上手くなっていった。
そんな男にも、たった一つだけ息ができる場所があった。
『オンラインゲーム』
顔が見えない。
声が要らない。
返さに詰まっても誰にもばれない。
モニターの中の世界では、俺は少しだけまともな人間でいられた。
『困ってる人、ほっとけないんだよね』
初めてイルさんのチャットがそう流れてきた時、俺は本当に死にかけていた。レベル不相応のフィールドに迷い込んで、HPが残り一割。
通りすがりだったはずの彼女はわざわざ戻ってきて、敵を全部蹴散らしてくれた。
『……すみません、助かりました』
『どういたしまして』
『何か、お礼を』
『気にしないで。ゼンさんは初心者でしょ? じゃあ、ちょっとだけ装備の集め方、教えてあげるよ』
ゼンさん。
画面の中で、その文字がやけに優しく光って見えた。
『さん』という文字がこれほど人の心を救うものだなんて、俺はそれまで知らなかった。
それから、毎晩。
仕事から帰ってログインすると、フレンドリストの一番上に『イル オンライン』の小さな緑のランプが灯っている。
その緑が灯っている、ただそれだけのことで——俺は、生きていける気がした。
最初はゲームの話だけだった。
やがて、今日食べたもの、明日の天気、雨が嫌いだという話、眠れない夜があるという話。
俺が言葉に詰まると、彼女は決まってこう打ってきた。
『ゆっくりで大丈夫だよ』
その文字に、俺は何度救われたか分からない。
誰にも急かされない。誰にも先回りされない。
画面の向こうのその人は、俺がたどたどしい言葉を打ち終わるのをいつまででも、ただ静かに待っていてくれた。
ある冬の夜のことだった。
その日のゲームの中には、季節限定の雪がしんしんと降っていた。
俺たちは何のイベントもなく、何の目的もなく、ただ二人でフィールドの端っこに並んで座っていた。
『雪、降ってますね』
『うん、きれいだね』
『……何しましょうか』
『うーん』
『……雪だるま、作ります?』
『ふふ、いいね』
たったそれだけのやり取りで、俺たちは雪玉を転がし始めた。
小さい玉を作って、それを地面に置いて、上にもう一つ載せる。それで一体。
また転がして、置いて、載せて。二体目。
三体目。四体目。
誰一人見ていない。誰の役にも立たない。経験値もアイテムも何ひとつ手に入らない、本当に意味のない作業だった。
それなのに——なぜか、ずっと楽しかった。
夜がしらじらと明けかけていた。
モニターの中の空が、ゆっくりと青から白に変わっていく。
気がついた時、フィールドの端から端まで、不格好な雪だるまがずらりと並んでいた。
『……ちょっと、これ』
俺は思わずチャットを打った。
『馬鹿みたいだよね』
しばらく、返事が来なかった。
なんとなく引かれたかな、と思った瞬間。
『めちゃくちゃ馬鹿みたいだね』
その文字を見て、俺は声を上げて笑った。
ワンルームの中で、一人で。
誰もいない部屋に自分の笑い声だけが響いて——なのに、ちっとも寂しくなかった。
モニターの向こうにいる人と、確かに一緒に笑っていた。
『また、作りましょうね』
俺が打つと、すぐに返事が来た。
『うん。また作ろうね』
それが、俺の二十五年の人生の中で、たぶん一番しあわせな夜だった。
言えるなら、言いたかった。
会いたい、と。
その後も何度も、画面の前で迷った。
『会いたい』『ありがとう』『あなたが好きです』——どれも打ちかけては消した。打ちかけては消した。
送れば、全部が壊れる気がした。
画面の向こうの『ゼンさん』と呼んでくれるあの人が、現実の俺を見たらきっとがっかりするから。
言わなければ壊れない。
壊れなければ、明日もまたあの緑のランプが灯る。
だから、俺はずっと何も言わなかった。
そして、あの夜が来た。
時刻は深夜の二時を回っていた。
いつものようにログインした俺の画面に、彼女のチャットがふっと届いた。
『ちょっと最近、しんどいかも』
たった、それだけ。
いつもなら絵文字の一つもつける人なのに。
その文字列だけが、ぽつんと灰色の背景に浮かんでいた。
俺はキーボードの上で指を止めた。
大丈夫?
何があった?
話、聞きますよ。
会いませんか?
