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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第7章 王都決戦

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第101話 糸

 翌朝。

 離れの応接室の卓に、古い大陸地図が一枚、広げられていた。

 羊皮紙は端が擦り切れ、人間領と魔族領を分かつ山脈の線も、長い年月のうちに薄れている。それでも、二百年動かなかった国境が、そこにはっきりと刻まれていた。


 俺は地図の前に立ち、その向こうにイルミナがいた。

 今は仮面をつけている。魔王の顔だ。

 卓の角に、腕を組んだガランが寄りかかっている。ノクトは話に加わるでもなく、窓辺に腰かけて、外を眺めていた。


「結論から言うわ」

 イルミナが、地図の上に指を置いた。人間領の王都のあたりだ。

「まともにぶつかれば、魔族は負ける」


 誰も、口を挟まなかった。

 彼女は、感情を排した声で続けた。


「三度の暴竜の討伐戦で、戦力は大きく削られている。さらに、ギデオンは寝たきり、ヴォルドは目を覚まさない。動かせる幹部の数も、兵の数も、以前とは比べものにならない」

 指が、人間領の上を滑る。

「向こうには、頭数がある。補給線がある。王都の工房は武器も魔導具も、いくらでも吐き出してくる。そこに、勇者レオンと、エレーヌ」

 仮面の奥の目が、すっと細められた。

「持久戦になれば、先に干上がるのは魔族のほう。二百年、それは一度も変わってない」


 冷たい現実だった。

 だが、彼女がそれを真正面から並べたことに、俺はむしろ安堵していた。希望的観測で動く相手ほど厄介なものはない。


「足りないのは、力じゃない」

 俺は、口を開いた。

 全員の視線が、こちらに集まる。

「頭数だ。ただ数を集めればいいって話でもない。本当に必要なのは、その頭数を動かすための『旗』だ」


「旗?」

 ノクトが、窓辺から首だけこちらに向けた。


「ああ。掲げれば、人が集まる。集まった連中が、同じ方向を向く。そういう旗だ」

 俺は、地図の上を指でなぞった。北の魔族領から、王都へと続く街道。その途上の、かすれて記された一帯を指す。

「獣人だ。八十年前、獣王ロガルが膝を折って以来、まとまった国も持たず、人間の地に散らされ、奴隷同然に扱われてきた連中。しかし、数だけなら、決して少なくない」

 指を、魔族領と、散らされた獣人の地のあいだに置く。

「魔族と獣人。本来なら、手を取れたはずの二種族だ」


「——本来なら、ね」

 俺の言葉を、イルミナが静かに遮った。

 仮面の角度が、わずかに伏せられる。

「わたしは、真実を知った。グランドールを焼いたのが、王国の差し金だったことも。手を下した獣人が、金で雇われた駒だったことも」

 彼女の指が、地図の上の、共生村のあった一帯に置かれた。

「でも、城下の民は、知らない。あの子たちにとって、十五年前に同胞を殺したのは、今も獣人のまま。ガランが城下を歩いたとき、向けられた目を、あなたも見たでしょう」


 俺は、答えなかった。

 エルバラの街で、ガランにだけ注がれた、あの忌避の視線。あれは、忘れられるものじゃない。


「連合を掲げた瞬間、まず割れるのは、向こうの軍じゃない。こっちの内側よ」

 イルミナの声は、責めるものではなかった。

 ただ、当事者として、現実を卓の上に置いた。


「それでいい」

 俺は言った。

 全員が、こちらを見た。

「その憎しみを植えたのは、王国だ。魔族と獣人が手を取り合う絵図。その芽を、共生村ごと焼いて消した。グランドールも、ワイドランドも、ロングケープも、全部そうだ」

 俺は、地図に手のひらを置いた。

「つまり、誰も“描かなかった”んじゃない。描かせて、もらえなかったんだ。なら、王国が二百年潰しつづけてきたものを、今度はこっちから描く。そう。だからこそ、向こうには読めない」


