第102話 故郷での覚悟
出発の朝。
行き先は北東、獣人の自治区エルナ郷。散らされ、奴隷同然に扱われてきた獣人たちをまとめ、連合の旗にする、それを為せるのは、獣人のガランだけだ。
壮大な計画の、第一歩。
なのに中庭へ引き出されてきたのは、ごく普通の馬が、三頭だった。
茶が二頭、黒が一頭。たてがみを揺らして、退屈そうに尾を振っている。どこからどう見ても、馬だ。
「……馬だな」
「馬よ」
仮面のイルミナが、当然でしょう、という声で言った。
「何を期待してたの」
「いや。魔族領だぞ。ダチョウをでかくした鳥とか、小型の竜とか、そういうのが出てくるもんかと」
「鳥は気性が荒いし、餌代が馬鹿にならない。竜は、小型でも竜よ。自分より弱い人間の言うことなんて、聞くわけないじゃない」
イルミナは指を二本、順に折った。
「経済と、安全。あなたが一番うるさいやつでしょう」
ぐうの音も出なかった。
異世界転生の夢が、また一つ、消え去った。
問題は、馬ではなく乗る側にあった。
今までの移動は馬車ばかりだったが、のんびり馬車の旅をするわけにはいかない。
ガランは、ひらりと鞍にまたがると、それきり馬と溶け合った。獣人だけあって、獣の扱いはお手のものだ。残る二人、俺とノクトは、生まれてこのかた、馬にまたがったことがない。
「余裕だし」
ノクトはそう言って鐙に足をかけた。相変わらず、口だけは達者だ。
三秒後、馬が首を振っただけで、「ぅおっ」と妙な声を出して鞍にしがみついた。
「……余裕だし」
「もう一回言っても、説得力ねえぞ」
結局、出立は半日ずれた。魔王直々の乗馬指南が入ったからだ。
「落ちたら死ぬやつだろ、これ」
「死なないように教えてるの」
仮面の奥の目が、ふっと細められた。
「落ちそうになったら、格好なんてどうでもいいから、首にしがみつくこと。いい?」
「肝に銘じる」
門の前で、イルミナは胸に黒い箱を抱えて立っていた。トランシーバー。もう一台は、俺の懐にある。
「一日に一度は、繋ぐこと。報告がないと、心配で遠征準備どころじゃなくなるから」
冗談めかしてはいたが、半分は本気だろう。
彼女は、箱を撫でた。
「……なんだか、懐かしい」
その声が、少しだけ仮面の奥から漏れた素のものになった。
「ゲームのチャットを思い出すわ。毎日、他愛もないことを馬鹿みたいに喋ってたわよね。わたしたち」
俺は、少しだけ言葉に詰まって、頷いた。
「……今度のは、遊びじゃない。でも、」
俺は、懐の黒い箱に触れた。深夜、画面の向こうの彼女とくだらない冗談で夜を明かした、あの頃の気配が、指先から蘇る。
「馬鹿なことも、しゃべるかもな。……あの時みたいに」
仮面の下で、ふふ、と笑った気配がした。
それが、見送りだった。
北東へ。乾いた青空の下を、三頭はぎこちなく進んだ。
俺の茶馬は、どうやら俺を見くびっているらしかった。事あるごとに立ち止まっては、首をねじって振り返る。『お前、本当に乗れてるのか』とでも言いたげに。
「失礼なやつだな」
「ヒヒン」
「ガラン。こいつ今、鼻で笑ったぞ」
「馬に鼻で笑われる人間は、なかなかいねえな」
前を行くガランが、肩を揺らした。
その夜。約束どおり、懐の箱のスイッチを入れた。
雑音の向こうから、ほんの一拍遅れて、声が返ってきた。
『聞こえてる。ちゃんと、繋がってるのね』
イルミナの声は、少し笑っていた。
『着いたら、すぐ報告すること。いい?』
「ああ」
たった、それだけのやり取りで、箱を切った。
どれだけ離れても、声は届く。それを確かめられただけで、なんとなく、足元が軽くなった気がした。
二日目の昼、事件は起きた。
道端の藪から、野兎が一匹、跳び出したのだ。たったそれだけで、ノクトの馬が驚いて跳ねた。
「ぅわあああっ」
小さな体が、ぐらりと鞍から傾く。落ちる、と思った瞬間、ノクトはプライドも何もかなぐり捨てて、馬の首にしがみついた。みっともなく、必死に。イルミナに教わった、まさにその通りに。