言葉はいくらでも浮かんだ。
浮かんでは消えた。
打ちかけてはバックスペース。打ちかけてはバックスペース。
踏み込みすぎじゃないか。
重いと思われないか。
気持ち悪がられないか。
そもそも、俺なんかに何が言えるのか。
時計の針が二時半を回った。
三時を回った。
ようやく俺の指が動いた。
送れたのは、ひどく無難な一文だった。
『そっか……あんまり、無理しないでね』
送信ボタンを押した瞬間、自分で最低だと思った。
そんなの、誰にだって言える。
俺じゃなくたって言える。
本当にあの人が欲しかった言葉が、そんなもののはずがない。
返事は少し置いて、来た。
『ありがと、やさしいね』
俺はその文字を、何度も、何度も読み返した。
目の奥がじんと熱くなった。
嬉しかったんじゃない。苦しかった。
俺は優しくなんかない。
本当に優しいなら、もっとちゃんと聞けただろう。
もっとちゃんと踏み込めただろう。
せめて——会いたいと言えただろう。
翌日、彼女はログインしてこなかった。
その次の日も。
その次の日も。
俺は毎晩、ゲームを起動した。
フレンドリストの一番上を確かめた。
『イル オフライン』。
灰色のランプ。
毎晩、毎晩、灰色のままだった。
雪だるまを作ったあのフィールドに、一人で行ってみたことがあった。
俺たちが並べた不格好な雪だるまは、サーバーの仕様でもうとっくの昔に、ひとつ残らず消え去っていた。
誰もいない雪原に、俺だけが立っていた。
長い時間、動けなかった。
俺はその後、何ヶ月か抜け殻のように生きていた。
仕事はもう、本当にどうでもよかった。
誰に何を言われても何も感じなかった。
ただ、夜になるたびにゲームを起動して、灰色のランプを確かめるためだけに生きていた。
雨の降る、ある夜のこと。
帰り道で、俺は車に撥ねられた。
誰かが叫ぶ声が、水底から聞こえるみたいに遠ざかっていく。
ふと、財布に入れたままの臓器提供カードを思い出した。
生きてる間は誰の心も救えなかった。
ならせめて、死んだ後に誰かのパーツとして使われるくらいが、相沢善一という空っぽの男にはお似合いだと思った。
◇
真っ白な空間に、陽だまりみたいな金髪。湖より深い碧色の瞳。
絵本の中から抜け出してきたような『女神』が、静かに佇んでいた。
「やっと、会えましたね」
透き通っていて、どうしようもなく胸の奥が締め付けられる声。
初めて会うはずなのに。
彼女はまるでずっと待ち焦がれていた人を迎えるように微笑み……そのくせ、今にも泣き崩れてしまいそうなほど、ひどく傷ついた瞳をしていた。
「転生にあたり、一つだけ特典を与えます。剣の才、魔法の才、強靭な肉体……。あなたが望むままに」
虚空に浮かび上がったのは、誰もが憧れるようなチート能力の数々だった。
だが、俺の目は一つも追わなかった。
まぶたの裏に、あの夜の画面が見えていた。
返信を打っては消した。打っては消した。最後に送ったのは、魂の抜けたコピペの言葉。
イルさんの「やさしいね」という一言が、半年経ってもまだ痛い。
「……能力」
掠れた声がこぼれる。
俺は震える手をぎゅっと握り込み、女神の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「人の……心を読み取って、ちゃんと話せる能力がほしいです」
「えっ……?」
予想外の言葉だったのか、女神が小さく息を呑む。
「空気を読めて、相手の痛みがわかって……自分の本当の気持ちを、まっすぐ相手に届けられる。そんな、普通のやつ……です」
剣なんて要らない。魔法も要らない。
ただ。
逃げ出したあの夜の続きを、今度こそやり直すために。
喉の奥につかえて二度と届けられなくなってしまった言葉を、次こそはちゃんと声にするために。
沈黙が落ちる。
やがて、女神の強張っていた肩の力がふっと抜けた。
それから、まるで長年の重荷が解けたように、花が咲くような柔らかい笑みがこぼれた。
「ええ、わかりました。では、あなたに『人の心を汲み、言葉を届ける力』を授けましょう」
温かい光が、足元からゆっくりと包み込んでいく。
溶けていく意識の端で。
女神がそっと俺に寄り添い、祈るように囁いた。
『どうか、あの方を探してあげてくださいね』
誰のことか。
聞き返す間もなく、体は光の渦へと落ちていく。
目を閉じる。
今度こそ。
今度こそ絶対に、自分の弱さから逃げ出さない。
「会いたい」と、ただその一言を、一番伝えたい相手に届けるために。
ゼンとしての、二度目の人生が始まった。
◇
女神はイリアだった。
そして、あの真っ白な空間で、彼女は俺に言ったのだ。
『どうか、あの方を探してあげてくださいね』と。
あの方。
イリアが俺に、命を懸けてまで「心を汲む力」を授けて「探せ」と言った相手。
「……イル、さん」
ただ空を見上げていた。
戦場の上に、夕陽が最後の残り火を投げかけていた。
西の空が、燃えるような橙と深い藍に分かたれている。
そのあわいから、金色の光の粒が、まだぽつぽつと降り続けていた。
その一粒が頬に触れる。
あたたかかった。
涙より、ずっとあたたかかった。
俺は何も考えられなかった。
ただ空を見上げて、声を上げずに泣き続けた。




