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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第6章 魔王

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第88話 魔王の決意

 ワイドランドとロングケープの二つの領地は、豊かな収穫に沸いている。

 ある朝のことだ。玉座の間でヴォルドがいつも通りの定例報告をすべて終え、一息ついたその瞬間に、イルミナが思い出したように口を開いた。


「ヴォルド。一度、この目で見てみたいんです」

 上目遣いで、甘えた声だった。

「あの村を作るって決めた人間が、一度も自分の足で歩いたことがないっておかしいでしょう。だから」


 それはどこか、駄々をこねる子供を思わせる口調でもあった。

 ヴォルドは主の意を汲み、深く頭を垂れて「御意」とだけ短く応じた。

 お供として随行するのはヴォルド一人。

 二人は身分を隠すため商人の衣服に身を包み、ひっそりと城を後にした。


 目的地の一つであるロングケープの集落に辿り着いたのは、城を発ってから三日目の、昼少し前のことだった。

 岬の険しい崖沿いからは、潮の香りを孕んだ海風が勢いよく吹き上げてくる。

 集落の真ん中にある広場に目を向けると、頑丈な石組みの井戸が据え付けられていた。

 その周囲を、五、六人の子供たちが賑やかに取り囲んで騒いでいる。


 獣人の子供が力一杯に桶を引き上げ、人間の子供がその滑車の縄が緩まないよう必死に支え、さらに魔族の子供が息を合わせて桶の縁をガシリと掴み、地面へと下ろしていく。

 実に見事な三人がかりの共同作業だった。それを自分たちより小さな子供たちが囲み、はしゃいだ声を張り上げている。

 イルミナは、広場の片隅に転がっていた古い切り株を見つけて腰を下ろし、その微笑ましい光景から片時も目を離さずに見つめ続けていた


「……ヴォルド」

「は」

「あれが、見たかったんです、わたし」

「は」

「あれだけで、もう十分です」


 彼女は噛み締めるようにそう漏らすと、少し照れくさそうに、守ってあげたくなるような笑みを浮かべた。

 ヴォルドはその主の表情を胸に刻み込むようにして、深く頭を下げた。


 その後、ロングケープの長老の家でもてなしの昼食を有難くいただき、午後のまだ早い時間帯に村を後にした。

 西の空が赤く染まる頃、ワイドランドの全景を視界に収める丘の頂へと二人は差し掛かった。


「……今夜は、ここで泊まりませんか」

 馬の背に揺られながら、イルミナが唐突に提案した。


「街道の宿でよろしいかと――」

「いえ。あの村を見下ろしながら、ここで野営したいんです」


 季節は夏であり、上空からの夜露さえ防ぐことができれば体力的には何の問題もない。

 用意を終えた二人は焚き火の火を熾し、それを囲むようにして、持参した乾し肉と硬い旅用のパンを黙々と口に運んだ。

 東の夜空には、宵の明星を皮切りに、またたく星々が次々と姿を現しつつあった。


「ヴォルド」

「は」

「明日、あの村に着いたら、一番先に井戸を見せてください」

「井戸をですか」

「ええ。ロングケープの井戸と同じものを作ったと聞いているので」

「……御意」


 イルミナはパチパチと爆ぜる火に両手をかざし、心ここにあらずといった様子でその赤黒い炎の揺らめきを見つめ続けていた。

 周囲には風の音すらなく、不気味なほどに静かな夜だった。


 その惨劇の始まりは、音ではなく、圧倒的な光だった。

 北西の夜空が、まるで時間を強引に進められたかのように、一瞬にして真昼の明るさに染まった。

 自然界の太陽をも遥かに凌駕する、不自然なほどにギラギラとした光だ。

 それが一秒の出来事だったのか、それとも十秒以上が経過したのか。

 世界から白い光が引いた後も、網膜が焼き付いてしばらくは周囲の景色を視認することができない。


 そしてその直後、今度は狂暴な音と風の塊が押し寄せてきた。


 地響きをともなう重苦しい唸り声のような爆風が、丘の斜面を猛烈な勢いで駆け上がってくる。

 ヴォルドは考えるよりも先にイルミナの身体をその太い腕で抱きかかえ、硬い地面へと組み伏せるようにして庇った。

 周囲の森からは、大樹の幹が根元からへし折れる凄まじい破壊音が鳴り響き、繋がれていた馬たちが杭を引きちぎって闇雲に逃げだした。


 荒れ狂う風がようやく通り過ぎたのを確認し、ヴォルドは慎重に頭を持ち上げた。

 視線を向けたワイドランドの上空には、見たこともない、あまりにも巨大な、きのこの形状をした雲が立ち上っていた。


「……嘘」