馬が落ち着いて、ノクトはそろそろと体を起こした。顔が真っ青だった。
「……今の、誰にも、言うなよ」
「言うわけねえだろ」と、俺。
「言いふらすに決まってんだろ」と、ガラン。
「おい、毛玉ァッ!」
ガランの笑い声が、街道に響いた。
だが、その笑い声は、日が経つにつれて減っていった。
正確には、ガランの口数が、だ。郷に近づくほど、彼は前を向いたまま、何も言わなくなった。手綱を繰る手は巧いのに、その背中だけが、少しずつ重くなっていく。
昔の俺なら、頭上のアイコンで、それを視ていただろう。【自責】が、いつだったか【贖罪】に変わった。
だが、その目は、もうない。竜に焼かれて、無くしてしまった。
それでも、この男が何を抱えて故郷へ向かっているのかは、視えなくても分かった。
三日目の夜。火を囲んで干し肉をかじっていると、ガランがぽつりと言った。
「前に来たときは、勇者一行として、来た。妹の墓に、詫びるためだった」
炎を見たまま、ガランは枝を一本、火にくべた。
「今度は、同胞を戦に誘いに、だ。……勝手なもんだよ、俺も」
火の粉が、ぱちりと爆ぜる。
「俺はずっと、誰の上にも立たねえように生きてきた。妹ひとり守れなかった男が、人を率いるなんざ、できやしねえ」
傍らに立てかけた、国宝の大盾。その縁に刻まれた古い打ち傷を、ガランは親指で、ゆっくりとなぞった。
「だから、盾でいい。誰かの前に立って、守る側でいられりゃ、それで充分だと思ってた」
なぞる指が、止まる。
「なのにお前は、その俺に、皆をまとめてこいと言う。逆だろ、軍師殿」
責める声では、なかった。
俺は、串を火から外した。
なぜ、この男でなければならないのか。その本当の理由を、俺はまだ言わないと決めている。
「前に言ったよな。盾は、下ろさなくていいって」
「……言ったな」
「あれは変わらない。今度はその盾を、誰のために掲げるか、って話だ。誰の上にも立たねえために構えてきたものを、今度は、誰かの前に立つために使う。それだけだ」
ガランは答えず、長いこと、火を見ていた。
やがて、ふ、と鼻で笑った。
「……相変わらず、口だけは達者だな」
「なんせ『口だけ勇者』だからな」
ノクトは、いつのまにか毛布にくるまって、寝息を立てていた。
それきり、誰も、何も言わなかった。
四日目。あたりの景色に、覚えがあった。
道の脇の、痩せた畑。鎌を手にした者が、手を止めてこちらを見る。子を背負った女が、井戸端で振り返る。みな、獣人だった。首輪のない、獣人たち。
風に、干し草と獣脂と、煮炊きの煙の匂いが乗っていた。いつか王都の闘技場で嗅いだ、血と鉄と、檻の匂いとは違う。生きている者の匂いだ。
ここでは、彼らは暮らしている。痩せていても、怯えてはいない。
前に、勇者一行で立ち寄ったときと、何も変わっちゃいない。辛うじて、息をついているだけの自治区だ。
変わったのは、こっちの立場のほうだった。あのときは、通りすがりの客分だった。今度は――この連中を、戦に引き込みに来た側だ。
ガランを見て、何人かが、はっと息を呑んだ。知っている顔なのだ。
尻尾の短い子供が一人、畑から弾かれたように駆け出した。郷の方へ、一目散に。報せに行ったのだろう。
「……足の速いガキだ」
ガランの声に、ほんの少しだけ、何かが滲んでいた。
道は、緩やかな丘を登り始めた。登りきった先に、それはあった。
エルナ郷の屋根の連なりが、あの日のまま、そこにあった。
そして、その入り口に。
一人の老いた獣人が、杖をついて立っていた。
あの子供が報せるよりも、ずっと前から、そこで待っていたかのように。
長老だった。
二十年と、五年と、八十年の時を知る、ただ一人の影が。
ガランの馬が、止まる。
長老は何も言わなかった。ただ静かに、帰ってきた男を見上げていた。




