第100話 便箋
夜が、深くなっていた。
応接室の片隅、小さな灯りの下で、俺は一人だった。
懐から、リーシャに託された魔法の手紙を取り出す。
遠く離れた相手に、文字を届ける道具。ただし、許された通信は、一往復きり。送れるのは一度だけ。返事も一度だけ。それきり、この紙はただの紙に戻る。
だから、何を書くか、ずっと考えていた。
ペンを取り、しばらく白い便箋を見つめた。
書きたいことは、山ほどあった。地の底で見たもの。先代魔王の正体。聖剣の真実。悪魔のこと。国王への、あの推測。勇者一行のこと。
だけど、一往復きりだ。長々と綴っている余裕はない。
俺はペンを走らせた。
『魔族領で暮らすことにした。あとは頼む。そちらの様子も知らせてくれ』
散々悩んだ挙句、書いたのは無事を伝える一行のみ。
ここに留まると決めた覚悟。そして、王都の動向を問う、一行。
国王のこと。レオンのこと。エレーヌのこと。あの推測を確かめるためにも、向こうの様子を知らなければならない。
ペンを置いた。しばらく書き終えた文字を見つめた。
短い。あまりにも短いかもしれない。でも、今はまだ、これでいい。
すると。書いたばかりの文字が、ふっと、淡い光を帯びた。
青白い光。
一文字、また一文字。インクの線をなぞるように、光が走っていく。
そして、紙全体がその光に包まれた。それは静かに明滅し、やがて収まった。
光が引いたあとも文字は消えず、そのまま紙の上に残っていた。
送信された。
俺の言葉は、遠く王都のリーシャのもとへと飛んでいった。あとは返事を待つだけだ。
十分ほど経過したときだった。
手の中の便箋が、ふたたび淡く光を帯びた。
来た。俺は息を詰めて、その便箋を見つめた。
光の中から、文字が滲み出してくる。
知っている筆跡、リーシャの字だ。少し癖があるが、几帳面な。
俺の書いた一行の下に、一文字ずつ浮かび上がっていく。求めていた王都の動向だった。
そして、読み進めるうちに俺の指先が、冷たくなっていった。
——王国で、魔族討伐の戦争準備が始まっている。
息が止まった。
目が、その一行に貼りついて動かなくなる。
戦争準備。王国の方から、魔族領へ攻め込む。そういうことだった。
二百年、人間は魔族を「悪魔」と取り違えたまま、小競り合いに徹してきた。その均衡が、今、崩されようとしている。
悪魔の手口が、力ある者の心に潜んで対立を煽ることなら、これは地下で読み解いた推測の、その通りの動きじゃないか。
一往復が尽きた。
「……っ、待て」
戦争を止めろ。回避の策を講じろ。国王を疑え。書きたいことは溢れていた。
だが、ペンで書いても文字は、光らない。
ただ、黒い文字が、紙の上に乗っているだけで、もう送れなかった。
魔法の手紙は、ただの便箋になってしまった。
近況を交わすだけのつもりだった。
無事を伝えて、様子を訊いて、それだけのはずだった。
その、たった一度きりの通信が。
最悪の報せを運んできたきり、連絡の糸をぷつりと断ってしまった。
「ゼンさん?」
声に、はっと顔を上げる。
いつの間にか、イルミナがそばに来ていた。素顔のまま、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「どうしたの。顔色が……」
「王国が」
俺は、掠れた声で言った。
「戦争を、始めようとしてる。魔族領に攻め込むつもりだ」
イルミナの表情が、強張った。
「それは……確かなの」
「仲間からの報せだ。間違いない。しかし……」
俺は、もう光らなくなった便箋を、握りしめた。
「もう、返事ができない。通信は一往復きりだった。止めろとも、調べろとも、何ひとつ返せない。糸が切れた」
焦りが、胸の中で渦を巻いた。
知ってしまった。動きを知ってしまったのに、向こうへ手を伸ばす術がない。
リーシャとミレナは王都にいる。戦争の準備が進む城の中に。彼女らに伝えなければならないことが、山ほどあるのに。
俺の手元には、もう何も残っていない。
その時だった。
応接室の卓の上、雑多に積まれた紙の束に、イルミナの目が留まった。
彼女は、その中から一枚を、何の気なしに手に取った。
「……ねえ、ゼンさん。これ」
フローラ王女が、王城で俺に渡してくれた手記の中に挟んであった手紙だった。
お守りのように、ずっと懐に入れていた。
「それが、どうかしたか」
イルミナは、その紙を灯りに透かして、ふと、首をかしげた。
「これ、もう一枚あるじゃない」
俺は、眉を寄せた。
「何を言ってる。それはフローラの手紙で……」
言いかけて。
言葉が、止まった。
イルミナが透かしているのは、フローラの手紙だ。それは間違いない。
だけど。
その紙の——質感。
今しがた、送った魔法の手紙と全く同じだった。
心臓が、跳ねた。
俺は、フローラの手紙を奪うように受け取って、灯りに透かした。
間違いない。同じだ。フローラの手紙は、その紙で書かれていた。
俺は、呆然と呟いた。
「これは、ただの紙じゃない。あの魔法の手紙と、同じだ。対になるもう一枚がフローラの手元にあるはずだ」
フローラは、魔法の手紙だと知っていて書いたのだろうか?