 応接室が、静まり返った。

 突拍子もない話だという自覚はある。内側が割れる危険も、嘘じゃない。だが、その理由ごと超えなければ、勝ち目はない。


 俺は、ゆっくりとガランへ向き直った。

 彼は腕を組んだまま、まだ何も言わない。


「獣人をまとめ上げられるのは、お前しかいない」

 俺は、言葉を選んだ。

「同胞のなかに、お前の根がある。お前が何を背負って、どこから来たか。理由は、お前が一番よく知ってるはずだ」


 ガランは、答えなかった。

 組んでいた腕が、わずかに固くなった。それきり、彼は長いこと、目を伏せていた。

 窓から差し込む朝の光が、その横顔に落ちている。何かを、ずっと昔から抱えている男の顔だった。


「……エルナ郷か」

 やがて、彼は低く、それだけを漏らした。


 あの郷の名が、口にされた瞬間。

 ガランの声が、すべてを語っていた。妹の墓のある場所。同胞を置いて出てきた負い目。封じてきた何かを、ほんの一センチだけ、こじ開けたような声だった。


 本当の理由は、まだ言わない。

 お前がロガルの血を継いでいることも。その血が、いずれ獣人をまとめる本物の旗になることも。それを背負わせるのは、今じゃない。

 俺は、胸の奥で、そっとその札を伏せた。


「詳しくは、向こうで話す」

 俺は、それを引き取った。ガランは、小さく顎を引いた。

 話を、先へ進める。

 もう一つ、片付けておかねばならない問題があった。


「問題は」

 俺は、地図の上に置かれた、人間領の駒へ目をやった。

「エレーヌの『エクスプロージョン』だ」


 あれは、一発で戦況を塗り替える。

 灰になった二つの村のことは、ヴォルドから聞いている。あの規模の魔法が戦場で放たれれば、連合がどれだけ頭数を揃えたところで、一掃される。


「……それ」

 ぽつり、と声がした。

 イルミナだった。

「わたしも、撃てる」


 俺は、彼女を見た。

 仮面の下で、その目が伏せられている。


「……あんな、人を一掃するだけの魔法。誰かの村を、まるごと焼くようなもの」

 声が、わずかに掠れた。

「使いたくない」


 それは、魔王の言葉じゃなかった。

 あの魔法で、自分の夢を奪われた者の、言葉だった。

 灰になった、二つの村。二千の命。それが彼女にとって、ただの報告書の一行などではないことを、俺はもう知っている。

 だから、その一言を軽く受け流すことはできなかった。


 俺は、頷いた。


「使わなくていい」

 はっきりと、そう言った。

「撃てと言ってるんじゃない。持っていること自体が、戦争を止める鍵になる」


 イルミナが、ゆっくりと顔を上げた。


「考えてみてくれ。向こうにはエレーヌのエクスプロージョンがある。だから、押し切れると踏んでる。しかし、こちらにも同じものがあると知れたら、どうだ」

 俺は、卓に両手をついた。

「撃てば、撃ち返される。村を焼けば、向こうの村も焼ける。そうなると分かった瞬間、誰も最初の一発を撃てなくなる」


「……撃たずに済ませるために、撃てると知らしめる、ってこと」


「そうだ。盾だよ」

 俺は言った。

「最悪の兵器を、平和の盾に裏返す」


 卓の角で、ガランの耳が、ぴくりと動いた。

 国宝の大盾を背負い、十五年、他人を護るためだけにその身を晒してきた男だ。“盾”という言葉に、何を聞いたのかは分からない。だが、彼は何も言わず、ただ一度、深く息を吐いた。