 ヴォルドの胸に抱かれたまま、イルミナが震える掠れた声で呟いた。

「嘘でしょう……こんな、こんな魔法、あるはずが……」


 ヴォルドはその絶望に満ちた呟きを間近で聞いて、直感的に悟った。

 陛下は、今目の前で起きているこの信じがたい光景が何であるかを、知識として知っているのだ。

 その正体を理解しているからこそ、それが現実にもたらされたことを信じられずに拒絶している。


 その時、崩壊したワイドランドを挟んだ遥か対岸の丘、もう一つの高台の上に不審な人影が佇んでいるのが見えた。

 魔族特有の鋭い夜目を持っていなければ、距離の遠さから完全に見落としていたはずの存在だった。

 そこには、濃紺か黒と思しき深い色のローブに身を包んだ、長髪の女魔導士が毅然と立っていた。

 その魔導士は、またたく間に灰燼へと帰していくワイドランドの惨状を、高みの見物とばかりに冷然と観察していた。

 やがてその人影は、すべての仕事が完了したと判断したかのように、何のためらいもなく、悠然とした足取りで丘の向こう側へと姿を消していく。

 ヴォルドは怒りに震えながら、その立ち去る後ろ姿を、瞬きすることさえ忘れて睨みつけ続けた。

 あの憎むべき背中を、自分は死ぬまで絶対に忘れることはないだろう。


 丘を駆け下り、惨劇の舞台となったワイドランドへと辿り着いた頃には、東の空が白々と明け始めていた。

 乗ってきた馬はとうに逃げ去っており、二人は走って、幾度も泥まみれになって転倒しながら、辿り着いたのだ。

 しかし、目の前に広がっていた村は、もはや人の住む集落の形を留めていなかった。


 強固なはずの石組みの外壁は、外側からの凄まじい圧力によって内側へ向けて無残に爆砕している。

 木造の住居にいたっては骨組みの根元から炭化し、焼け落ちた屋根が地面の土と同化するように潰れていた。

 周囲の土壌そのものがどす黒く焼け焦げており、一歩足を進めるたびに、靴底の下で何か脆い物体がしゃりと嫌な音を立てて粉々に砕け散った。


 視界のあちこちに、かつて人間や魔族であったろう、人型の黒い炭が無数に転がっていた。

 必死にその場から逃げ出そうと足を前に出した姿勢のまま。

 あるいは、愛する誰かの名前を呼ぼうと手を虚空に伸ばした姿勢のまま、生前のあらゆる未練と絶望が、命が尽きたその瞬間の形で無残に固定されていた。


 かつての中央広場、崩壊した井戸のすぐ傍らには、大小二つの炭の塊が寄り添うように横たわっていた。

 一回り大きな塊が、小さな塊を壊さないようにしっかりと腕の中に抱き込んでいる。


 イルミナは魂が抜けたような足取りでその死体に歩み寄り、力なく地面に膝を突いた。

 長い沈黙の間、彼女は微動だにせずその黒い塊を見つめ続けていた。

 やがて、抑えきれない怒りと悲しみで激しく震える指先を、母親の肩とおぼしき部分へおそるおそる触れさせた。

 くしゃり、と乾ききった、嫌な音が静寂を破る。


 指が触れたその部分を起点に、母親の形を成していた炭が崩壊し始めた。

 最後に子供の体重を支えていた手のひらが粉々に砕け散った瞬間、守られていた小さな炭の塊もまた支えを失い、母親だった灰の山の上へと無残に転がり落ちた。

 イルミナの指先には、生々しい黒い煤汚れだけが取り残されていた。


 ヴォルドは主の背後に直立したまま、かけるべき言葉をどうしても見つけられずにいた。

 兵として数多の戦場を潜り抜け、凄惨な死体など嫌というほど目にしてきた自負がある。

 だが、それらは皆、己の意思で武器を握り、敵と戦い、抗った末に命を落とした兵士たちの記録だ。

 この場所に転がっている無数の炭は、それとは根本的に性質が異なっていた。

 悲哀の涙すら、その瞳から零れ落ちることはなかった。


 ヴォルドの胸中には、これまでの全人生で味わったことのない、狂暴なまでの憤怒が煮えくり返っていた。

 今すぐにでもあの長い髪の魔女を追跡し、その首をねじ切ってやりたい。

 激昂する彼の脳裏に、突如として昏い底から湧き上がるような、形を持たない悪魔の低い囁きが響き渡った。


『お前が魂をよこせば、復讐をするのに十分な力を与える』


 その甘美な誘惑に身を任せ、今すぐ理性をかなぐり捨てて暴走しそうになる。しかし、それを押し留めたのは、他でもない陛下が定めた絶対の掟だった。

 攻めるな、まずは言葉を交わせ。

 戦争というものは始めるよりも、引き返すことの方が何百倍も困難だと、かつて魔王城の玉座にて、陛下は言った。

 その時の慈愛に満ちた言葉が、今なおヴォルドの喉の奥に熱い塊として刻まれている。

 もしも本当にその時が訪れてしまったなら、この魂を差し出す――。

 周囲に誰もいない破滅の灰の中で、一つの呪わしい契約が密かに成立した。


「いつまでも」