俺がいつか気が付くと想定し。
俺は、震える手でペンを取った。
フローラの置き手紙の、余白に今後やってほしいことを二つだけ書いた。あとは、向こうに丸投げとした。これはリーシャへの信頼もあるが、完璧な解決策をすぐに思いつかなかったからだ。
最後に、新星商会のリーシャへ必ず届けてほしいと締めた。
文字が、ふっと滲んだ。
リーシャの魔法の手紙と同じように文字が光っていく。
俺は、息を詰めて待った。届いてくれ。頼む。
わずか五分ほど経って、紙の上に、新しい文字が滲み出してきた。
丸みのある、優しい筆跡。
フローラの、字だった。
『——必ず、リーシャに伝えます』
迷いのない一行だった。これで往復した。もう、ただの便箋に戻った。
状況を察したんだろう。何が起きたのか、まだ何ひとつ説明していないのに。それでも、フローラは、たった一行で応えてくれた。
断たれたはずの糸が。
別の一本で、たしかに繋がり直した瞬間だった。
俺は、その文字を見つめたまま、ふっと、肩の力を抜いた。
まだ、終わっていない。
届く先が、ある。
◇
同じ頃、天幕の中。
灯火がひとつ、机上の地図を黄色く照らしていた。
エレーヌは、その机に向かい、一枚の魔法の手紙にペンを走らせていた。
ゼクスに命じられた、戦果報告だった。彼女は、事実だけを並べようとした。
魔王軍の幹部を、二名討った。だが、魔王本人は取り逃がした。
そして、イリアは死亡、ガラン、ゼン、ノクトの三名が敵に寝返った。
それだけだ。それだけを書けばいい。
なのに、ペンを持つ手が、途中で何度も止まった。
書けないことが、あまりにも多かった。
魔族が、『センシュボウエイの掟』をかたくなに守りつづけていたこと。攻めてくる勇者を、ぎりぎりまで殺さずにいたこと。
魔族領の街が、人間の街と何ら変わらず——いや、それ以上に穏やかで、子どもが笑い、市が立ち、ただ静かに暮らしていたこと。
そして。
灰になった二つの村のこと。あの日、自分が放った魔法で消えた、無数の命のこと。
どれも、報告には書けなかった。
書けば、これまで信じてきたものの、土台が崩れる気がした。
ペン先が、白い紙の上で迷うように震えた。
結局、彼女は、最初の三行だけを書いた。
——幹部二名、討伐。
——魔王、取り逃がし。
——イリアは殉職、ガラン、ゼン、ノクトは寝返った。
それだけを、淡く光らせて、送った。
返信は、すぐに来た。
文字が紙の上に浮かび上がる。ゼクスの筆跡だった。
短い一文。
『幹部二名は評価する。速やかに帰還せよ』
エレーヌは、しばらくその文字を見つめていた。
評価する。帰還せよ。それだけだった。
イリアのことも、寝返った三人のことも、何ひとつ、問われなかった。まるで、すべてが些末なことであるかのように。
命令の文面が、彼女の喉の奥に小さな棘をひとつ残した。
飲み込もうとしても消えない。
いつまでも、そこに刺さったままだった。