 言いながら、胸の底に、苦いものが残った。

 俺は、それも口に出した。誤魔化したくはなかった。


「……きれいな理屈じゃない。脅しで均衡を保つだけの、後ろめたい論理だ。一歩間違えれば、本当に世界を焼く引き金になる。それは分かってる」

 俺は、イルミナの目を見た。

「そのための作戦ならある。俺を信じてくれ」


 イルミナは、しばらく俺を見返していた。

 やがて、仮面の奥で、ふっと息を吐く気配がした。


「……ゼンさん、あなたを信じるわ」


 俺は、懐から、それを取り出した。

 黒い、手のひらほどの箱。アンテナの伸びる、ごつごつした塊。

 卓の上に、ことり、と置く。


「トランシーバーだ」


 転生者が、俺たちと同じ、遠い世界の記憶を持つ者が、この世界に遺した道具のひとつだった。


 イルミナの肩が、わずかに跳ねた。

 彼女もまた、俺と同じ流れ着いた者だ。だから、その言葉だけは知っている。


「……トランシーバー。言葉は、知ってる」

 彼女は、おそるおそる、それを手に取った。仮面の角度が、まじまじと観察する仕草に変わる。

「本物、初めて見た。……これ、携帯と、何が違うの」


「あの隠し部屋の家電と、同じだ」

 俺は答えた。先代の魔王が遺した、魔力で回る冷蔵庫や、扇風機。あれと、根は変わらない。

「電気じゃなく、魔力で動く。だから電波塔もいらないし、“圏外”って概念もない。こいつ同士で、直接、声を飛ばす。繋がってる限り、どれだけ離れていても声が届く。あの魔法の手紙みたいに、一度きり、なんてこともない」


 その言葉に、自分でも、ほんの少し胸が締めつけられた。

 昨夜、使い切って断たれた、リーシャとの一往復。あの細い糸のことを、まだ俺は引きずっている。

 二度と、ああいう思いはしたくない。


「もう一台は、俺が持っていく」

 俺は、続けた。

「お前は、出陣の準備を進めてくれ。離れていても、糸は切れない」


 イルミナは、手の中の黒い箱を、じっと見下ろしていた。


「……なぁ、遠征組」

 その時、窓辺のノクトが、けだるそうに口を開いた。十三のくせに、口だけは一人前だ。

「獣人の連中をまとめるまで、何日かかるんだっけ。あんたら年寄りの足だと、着く頃には戦争、終わってんじゃないの」


「誰が年寄りだ」

 俺は呆れたが、横で、ぶはっ、と吹き出す音がした。

 ガランだった。さっきまでの重い空気を、自分で割るように肩を揺らして笑っている。

「……いい度胸だ、チビ。だが、足の速さなら、獣人の俺に勝てる人間はいねえぞ。背負って走ってやろうか」

「やだよ、毛むくじゃらに密着するの」


 ノクトが、心底嫌そうに顔をしかめる。ガランの笑い声が、応接室の空気を、ようやく少しだけ、緩めた。


 俺は、イルミナを見た。

 彼女は、黒い箱を両手で、そっと胸に抱えていた。

 仮面を、顔に当てるときと、同じ仕草で。


 ほんの一瞬。

 その肩のあたりに、魔王ではない誰かの素顔が出た気がした。撃ちたくないと言った、あの声の主が。

 戻る場所を、ここに、と願う側の人間が。


 だが、それは本当に、一瞬だった。


「いいわ」

 イルミナは、箱を下ろし、顔を上げた。

 もう、声には、何の揺らぎもなかった。魔王の貌だ。

「盾は、わたしが抱える。あなた達は、旗を立ててきて」

 彼女は、黒い箱を、もう一度だけ、指の腹で撫でた。

「必ず、繋いでよ」


「ああ」


 誰も描かせてもらえなかった、連合という絵図。

 最悪の兵器を裏返した、平和の盾。

 そして、断たれたはずの糸を、もう一度結び直すための、黒い箱。


 俺たちの手の中には、もう、それだけがある。

 多くはない。だが、足りないものを数えている暇は、なかった。


 窓の外では、朝の光が、ゆっくりと魔族領の街を照らし始めていた。子どもの笑い声が、遠くで小さく聞こえる。

 守るべきものは、ここにあった。糸の、こちら側に。


 俺は、地図を畳み、出立の支度に取りかかった。

 ガランは、まだ何も言わない。

 エルナ郷。

 あの郷の名が、彼の中で何を意味するのか。そして、彼自身がまだ知らない血が、これから何を背負わされるのか。

 俺は、その両方を、まだ口にしないと決めている。


 理由は、お前が一番よく知ってるはずだ。


 俺の言葉に、ガランは、ただ静かに、街道の続く方角を、見つめていた。

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