第89話 身勝手な魔法
ギチ、ギチギチと、結界が悲鳴を上げる。
イリアの細い肩が、爪が振り下ろされるたびに小さく跳ねた。光の傘の表面に、亀裂が幾筋も走っている。それは見るからに、長くはもたなかった。
俺の脳の片隅で、冷えきった計算が回り続けていた。あと何撃。あと何秒。エレーヌが目を覚ますまでの時間は、絶対に足りない。
だったら、せめて引き受けるしかない。
「ヴォルドーっ! こっちだ!」
喉が裂けるほどに、声を絞り出す。
戦闘力ゼロの軍師の駒に、最後にできる仕事はそれだけだ。バーサーカーがこちらを向く。
よし、と心の中で頷きかけて、膝が勝手に折れた。
限界だった右脚が、ついに俺を支えきれなくなったのだ。
石畳が、頬を打った。
冷たかった。夕陽はとうに沈みかけている。ヴォルドの足が、ゆっくりとこちらへ向きを変えるのが、横倒しになった視界の隅に映る。
ああ。これで、いい。
イリアが結界を維持できる間に、俺の身体で一撃でも稼げれば、それだけで。
「——もう、いいんです」
イリアが言ったその瞬間。
彼女の細い身体から、光が溢れ出した。
今まで彼女が放ってきた、温度の低い、撫でるような加護の光ではなかった。脈を打ち、息をするように、生き物のように熱を持った光。
すぐにピンときた。あれを使うつもりだ。俺の思考からあえて排除した可能性。
「やめろ、イリア——っ!」
「……勘違いしないでくださいね、ゼンさん」
吐息のような、小さな声だった。
なのに、戦場の喧騒のすべてを退けて、まっすぐ俺の鼓膜に届いた。
「私、あなたたちのために……命を捨てるんじゃ、ないんですよ」
ふっ、と笑う。
「シスターを失って。その上、ゼンさんたちまで失ったら——」
「私の心は、もう、もたない」
光の粒が、ローブの裾から、ふわり、と一つ昇った。
「これは、私が私の心を守るための、身勝手な魔法なんです」
あの、いつもおどおどとして、自分の傷を「自分のせい」と数えていたイリアが。
罪悪感の鎖を、自己否定の鎧を、聖女としての義務を——その全部を脱ぎ捨てて、笑っていた。
ただの、女の子の顔で。
「イリア」
声が、掠れた。
「行くなー」
彼女は、何も言わずに、ただ笑った。
その時。
光の壁の外で、ヴォルドが咆哮を上げた。
黒い泡が再生を続けるその巨躯が、爪を振り上げ、光の壁ごとイリアを叩き潰しに来る。
俺の喉が、悲鳴の形に裂けた。
イリアが、胸の前で、そっと両手を組んだ。
血と泥に汚れた、細い、十七歳の指。
「聖なる光よ。その温もりをもって——」
「迷える魂を、救いたまえ」
ああ、と。
俺の喉が、声にならない呻きを漏らした。
そして、悟ってしまった。
三年前のあの夜、シスターが最期に浮かべていた表情も、きっと、今のイリアと、寸分違わない顔だったのだ。
世界のためじゃない。教義のためでもない。
ただ——失いたくなかった人のための、身勝手な魔法。
イリアが三年間、ずっと自分を呪い続けてきた「立派な犠牲」の正体は——たぶん、そうだったのだ。
それを今、彼女自身が同じ形で証明しようとしている。
「浄化の光!」
組まれた指の隙間から、一筋の金色の光がこぼれ落ちる。
それは、毎朝、孤児院の食堂の窓から差し込んでいたという、あの陽だまりの色。
光は波紋のように広がり、夕暮れの石畳を、バーサーカーとなったヴォルドを——
いや、戦場のすべてを、ゆっくりと、黄金色に染め上げていった。
漆黒だったイリアの長い髪が、根本からゆっくりと——金に染まっていく。
まるで陽だまりが、髪の一筋一筋を溶かして、塗り替えていくみたいに。
深い、温かい焦げ茶色だったはずの彼女の瞳が、透き通るような碧に染まっていた。湖の底まで光が差し込むような、底知れない透明さ
あたたかい。
刃のような鋭さなんて、欠片も持っていない。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、目の前のすべてを、優しく抱きしめるような光。
ヴォルドの爪が、その光に触れた、瞬間。
ふわ、と。
黒い狂気が——溶けた。
燃え尽きるのでも、弾き飛ばされるのでもない。たとえばカップに垂らした一滴のインクが、温かい水のなかで、すうっとほどけて消えていくように。
ヴォルドの巨躯を覆っていた漆黒の靄が、足元から、ゆっくりと光に溶かされていく。
充血しきっていた赤い眼に、人間の色が戻る。
振り上げられた爪が、再生をやめ、ただの魔族の指へと戻っていく。
光の粒が、また一つ、ふわりと舞い上がる。
イリアのつま先から、ぽろぽろと、無数の金色の粒が、空へと昇り始めていた。
蛍の群れのように、ゆっくりと。
三年前のあの夜、夕暮れの空にシスターが消えていったのと、まったく、同じように。
「イリア——っ!」
イリアが、もう一度、笑った。
今度は少しだけ、いたずらっぽく。
組んでいた両手を解き、片手だけを、ゆっくりと自分の胸に押し当てる。
光が、強くなる。
夕陽が、白く、塗りつぶされていく。
俺の視界の中に、最後に残ったのは。
光の粒に半分溶けた、彼女の輪郭だけだった。
その光の奥で。
彼女の唇が、最後に、ゆっくりと動いた。
声には、ならなかった。
焼き付くように、確かに俺の目に届いた。
『やっと、会えましたね』
心臓が、どくん、と跳ねた。
女神が俺に最初にかけた言葉。
「待ってくれ……」
俺の指先は、もう、何もない空間を握りしめていた。
光の壁は、いつの間にか、消えていた。
代わりに、夕暮れの石畳の上に、ふわふわとした金色の光の粒が、ほろほろと、雪のように降り注いでいる。
その粒のひとつが、俺の頬に、そっと触れた。
涙より、ずっとあたたかかった。
イリアの姿は、もう、どこにもなかった。