 ヴォルドは足元の灰に向かって、地を這うような低い声で吐き捨てた。

 あの長い髪の魔女が、いつの日か自らの足でこの魔王城の門を叩き、裁きを受けにやってくるその瞬間まで。

「俺は待っている」

 彼はその焦土の上で、二重の誓念を固く結んだ。


 命からがら魔王城へと帰還したその日の夕刻、イルミナはすぐさま玉座の間へ魔王軍の幹部全員を非常招集した。

 往路からの三日間、彼女は水すらまともに喉を通さず、一言の弱音も漏らさぬままだった。

 集まった幹部たちは、緊迫した空気から誰一人として何が起きたのかを詮索しようとはしなかった。


 玉座へと続く階段の手前、ポツンと用意された小さな卓の上には、一つの黒い仮面が鎮座していた。

 かつて即位の儀礼用に一流の職人へ作らせたものの、平和を望む本人の意向からほとんど使われる機会のなかった、曰く付きの仮面だ。

 光を吸い込むような漆黒の造形の中に、目元の部分だけが僅かに透けて見える特殊な細工が施されていた。


 イルミナは躊躇うことなく、その仮面を両手でガシリと掴み上げた。

 冷徹な黒い表面を食い入るように見つめ、何かを決断したように、自身の顔へと押し当てて後ろの紐をきつく締め上げた。


 無機質な黒い光沢が、彼女の豊かな感情をすべて外の世界から遮断した。

 仮面の奥深くで、琥珀色をした瞳の輪郭だけが、未だ収まらぬ怒りに微かに震えている。


「私の村が報われるその日まで」

 仮面の障壁を通したその声は、重苦しく室内に響いた。

「私はこの顔を、民の前に晒しません」

 その硬固な決意を前に、幹部たちの頭が一斉に、深々と下げられた。


 夜が更けた頃、玉座の間へ急遽、書簡作成用の机が運び込まれた。

 その書簡の宛先は、今回の一件に関与したと目される、近隣の人間の王国であった。

 綴られた文面は、状況の凄惨さに反して驚くほど短文化されて、抑制的なものだった。


――我が魔王軍には「センシュボウエイの掟」がある。

――今回、我が領内の村が受けた被害は誠に痛恨の極みであるが、報復は行わない。

――ただし、貴国に対しては、二度とこのようなことが繰り返されぬよう、強く、強く要請する。


 背後に控えるヴォルドは、悔しさのあまり奥歯が砕けるほど唇を強く噛み締めていた。

 自らの主があの灰燼の地で黒い砂となって崩れ去った母親と子供の姿を脳裏に焼き付けながら、それでもなお、理性を保ってこの非暴力の文面を選び取ったという事実が、側近としてあまりにも切なく、耐え難かった。

 完成した書簡には重々しい城の封蝋が厳重に施され、我が軍で最も俊敏な隠密の使者の手へと託された。



     ◇



 しかし、人間側からの回答は、紙切れの形でもたらされることはなかった。

 それから三週間が経過した、よく晴れた朝の出来事だ。

 城の最も高い見張り台で警戒に当たっていた兵士が、東の遥か遠い空に変な雲が湧き上がるのを発見し、喉が裂けんばかりの声で絶叫した。

 その煙の色、禍々しい形状、そして天を覆う、きのこの雲。

 他に見間違いようなどあるはずがなかった。


 それは、つい先日訪れたばかりのロングケープがある方角に他ならない。

 ヴォルドが急報を受けて物見の最上層へ駆けつけた時、距離が離れすぎているせいで、あの時のような凄まじい暴風が肌を打つことはなかった。

 あまりの遠さに、世界を灼く光も大地を揺るがす音も、何一つこちらには届かない。

 しかし、東の地平線の彼方では、巨大なきのこ雲の残骸が、冷酷な現実として形を変えながらじんわりと崩落していく光景がはっきりと視認できた。

 いつの間にか隣に立っていたイルミナは、仮面の奥に隠されたその瞳を大きく見開いたまま、あの呪わしい煙の塊が完全に空へ溶けて見えなくなるまで、一度として瞼を閉じようとはしなかった。


「……これが、答えですか」


 仮面の裏側から、乾いた低い声が漏れ出た。

 それは特定の誰かに向けられた質問ではなく、吐き捨てられた独白のようだった。

 当然、その問いに対して言葉を返せる者など、この場には存在しない。

 その日の夜、人気のない玉座の間にヴォルドを呼び出したイルミナは、感情の起伏を失った声で告げた。


「ヴォルド。私は間違っていました」


 ヴォルドは彼女の前で片膝を床につき、主の次の言葉を待つために深く頭を下げ続けた。


「理念だけでは人は救えない。掟だけでは、村が燃えるのを止められない」


 それは悲しみが行き着くところまで行き着き、感情を無くしてしまったような、底冷えのする響きだった。


「私にも、同じだけの力が必要なんです」


 ヴォルドは肯定も否定もせず、重苦しい沈黙を保った。

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