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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第6章 魔王

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第89話 身勝手な魔法

 ギチ、ギチギチと、結界が悲鳴を上げる。

 イリアの細い肩が、爪が振り下ろされるたびに小さく跳ねた。光の傘の表面に、亀裂が幾筋も走っている。それは見るからに、長くはもたなかった。

 俺の脳の片隅で、冷えきった計算が回り続けていた。あと何撃。あと何秒。エレーヌが目を覚ますまでの時間は、絶対に足りない。


 だったら、せめて引き受けるしかない。


「ヴォルドーっ! こっちだ!」


 喉が裂けるほどに、声を絞り出す。

 戦闘力ゼロの軍師の駒に、最後にできる仕事はそれだけだ。バーサーカーがこちらを向く。

 よし、と心の中で頷きかけて、膝が勝手に折れた。

 限界だった右脚が、ついに俺を支えきれなくなったのだ。

 石畳が、頬を打った。

 冷たかった。夕陽はとうに沈みかけている。ヴォルドの足が、ゆっくりとこちらへ向きを変えるのが、横倒しになった視界の隅に映る。

 ああ。これで、いい。

 イリアが結界を維持できる間に、俺の身体で一撃でも稼げれば、それだけで。


「——もう、いいんです」


 イリアが言ったその瞬間。

 彼女の細い身体から、光が溢れ出した。

 今まで彼女が放ってきた、温度の低い、撫でるような加護の光ではなかった。脈を打ち、息をするように、生き物のように熱を持った光。

 すぐにピンときた。あれを使うつもりだ。俺の思考からあえて排除した可能性。


「やめろ、イリア——っ!」


「……勘違いしないでくださいね、ゼンさん」


 吐息のような、小さな声だった。

 なのに、戦場の喧騒のすべてを退けて、まっすぐ俺の鼓膜に届いた。


「私、あなたたちのために……命を捨てるんじゃ、ないんですよ」


 ふっ、と笑う。


「シスターを失って。その上、ゼンさんたちまで失ったら——」

「私の心は、もう、もたない」


 光の粒が、ローブの裾から、ふわり、と一つ昇った。


「これは、私が私の心を守るための、身勝手な魔法なんです」


 あの、いつもおどおどとして、自分の傷を「自分のせい」と数えていたイリアが。

 罪悪感の鎖を、自己否定の鎧を、聖女としての義務を——その全部を脱ぎ捨てて、笑っていた。

 ただの、女の子の顔で。


「イリア」


 声が、掠れた。


「行くなー」


 彼女は、何も言わずに、ただ笑った。


 その時。

 光の壁の外で、ヴォルドが咆哮を上げた。

 黒い泡が再生を続けるその巨躯が、爪を振り上げ、光の壁ごとイリアを叩き潰しに来る。

 俺の喉が、悲鳴の形に裂けた。


 イリアが、胸の前で、そっと両手を組んだ。

 血と泥に汚れた、細い、十七歳の指。


「聖なる光よ。その温もりをもって——」

「迷える魂を、救いたまえ」


 ああ、と。

 俺の喉が、声にならない呻きを漏らした。

 そして、悟ってしまった。

 三年前のあの夜、シスターが最期に浮かべていた表情も、きっと、今のイリアと、寸分違わない顔だったのだ。

 世界のためじゃない。教義のためでもない。

 ただ——失いたくなかった人のための、身勝手な魔法。

 イリアが三年間、ずっと自分を呪い続けてきた「立派な犠牲」の正体は——たぶん、そうだったのだ。

 それを今、彼女自身が同じ形で証明しようとしている。


「浄化の光!」


 組まれた指の隙間から、一筋の金色の光がこぼれ落ちる。

 それは、毎朝、孤児院の食堂の窓から差し込んでいたという、あの陽だまりの色。

 光は波紋のように広がり、夕暮れの石畳を、バーサーカーとなったヴォルドを——

 いや、戦場のすべてを、ゆっくりと、黄金色に染め上げていった。

 漆黒だったイリアの長い髪が、根本からゆっくりと——金に染まっていく。

 まるで陽だまりが、髪の一筋一筋を溶かして、塗り替えていくみたいに。

 深い、温かい焦げ茶色だったはずの彼女の瞳が、透き通るような碧に染まっていた。湖の底まで光が差し込むような、底知れない透明さ


 あたたかい。

 刃のような鋭さなんて、欠片も持っていない。

 怒りでも、悲しみでもない。

 ただ、目の前のすべてを、優しく抱きしめるような光。


 ヴォルドの爪が、その光に触れた、瞬間。


 ふわ、と。


 黒い狂気が——溶けた。


 燃え尽きるのでも、弾き飛ばされるのでもない。たとえばカップに垂らした一滴のインクが、温かい水のなかで、すうっとほどけて消えていくように。

 ヴォルドの巨躯を覆っていた漆黒の靄が、足元から、ゆっくりと光に溶かされていく。

 充血しきっていた赤い眼に、人間の色が戻る。

 振り上げられた爪が、再生をやめ、ただの魔族の指へと戻っていく。


 光の粒が、また一つ、ふわりと舞い上がる。

 イリアのつま先から、ぽろぽろと、無数の金色の粒が、空へと昇り始めていた。

 蛍の群れのように、ゆっくりと。

 三年前のあの夜、夕暮れの空にシスターが消えていったのと、まったく、同じように。


「イリア——っ!」


 イリアが、もう一度、笑った。

 今度は少しだけ、いたずらっぽく。


 組んでいた両手を解き、片手だけを、ゆっくりと自分の胸に押し当てる。


 光が、強くなる。

 夕陽が、白く、塗りつぶされていく。

 俺の視界の中に、最後に残ったのは。

 光の粒に半分溶けた、彼女の輪郭だけだった。


 その光の奥で。

 彼女の唇が、最後に、ゆっくりと動いた。


 声には、ならなかった。

 焼き付くように、確かに俺の目に届いた。


『やっと、会えましたね』


 心臓が、どくん、と跳ねた。

 女神が俺に最初にかけた言葉。


「待ってくれ……」


 俺の指先は、もう、何もない空間を握りしめていた。

 光の壁は、いつの間にか、消えていた。

 代わりに、夕暮れの石畳の上に、ふわふわとした金色の光の粒が、ほろほろと、雪のように降り注いでいる。


 その粒のひとつが、俺の頬に、そっと触れた。

 涙より、ずっとあたたかかった。


 イリアの姿は、もう、どこにもなかった。

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